夢
口羽龍
夢
裕子(ゆうこ)は1人暮らし。大阪に住む50代の女性だ。中学校の国語教員をしていて、他の教員からも慕われている。
順調な人生に思えるが、裕子には離婚した過去がある。夫の進(すすむ)は建設業を営んでいる。2人はいざかやでしりあい、けっこんした。息子の新(あらた)にも恵まれ、順風満帆な生活を送っていた。だが、進は夢を追いかけるあまり、裕子をかまわずに、寂しさを感じた裕子は離婚した。それ以来新と2人で暮らしていた。だが、新は東京の大学に進学し、親元を離れた。現在は母のような教員になるために勉強しているようだ。
年の瀬、裕子は孤独な日々を紛らわすために居酒屋に来ていた。辛い事があれば、よく酒を飲む。1人暮らしになってから、行く回数が多くなった。仕事に支障は出ないものの、気持ちに支障が出ている。
「お客さん、もう閉店ですよ」
酔いつぶれた裕子は起きた。もう今月に入って何年目だろう。その度に店員に迷惑をかけてしまう。
「大丈夫?」
向こうの席には同じ中学校で数学の教員をしている中村だ。中村は今年の4月に入ったばかりの新人で、裕子をまるで母のように慕っている。居酒屋に誘ったのは中村で、忘年会とは別に、裕子に感謝したいと思ったから開いたそうだ。
「寂しいのよ。夫と別れたし、新は上京したし」
「その気持ち、わかるわ」
中村は肩を叩いた。裕子は離婚して、1人暮らしだという事を知っている。この先結婚して、子供に恵まれても、こうなってしまうんだろうか? 裕子の姿を見ると、自分の将来が見える気がする。いつか生まれる子供よ、どうか行かないでくれ。いつも一緒にいてくれ。
「ありがとう」
泥酔した裕子は少し涙を見せた。上京した息子じゃないけど、息子のような優しさだ。
「最近、悩んでる事があるの」
「何?」
中村は驚いた。悩み事なんて何もないと思ていた裕子にも、悩み事があるなんて。
「私、夢を追いかけるだけでかまってもらえずに進さんと別れたんだけど、本当によかったのかなって」
裕子は最近、後悔している事がある。それは、進と離婚してよかったんだろうかだ。夢を追いかけ続けて、かまってくれなかったのに離婚した。だけど、息子が夢を追いかけるために上京してから、離婚して本当によかったんだろうかと思うようになってきた。どうして夢を応援しようと思わなかったんだろうか?
「どうだろうね」
「別れずに、その夢を後押しするのが妻の役目だったんじゃないかなって」
「そうかもしれないね」
中村は裕子の気持ちがよくわかった。本当に離婚してよかったんだろうか? 夢を応援するのも妻の愛だろうか? これから結婚すると思われる妻もそうであってほしいな。
「だけど、進さんはもう帰ってこない。だって、別れたんだもの」
2人は立ち上がった。もう閉店が近い。会計を済ませるつもりだ。
「その気持ち、よくわかるさ」
2人は会計を済ませた。お金は中村が2人分払ってくれた。本当に優しい後輩だ。孤独な自分を心配してくれるなんて。
2人は出口で別れた。裕子はふらつきながらもこの近くにある地下鉄の入口に向かった。中村はその様子をじっと見ている。結婚まではいかないけど、何とかして裕子を元気づけたいな。
次の日の朝、裕子は目を覚ました。昨夜は飲みつぶれて、家のソファーで寝てしまった。ソファーは3人分ある。だが、1人暮らしでは大きすぎる。3人並んでいたあの頃が懐かしい。もうあの時に戻れない。
ここ最近、居酒屋で飲むとこんな事が多い。そうなるとわかっていても、寂しいからやめられない。
突然、電話が鳴った。新からだろうか? そろそろ年の瀬だ。帰省に関する電話だろうか?
裕子は受話器を取った。
「もしもし」
「お母さん?」
「うん」
裕子は笑みを浮かべた。新だ。新の電話を聞くたびにホッとする。自分は孤独じゃないんだと感じる。
「元気にしてる?」
「元気にしてるよ」
新はほっとした。ここ最近、裕子は元気がなさそうだった。1人暮らしで、孤独にさいなまれていないだろうか?
