汗と誇り

 激しく肉体がぶつかり合う音が聞こえた。

 薄暗い廃工場で、ふたりの影が激しく動いている。


 埃っぽい匂いの中、拳が胸を打った。殴られた男が床に寝転ぶ。追撃を加えようと駆け寄った男に抵抗して、相手の蹴りに合わせて脚をばたつかせた。天井に空いた穴からは月明かりが降り注ぎ、僕達を照らしている。汗ばむ体をタオルで拭きながら、戌居君は僕に話し掛けてきた。


「どうだ。意外とやるだろう」

「うん。――泥臭くて、いい試合だ」

「禁じ手が少ないからな」


 そう言うと戌居君は大きく伸びをした。

 精悍な顔立ちの少年は、年上の試合を冷めた目で眺めている。


 空手の試合における禁止事項は多岐に渡った。流派にもよるが、顔面や金的などへの攻撃は禁止だ。それは重大な怪我に繋がるというのが主な理由である。攻撃を受ける側だけでなく、する側にもリスクがある。例えば、顔面が空いているからと拳を突き出す。顎や頬の骨は素人が思うよりもずっと硬い。指先を折り、肉から骨が剥き出しになることだってあった。


 ルールがなければ、試合はもっとグロテスクになる。

 そして、ずっとつまらないものになるのだ。


「なかなか終わらないね」

「そういうもんだろ」

「そっか。そうかもね」


 実戦を想定した試合を眺めながら、僕はぽつりと呟いた。

 空手の試合では使用できない、投げ技や絞め技も使っていた。獣が唸るような声を響かせながら、三十代の男がふたり、素手で戦っている。相手を取り押さえ、活かしながら捕まえることが彼らの目的だ。ただ単純に、相手をぶちのめせば最強が宣言できる――などと考えないからこそ、技の組み立ての難易度も高い。


 肩へ殴りかかった男が、そのまま相手を取り押さえようと体重を掛けた。受ける側の男はわざと腰を落とし、相手の勢いも利用して地面へと転がる。受け攻めがめまぐるしく入れ替わって、そこにあるのは武術とも呼べない何かだった。泥臭いのに、心を惹かれるものがある。月もない夜に、煌々と輝く星を見つけた感動とでも表現しようか。


 僕の様子をみて、戌居君が肘で突いてくる。


「俺達も遊ぶか?」

「……やめておくよ」

「まだ脚が痛むのか」

「うん。多少ね。困ったもんだよ」


 左脚の傷に触れて、たいしたことじゃないと強がってみせる。

 今の僕は、通り魔との戦闘を経験する前よりもずっと弱くなっていた。


 表の武術しか知らない雉畑には勝てた。空手部の部員の大半にも、五分の条件で挑めば負けないだろう。だけど、戌居君が戦っている悪意あるものたちと正対した際に、生きて朝陽を拝む自信がない。


 生死を掛けた戦いを経験してしまったせいで、常に攻防の選択肢が広がっている。相手に拳を出すとき、昔はただ胸や腹を狙えばよかった。それしかなかったし。でも今は、相手の顔面や股間などの急所を打つことも想定してしまっている。悪に染まり切れない心は相手の急所へ伸びる手を止め、関節を壊すべく放つ蹴りの威力は落ちてしまう。結果として、僕は反撃の隙を晒すことになるだろうし、そうなったが最後、待ち受ける結末は死あるのみだ。


 やっぱり僕には、と考えたところで肩を叩かれた。

 相手は戌居君だ。


「なぁ天童。お前はヒーローになりたいか?」

「……戌居君ってさ、意外に熱い男だよね」

「うるせぇ黙れ、俺にも気分ってのがあるんだよ」


 彼は咳き込んで、少し視線を逸らす。


「やろうぜ。少しだけ」

「僕、怪我人なんですけど」

「一分だ。それならどうだ」


 六十秒、とわざわざ言い換えてくれる。

 左脚に手を当てて、少しだけ迷う。

 迷う振りをする。

 静かに立ち上がった僕は、既に戦闘準備を終えていた。


「やろうか」

「遊ぶだけだからな。雉畑ほど本気ではやらない」

「でも実戦仕様の遊びでしょ?」

「……へっ、お前もお調子者だな」


 戌居君は笑みを浮かべると、僕に向けて手を伸ばした。

 握手はしない。手の甲を打ち合わせて、僕らは試合を開始した。


 空手の要領で近づくと、彼は迷いなく貫手で攻めてきた。当然、空手の正試合なら禁止の技だ。雉畑がいたら怒っているだろう。僕は彼の攻撃を受けることなく、身体を半身にして避けた。続く攻撃のいくつかは僕に当たったが、芯を避けることで威力の減衰に成功した。待っていても攻守が入れ替わることなどない、そんな当たり前を彼は再確認させてくれる。


「いいね。楽しいじゃん」


 戌居君が拳ばかりを使ってくるから、僕は脚技を使うことにした。

 正確に、膝だけを狙う。流石に逆くの字に折るわけにもいかないから、横から振り抜いた。二度蹴りを入れたところで、彼は僕の軸足を狙ってくる。カウンターだ。次は僕が拳を打つ番、と足元に集中し始めた戌居君の逆を行く。綺麗に胸へ入って、戌居君の唇から呼気が漏れた。


 戌居君はタフだった。簡単には切れない集中力と、折れることのない自信に満ちている。打ち合い、蹴り合い、身体が痛みに熱を持ったところで一分を知らせるブザーが鳴った。空手の試合よりもずっと短いのに、全身疲労で動けない。滝のように流れる汗がひどく不快で、僕はその場に崩れ落ちた。戌居君は立っていたが、膝が笑っている。意地だけで立ちの姿勢を維持しているらしい。すごいな。


「天童。この緊張感を、十五分は維持できないとダメだぞ」

「マジ? なんで?」

「いつ、どこで襲われるか分からないからな」

「……悪い奴も、一人とは限らないしね」

「そういうことだ」


 なるほど、と納得してみせた。

 額に汗をきらめかせる戌居君が手を差し伸べてきて、今度こそ握り返す。僕は、弱者救済と勧善懲悪の二枚看板を掲げる組織へと正式な入門を果たせたようだ。


「ようこそ、喜慈キジの会へ」

「キジの会、ねぇ……」


 雉畑の顔が一瞬だけチラつく。

 男同士の秘密を、彼女にも教えるべきかどうかだけ、少し僕は悩むのだった。

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