山の魔王の宮殿にて。

増田朋美

山の魔王の宮殿にて。

その日は、朝は寒くても昼間は暑い時間が続いていた。なんだかもう暑いので当たり前になってしまうような、そんな感じの日が続いているこの頃である。そんな日々だから、水穂さんのような、弱い人は、やりにくいだろう。それでは、なんだかよりいきにくい社会になっているような気がしてしまうのである。

その日も、製鉄所では、杉ちゃんが咳き込んでいる水穂さんの背中を擦って、楽になるようにしてやったりして、もう、こんな時になんでこうなるかなあとか言いながら、一生懸命世話を焼いていた。やっぱりこういうときは、水穂さんのような人は、体に堪えてしまうのだろう。水穂さんは、咳き込んでなんだかとても辛そうだった。そんな事をしていると、

「こんにちは、あの、右城先生、いらっしゃいますか?」

と、誰か聞き覚えがある声がした。

「ああ、山村千歳さんだ。一体こんなときに何をしに来たのかな?」

杉ちゃんがそう言うと、咳き込んでいた水穂さんが、

「歌っているのは、グリーグの山の魔王の宮殿にてですね。」

と、小さい声で言った。確かに、子供が歌っている声も聞こえてきた。このふしぎで不気味なメロディーは、たしかにグリーグの作曲した、劇音楽ペール・ギュントの挿入歌でもある、山の魔王の宮殿にてという歌である。

「ああ、ホントだ。」

と、杉ちゃんがいうほど特徴的なメロディーだと思う。

「なにか、音楽の授業でもあったかな?」

杉ちゃんがでかい声でそう言うと、

「こんにちは!」

と明るい声で、千歳さんの一人娘である山村和久子さんの声がした。

「一体どうしたの?なにかまた学校でトラブルがあったか?」

杉ちゃんがそう言うと、

「相談に乗ってもらいたいんです。どうしても、自分の中ではためて置けなくて。」

千歳さんの声がした。

「馬鹿に頻繁にやってくるな。」

と、杉ちゃんが言うと、

「仕方ないじゃないですか。お母さんになって、まだ六年しか経っていないのですから、疑問が出て当然です。それに、受け皿になる場所も何も無いので、僕達が相談に乗るしか無いと思いますよ。短時間なら、相談に乗りましょう。」

水穂さんは、口元を拭きながら、そういう事を言った。

「そうか。それなら入れ。」

と、杉ちゃんが言うと、

「ありがとうございます。じゃあ、お邪魔させていただきます。」

「お邪魔します。」

千歳さんと和久子さんは、二人揃って、四畳半にやってきた。

「今日は、暑いですね。お体大丈夫ですか?大変だとは思いますけど、すぐに済みますので、相談に乗ってください。」

千歳さんは、水穂さんに言った。それと同時に和久子さんがまた、山の魔王の宮殿にてのフレーズを歌い出すのだった。千歳さんは、ほら、やめなさいというが、和久子さんはどうもそのフレーズが気に入ってしまったようで、歌うのをやめないのだった。

「良いじゃないですか。グリーグのそのフレーズがよほど気に入ったんですよ。」

水穂さんがそう言うと、

「ええ、実はそうなんです。それを相談したくてこちらに参りました。今日学校で音楽鑑賞会があったらしくて、富士のアマチュアオーケストラが、ペール・ギュント組曲を上演したそうですが、それを和久子が気に入ってしまったらしく、学校から帰ってきてからずっと歌い続けているものですから、心配になりまして。」

と、千歳さんが言った。

「はあ、誰でも、好きな歌を口ずさむ事は、すると思うんだがな?」

と、杉ちゃんがいうと、

「そうなんですけど、こういうフレーズをなぜ、何回も歌うのか私もわからないです。例えば、ベートーベンのソナタのフレーズとか、そういうところを口ずさむというのならわかりますけど、なんで、こんな気持ち悪い音楽というか、なんと言いますか、なんで、こんなフレーズを、、、。」

と千歳さんは言った。

「まあ、そうかも知れないですけど、それを言ってしまうと、グリーグを差別してしまうことになりますよね?」

水穂さんが言った。

「うーん確かに、口ずさんで、とてもきれいな音楽というわけじゃないよな。」

杉ちゃんも言った。

「ですよね。和久子がそういうところに興味を持ってしまうというところも、もしかしたら、おかしなところがあるのではないかと思ってしまうのです。だから心配でならなくて。それで今日は、こさせていただいた次第でして。」

