試合と仕合
翌朝、早速道場に――とは行かなかった。
流石の僕にも準備の時間が必要だ。部屋の隅で埃をかぶっていた道着を洗濯して、最低限の準備運動を済ませて。戌居君たちと約束をして丁度一週間が経ってから、僕は道場へ足を運んだ。
戌居君の話では、今日の部活は休みらしい。部長や顧問にも話を通してくれていたのか、武道場の鍵は開いていた。当然だ、開いていないと雉畑との試合が成立しない。良かった、と扉をくぐった僕は予想外の事態に面食らう。
空手部員たちが、僕を出迎えてくれた。
ひぃ、ふぅ、と指折り数えてみたら両手の指じゃ足りなかった。舌打ちと口笛のどちらを披露するか迷って、僕は後者を選択する。どうやら、僕と雉畑の試合に誰もが興味津々のようだ。
「随分と観客が多いんだね」
「みんな、お前が好きだからな」
「ははっ、ご冗談を」
笑ってごまかしてみる。無駄っぽいな。
僕と雉畑が試合を行う。その程度のこと、と割り切れない程度に彼らは強さに飢えている。空手を辞めても、天才少年という肩書は大層な効力があるようだった。
「お前等、関係者以外には秘密だぞ」
「責任は誰が取るんだよ」
「俺に決まってんだろ。次世代の部長だぞコラ」
指を立てながら、戌居君が部員たちと話をしている。
どうやら、戌居君が審判役を買って出てくれるらしい。彼は僕の肩に手を置いて、頑張れよ、とエールを送ってくれた。憐れむような視線は、僕ではなく雉畑に向けられている。恐らく、この道場内にいる人間で最も俯瞰的な立ち位置にいるのが彼だろう。物見遊山で壁際に立つ部員よりも、審判をやってくれる彼の方が冷めているというのが、どうにもちぐはぐだけど。
「準備はいいか?」
「あぁ。いつでもいいよ」
「私も大丈夫。どうぞ。ご自由に」
戌居君の言葉に軽く頷く。
雉畑は、教室で攻防した日よりも更に真剣な表情をしていた。
「雉畑、随分と緊張しているね。リラックスしなよ」
「……ろすぞ」
「おっかない子だなぁ」
青筋を立てた雉畑から視線を逸らして、壁際から視線を送ってくる名前も知らない空手部員たちに挨拶の一礼をした。そういえば、入学してすぐの頃にも似たやりとりをした気がする。最強の肩書に惹かれる性質に男女の垣根はなく、雉畑は最強であることに執念を燃やしている。なるほど、僕が足を怪我した原因も考慮すれば、彼女が僕に対して怒りを燃やす理由もおぼろげながら理解出来てきたぞ。
コンビニの強盗相手に、僕は手も足も出なかった。
僕が最強だと思っているから、それが許せない。
僕が脚を怪我した理由も、それと似たようなものだし。
「この中に、僕が怪我をした理由を知っている人!」
壁際に立つ部員たちに声を掛けてみる。
彼らは少し驚いたような表情をしながら、誰も首を縦に振らない。
ふぅむ。事情通なのは雉畑だけなのか。説明しておこう。
「僕が怪我をしたのは、通り魔から美人を助けたからだよ!」
「――そして、返り討ちにあったの」
「失礼な。ちゃんと勝ったよ」
「その怪我で、よく言えるわね」
死んでないなら上出来だと思うけどなぁ。
朗らかに示した解答に、部員たちがざわめいた。
噂程度には聞いていたのだろう。
突発的な悪意に、咄嗟の判断で対応した。一か月前の夜、道場からの帰り道のことだ。ナイフを持った通り魔の男から、名前も知らない初対面の女性を助けるために行動したのだ。
空手の全国大会で優勝するほどの実力を持っていながら、僕は素人の男に手酷くやられた。滅多刺しだ。死ぬかと思った。武術って、なんだ、こんなものなのかと心底から落胆した。僕が強いのは畳の上だけで、たった一人を救うためにも命懸けの戦いをしなくちゃいけなかったんだ。最強の称号を信じて日々の鍛錬を続けていた人間にとって、この痛みは大きい。敗北こそしなかったけれど、それこそ、それまでに積み上げてきたものが無意味に思えるほどに。