千歳さんはとても恥ずかしそうに言った。

「そうですね。まあ、たしかに、美しくはないと思いますけど、でも、和久子さんが好きな曲なんですから、口ずさんでも良いと思うのではないでしょうか。それを、否定してしまうのは、良くないと思います。和久子さんは、いずれにしても、普通の女の子という感じではありません。ですから、普通の人が、好きではないものを好きだと言ってしまうことがあるかもしれません。それは仕方ないことだと思って、受け入れてあげるしかないのでは?」

水穂さんが、そう言うと、和久子さんが、

「おじさん、ピアノ弾いていいですか?」

と和久子さんが言った。水穂さんがどうぞというと、和久子さんはちょこんと椅子に座って勝手にピアノの蓋を開けて、山の魔王の宮殿にてのフレーズを弾き始めた。水穂さんが、よいしょと立ち上がって、和久子さんのメロディーに伴奏をつけてくれた。和久子さんは、とてもうれしそうに更に続けて弾き始める。

「やっぱりこいつは、普通のやつと違うよ。まあ、制服を着用しないとしても、学校を変えたのは良かったね。あとは、そうだなな、和久子さんが将来、安心して生活していけるように、持っていってやることだな。」

杉ちゃんが和久子さんを見てそういった。

「わかりました。和久子は普通の子とは違うことは、もう学校の先生にも言われてますから、普通の子とは好みが違ってたり、態度が違って当たり前だと思わなければならないんですね。それなら、お願いがあるんですけど。」

と、千歳さんは言った。

「ピアノレッスンしていただけないでしょうか?もちろん、月謝はちゃんとお支払いしますので、ちゃんと和久子がピアノが弾けるように指導してやってほしいんです。私は、音楽には何の知識も無いのですので、だったら、身近なところで、そういう知識のある方にお願いしようかと。」

「はあ、そうですか。それでも、水穂さんの体のことが、心配だけどねえ。」

杉ちゃんは言った。和久子さんは楽しそうに山の魔王の宮殿にてを弾いているのであるが、なんだかそれが、彼女の特技ではなく、彼女の持っている病気の症状とみなさなければならないのが、受け入れがたいところだった。

「でも、お願いしたいんです。先生、一万円でも、2万円でもお支払しますから。先生のような高名なピアニストに、六歳の子供が習うなんて無理なことかもしれないけれど、和久子のためになにかしてやりたいと思ったものですから。」

「はあ、そうだけどねえ。まあ、特技を伸ばすというところでは、ちゃんとしてやったほうが良いかもしれないな。良いだろう。じゃあ、月に一度でも、二度でも、ならいに来てくれや。教材は、どうしようかな。」

杉ちゃんがそう言うと、水穂さんが、

「かなり弾ける方なので、いきなりソナチネアルバムの簡単な曲でも良いと思います。」

小さな声で言った。

「ありがとうございます!右城先生、本当にありがとうございます。こんな障害のある子にピアノレッスンしていただけるなんて、先生、これからよろしくおねがいします。」

どうやら、千歳さんの狙いはそこであったようだ。それを話したとき、千歳さんはとてもうれしそうだったからだ。

「大丈夫ですよ。障害があるとかそういう事はあまり考えないほうが良いです。障害を克服する方法は、学校の先生や、他の指導員さんなどに協力してもらうなどして、彼女が世の中を渡り合えるようにしてあげてください。」

水穂さんがそう言うと、千歳さんは、更に嬉しそうな顔をした。

「ありがとうございます。ピアノは、幸い、私の母から譲って頂いたものが、古いものですけど、ありますから。それで練習させればいいですよね。あたし、どんなことがあっても、和久子と二人でいきていきますから、よろしくおねがいします。」

「はあ、三人じゃないのかよ?だって、女一人だけでは子供はできないわな。」

と、杉ちゃんがそう言うと、

「主人はいないんです。」

と千歳さんは言った。

「はあ、何かの原因で亡くなったりでもしたのか?」

杉ちゃんがまた聞くと、

「いえ、そういうわけでは無いんですけどね。でも、あたしたちにとって主人はいらない存在です。足手まといになるだけだし。それなら、いないほうが良いと思って。だから私、昔は石塚だったんですけど、山村に戻ったんですよ。それで、父と母のところに帰って。まあ、あの人達は、和久子の事に理解を示しているわけでも無いですけど、主人よりは、まだマシだと思って、切離して考えることにしました。」

と、千歳さんは答えた。

「はあ、つまり別れちゃったのか?」

「ええ。居るようでいない人はさっさと切離したほうが良いですよね。和久子のためにもならないし、それは、そうしたほうが良いって。」

千歳さんは、カラカラと笑ったが、杉ちゃんは心配そうな顔をした。

「そうだけどねえ。父親はやっぱり、いたほうが、良いんじゃないのかな?女性であれば、できることも確かにあるが、できないことも、あるよ。それは、片親だけではできないこともあるよね。」

「いえ、そんな事は絶対にありません。ああいう人はいないほうが良いんです。それよりも安定した生活を提供してあげることができて、本当に子供に愛情をかけて上げることができるのが、本当の親だと思います。だから、片親だけでもあたしが、そうなってあげようと思います。それができない人は、親としてやれないからそうなるのだと思います。」

千歳さんは、にこやかに言っているが、

「そうだねえ。まあお母さんだから、そう思いたくなる気持ちもわからないわけでも無いけどさ。でも、それは難しいというか、危険なことだと思うぞ。お母さん一人で子供を育てるというのは、難しいことだからねえ。誰か援助者が居れば、また別だが。僕もそうだったけど、孤立無援になるってことは、本当に辛いことだぞ。四面楚歌を乗り越えられるやつは、男でも女でもそうはいないからねえ。」

杉ちゃんは心配そうに言った。

「ええ、誰でもそう言いますけど、現場で役に立たない人やものは、切り離したほうが良いです。全体の利益のために、一つの悪を切り捨てることは、誰でもあることじゃないですか?」

強気でそういう千歳さんだけど、杉ちゃんは、

「うーん心配だ。」

と、大きなため息を着いた。水穂さんが、ピアノで和久子さんにペール・ギュントのアニトラの踊りを弾いてやっているのが聞こえてきた。水穂さんのような、演奏家であるからこそ、そういう音を聞き取って、伴奏をつけるという作業がすぐできてしまうのである。それはやっぱり偉い人でないとできないことだ。単にピアノができるだけでは済まない作業である。

「いえ、大丈夫です。主人なんかいなくても、私は、頑張って和久子を育ててみせますから。」

千歳さんはそういう事を言った。

その時、ガラッと音を立てて、玄関の引き戸が開いた。和久子さんたちが、ピアノを弾くのを止めた。

「はあ、どなたなんですか?」

と、杉ちゃんが言うと。

「失礼ですが、こちらに、石塚千歳という女性と、石塚和久子という小学校1年生の女の子が来ていますよね。」

若い男性の声だった。

「あ、お父ちゃんだ!」

和久子さんは、すぐに嬉しそうな顔をしていった。杉ちゃんも水穂さんも、誰が来たのかすぐに分かってしまったらしく、

「ああ良いよ。入れ。」

とだけ言った。お邪魔しますも言わないで、その若い男性は、製鉄所の中に入ってきた。ちゃんとスーツ姿で、しっかりした感じの男性である。千歳さんは、何も役に立たないと言っていたけど、そんな事は到底なさそうだった。

「初めに、何の要件でここに来たのか言ってみてくれ。」

杉ちゃんがそう言うと、

「ええ、千歳が、よくここへ通っているということを知って、もう一度やり直したいと思ってこさせていただきました。いくら役に立たないと言っても、和久子は大事な娘だし、やっぱり、二人揃っていたほうが良いと思ったので、千歳を追いかけてこさせてもらったのです。」

とその人は言った。

「お前さんのお名前は?」

杉ちゃんが言うと、

「石塚富士夫です。和久子の父親です。」

とその人は言ったのと同時に、千歳さんが、

「何を言っているの!あなたほど役に立たない人はいないわよ。和久子の転校の手続きだって、あたしが一人で全部破ったんですからね。あなたは、ただねていただけ。和久子の事なんて何もしていない。それなら、もう切り捨ててしまったほうがいい。家の頭金だってあなたが払ったと言いたいんでしょうけど、そんな事は関係ない。とにかく、和久子には、特殊な教育が居るんだったら、安定したせいかつをできる人でないと、和久子の事はやっていけない。だったら、私は、もうあなたなんて用無しよ!」

と、強く言った。

「ちょ、ちょっとまってくれ。一体どういうことなんだよ。寝ていたというのは、水穂さんだって同じだよ。なにか原因があって寝たきりの生活していたんだろうけど、でも、それは、人生そういう場面にそうぐうしなきゃならないことがあるっていうのは、誰でもあることだからねえ。」