「そして、僕の内面を読み取れるほどのファンがいたことには驚きを隠せない」
「……何をぶつぶつと」
「おっと、しまった」
言葉に出ていたようだ。気を取り直して、僕は構えを取る。戌居君の合図と共に、試合は静かな立ち上がりを見せた。
左腕を前に出して半身になり、握った拳で牽制する。引いた右足をバネに、僕は雉畑の前へ踏み込んだ。彼女の間合いに入り込み、体重を乗せた蹴りを放った。脚を怪我しているのは周知の事実だ。その上で蹴りを、しかも怪我をしている足を軸にして放ったことは意外だったようだ。反応が一瞬遅れたが、彼女は僕の蹴りを捌いて踏み込んでくる。
あぁ。
「甘いな」
簡単な拳の攻防。少し距離を取って呼吸を整える。
誰もが考える、ありきたりな受け攻めは、つまらなかった。
開始わずか十秒で、僕は後ろ回し蹴りを放った。華麗な円を描く蹴りに、彼女の防御が崩れる。ふらついた脚を蹴り、腕が下がったところへ拳をねじ込む。あまりにも簡単に、雉畑希林は畳の上へと沈んだ。戌居君が合図をしてから、二十四秒の出来事である。
「…………」
「どう? もう一戦やる?」
「……行くわよ」
二試合目。
開始十五秒で、僕は雉畑の腹を蹴り抜いた。完璧に鳩尾へ入った蹴りに、彼女は身体をくの字に折って畳へと倒れ込む。駆け寄った戌居君を追い払って、彼女は野犬のように僕を睨む。
誰も、何も言わない。
何も言えないようだ。
歓声も悲鳴も聞こえない。雉畑は決して弱い空手家じゃない。なのに、一分と持たずに負けたことが信じられず、壁際の部員たちは固唾を呑んで見守っていた。試合でも打ち合いがある。打ち合って、崩しがあって、そして判定に持ち込んで勝利をもぎ取るのだ。それがなく、ただ一撃で沈む空手家を前にして、部員たちは何も言えないでいた。
「この技、試合じゃ使うなよ」
「……使わ、ない」
「まぁ使えない技もあるしね」
二度、三度と試合を重ねても雉畑に勝機は訪れない。彼女が四度、膝をついたところで僕の左脚に限界が来た。骨の髄まで痺れるような痛みに、僕はお尻から畳へと落ちる。これを好機とみて飛び込んでくるほど勝利に飢えていなければ天才とは言えないが、雉畑は恨みがましい目で僕を見つめるだけだ。
「な? つまらないだろ?」
実力の差があるのだ。
そして、それでも僕は「最強」ではなかった。
だから、この場にいる誰にも僕を癒すことは出来ない。
空手がつまらなくなれば、高校に行く意味も薄れて、あぁ、僕の居場所はどこにあるのだと日々考えるだけだ。僕が求める最強の姿は決して美しいものじゃなかった。それを理解したら、あとは追いかけることもせずに日々を懊悩と生きていくしかないのだ。まぁ、半分は諦観による適当な台詞である。
「それじゃ、僕はこれで――」
「待てよ、天童」
僕を引き止めた声に振り返る。戌居君だった。彼は筋肉質な身体を解すように、精一杯の背伸びをした。深々と溜め息を吐いて、心底から嫌そうに顔をしかめて、そして拳を握りしめる。
僕の胸倉をつかむと、一切の躊躇と遠慮をかなぐり捨てた拳骨を振り切った。金槌で殴られたのかと思うほどの衝撃に、視界が歪む。口に広がる鉄の味と、畳にこぼれた赤い雫。それは一か月前の僕が感じて、恐怖して、そして振り切れなかったものの残滓。
「これでいいのか、天童欣士」
「……いいね。まだ、見込みがあるよ」
「そうか。最悪な野郎だ」
渋い顔をした彼の手を握って、僕は立ち上がる。
目を見開いた雉畑が、僕と戌居君を見つめている。
僕の最強を打ち崩した「最強」の正体に、彼女もようやく気付いたようだった。
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