と、杉ちゃんが言った。

「ええ、鬱になったのよ。和久子のためだって、仕事しすぎたのが原因だって言われて、一年くらい寝て過ごさなければならなかった。そんな人を、かまっていられるほど、余裕なんて無いのよ。和久子のことで精一杯なの!あなたのことまで、かまってあげられることだって、できませんよ!」

千歳さんがそう言うと、

「でも、一度失敗したけれど、またやり直すことだって、できるかもしれないじゃないか!誰だって知ってるさ。和久子みたいな子には、ちゃんと親がそう揃っていたほうが良い。それは、和久子だってそれを望んでいる。」

と、石塚さんは言った。

「でも、それができる人とできない人が居るわ。一度失敗している人に、和久子をちゃんと見切れるか、そういう保証は無いでしょう?あなた一度、和久子から逃げたのよ。それは紛れもない事実だわ。それは、ちゃんと和久子もわかるはずよ。それで、傷つくことだってあるでしょう。あなたがそうやって、逃げたことは、誰にも変えられない事実よね?」

千歳さんがそう言うと、

「そうかも知れないけど、君だって一度は、こうやって逃げようとしているじゃないか。人を馬鹿にするもんじゃない。和久子と君がどこへ出かけるか、ちょっと調べてみたら、君はこの男のもとに通っていた。しかも、銘仙の着物を着るような身分低い男にな!」

石塚さんは、水穂さんの方をみた。確かに水穂さんの着ている着物は、紺色に葵の葉が描かれた銘仙の着物である。

「まあ、そう、そうなんだけどねえ。確かに、身分というものはしょうがないものでもあるよな。」

杉ちゃんがそう言うと、

「そんな事ありません!あたしは、先生にレッスンを申し込みに来たのよ。それを、この男というような言い回しはやめてもらいたいものね!一体何を根拠に身分だなんて!」

と千歳さんが石塚さんの方を見て言った。

「いえ、ご主人の言っていることは間違いではありません。本当のことです。」

水穂さんは、石塚さんのまえに手をついて座った。

「申し訳ありません。奥さんをたぶらかすような事をしました。本当にすみませんでした。」

「何を言ってるんですか。先生が、そういう事を言うなんて。先生は高名なピアニストでしょ?それなのになんで、この人に謝らきゃならないんです?私をたぶらかすなんてそんな事!」

千歳さんがそう言うと、

「いえ、間違いありません。そういうことです。この着物を来ている人は、みんなそうなります。それは日本においては、必ず、そうなります。それは仕方ないことというか、当たり前のことです。だから、僕が奥さんをたぶらかしても仕方ありません。申し訳ありませんでした。」

水穂さんは、石塚さんに言った。

「何を言ってるんですか。先生がそんなこと。」

と、千歳さんは言っているが、

「まあねえ。理想論で言えばそうなるが、ご主人がそう誤解してもしょうがないんだよな。まあそれが同和問題ってもんだ。もう解決済みという事は決してないよ。」

と、杉ちゃんが言った。千歳さんは、

「う、嘘でしょ。信じられない。まさか私達より身分が、、、。」

と困った顔をしているが、

「大丈夫です。ご主人は少なくとも、僕のように馬鹿にされたり、蔑んだりするような扱いはされないと思います。だから、もう大丈夫です。」

と水穂さんは静かに言った。

「多分、僕と、ご主人とのことも、決して理解することができないように、ご主人と、千歳さんのこともずっと理解することはできないと思います。それをどうするかは、千歳さんとご主人の気持ち次第では無いでしょうか。」

そこまで言い切った水穂さんはもう疲れ切ってしまったらしく、少し咳き込んでしまったのであった。杉ちゃんがああ、またやると言いながら、布団に入るように促した。石塚さんのほうは、ああやっぱりなという顔をして、千歳さんのほうは、まだ戸惑った顔をしていた。和久子さんが、この光景をどう見るかわからないけれど、でも、子供なりになにか感じてくれたのではないんだろうか。

「本当は、一緒にいたいのに。」

と、和久子さんが小さな声で言った。誰かがそれをもっと大きな声で言ったら良いじゃないかと言ってくれれば良いのではないかと思ったが、杉ちゃんは、水穂さんの世話をする一方で、千歳さんも、石塚さんもそれぞれの感情にとらわれていて、和久子さんの方を見ることはなかった。ただ、それだけでなにかかわるということは無いだろうと思われるが、時間だけが虚しく過ぎていった。

和久子さんは、山の魔王の宮殿にてを演奏し続けているのだった。


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山の魔王の宮殿にて。 増田朋美 @masubuchi4996

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