「よかった」
「大学はどうなの?」
裕子は大学の事が気になっていた。夢を持って大学に通っている新を全力で応援したい。それが裕子の希望だ。そして、いつか一緒に住もう。
「うん。順調だよ。あっ、そろそろ年の瀬だよね。その時は帰ってくるから、よろしくね」
「うん。じゃあね」
「じゃあね」
電話が切れた。裕子は嬉しくなった。もうすぐ新たに会える。久しぶりに家族がそろう。夏休み以来だ。年末年始は紅白歌合戦などのテレビを見て、2人でいる喜びを分かち合おう。
その日の夜、進は新世界の串カツ屋にいた。裕子と離婚した進は、新しい妻と出会った。新しい妻との間には子供が生まれなかったものの、裕子といた頃より楽しい生活を送っていた。離婚した悲しみなんて忘れる事ができた。だが数年前、新しい妻は乳がんで亡くなった。新は夢を持って仕事をして、上層部に入る事ができた。だがその頃には、妻はこの世にいなかった。天国の妻はその姿を見て、どう思っているだろう。
進はえび串カツをほおばりながら、泣いていた。どれだけ酒を飲んでも忘れる事ができない。裕子にはもう会えないだろう。すでに離婚した。もう戻って来る事はないだろう。やり直そうと言っても、きっとダメだろう。
「進さん、どうしたんや」
その横の新入社員は肩を叩いた。新入社員は進の事を心配しているようだ。
「妻の事を思ってね」
進は妻の事が忘れられないようだ。妻と過ごす日々は、死ぬまで続くと思っていた。だが、こんなに早く永遠の別れになってしまうなんて。
「その気持ち、わかるわ」
「ありがとう」
進は生中の入ったジョッキを口に含んだ。涙が中身のビールに入る。
「幸せだったあの頃に戻りたいねん」
「大丈夫?」
新入社員は進の頭を撫でた。だが、進は泣き止まない。新入社員はその様子を心配そうに見ている。
「ありがとう。でももう帰ってこないんだよな」
「ああ」
進は裕子の事を思い出した。裕子がそこにいれば、寂しくないのに。もう別れてしまった。もう会えないだろう。
「もう離婚してしまったけど、裕子がそこにいればなぁ」
「そうだな。でももう別れちゃったもんな」
新入社員は離婚したらもう再婚はないと思っていた。進の気持ちがよくわかる。
「やり直せないもんかなぁ?」
「もう別れたもんね」
「うーん」
そこに、店員がやって来た。もう閉店が近い。今日はここで帰ってもらわないと。
「お客さん、もうラストオーダーですよ」
「あっ、ごめんなさい」
進は残った生中を飲み干し、席を立った。気が付けば、客は進と新入社員の2人だけだ。入った時にはけっこういたのに。こんなに店にいたのか。
次の日、裕子は地下鉄で進の勤めている会社に向かった。久しぶりに進の様子を見たいな。会話をしたくはないけど。
裕子は最寄りの駅で降りた。ここは下町で、そんなに高い建物はない。夫婦だった頃、よくこの近くを歩いたものだ。懐かしい。あの時と変わっていない。
裕子は進の働いている工場にやって来た。この日は機械の音は聞こえない。従業員は掃除をしている。どうやら今日は大掃除のようだ。
と、裕子は進を見つけた。あの時より少し老けたが、顔はあんまり変わっていない。順調に頑張っているようだ。そう思うだけでとても嬉しい。裕子は笑みを浮かべた。
裕子は近づこうとした。だが、離婚した事を許してくれないだろう。その感情が2人を引き離す。
結局、裕子は何も話す事ができなかった。裕子は寂しそうに帰路に就いた。本当は話したかったのに。なんて勇気がないんだろう。
帰りの地下鉄の車内で、裕子は下を向いていた。考えるのは進の事だけ。自分はどうして夢を追いかける進の力になれなかったんだろう。
その後、裕子は中村と喫茶店で話した。話題は進を見た事だ。
「結局、言えなかったんですか」
「はい」
中村は残念そうな表情を見せた。仲直りできると思ったのに。いつになったら仲直りするんだろう。元夫の進さんの顔を見たいな。
「せっかく近くまで来たのにねぇ」
今日、裕子が進の職場の近くに行き、会うと聞いていたが、見るだけで話しかける事ができなかったとは。相当過去が後を引いているんだな。
「言う勇気がなかったの」
「そっか」
裕子はコーヒーを口にして、気持ちを落ち着かせた。中村はその様子を心配そうに見ている。
「今夜、新が帰省するんだ。久しぶりに寂しくなくなるよ」
「よかったね」
裕子は少し笑みを浮かべた。新が帰るだけで嬉しくなる。一人ぼっちで亡くなるだけで、こんなに嬉しくなるとは。
夕方、裕子の家の最寄りの駅に若い男が降り立った。新だ。約3ヶ月ぶりの帰省だ。裕子はどうしているんだろう。元気にしているだろうか? 寂しくないだろうか?
新は家までの道を歩いた。とても懐かしい。上京するまでは毎日のように歩いた道だ。まだ上京して間もなくて、あまり変わっていない。
新は家の前にやって来た。何も変わっていない。新は家のインターホンを鳴らした。
「ただいま!」
新は玄関のドアを開けた。そこには裕子がいる。裕子は笑みを浮かべた。久しぶりに見る裕子の顔だ。
「おかえりなさい」
新は靴を脱ぎ、2階に向かった。2階には自分の部屋がある。部屋は引っ越した時とそのままだ。いつ帰ってきてもいいように残っているみたいだ。
しばらくして、新は1階に戻ってきた。リビングには裕子がいる。裕子はバラエティ番組を見ている。寂しい時は面白いバラエティ番組を見て紛らわしている。
「どう? 元気にしてた?」
「うん」
新の大学生活は順調だ。勉強をしっかりして、レポートを必ず提出し、教授などからは信頼されている。夢に向かってただ進むのみだ。裕子はそんな新を誇らしげに見ている。
「私ね、最近思ってるの。本当に進さんと別れてよかったのかなって」
「ふーん」
新は進の事を考えた事がなかった。もう離婚した夫だ。だけど、どうして今、裕子は別れた夫の事を考えているんだろう。何かがあったんだろうか?
「新くんが夢を追いかけている姿を見て胸をときめかしていると、進にはどうして胸をときめかさなかったんだろうと思って」
「そっか」
新はまだ見た覚えのない進の事を考えた。夢を追いかけている僕の事を知って、どう感じるんだろうか?
「もし帰ってきたら、仲直りしたいなって」
と、玄関の前に誰かがいるような気がした。裕子は家の前を見たが、見当たらない。
「あれっ、誰かいるのかな?」
裕子は気になって、玄関を出た。だが、そこには誰もいない。裕子は門から道路を見た。と、そこには進がいる。会いに来たんだろうか? 謝りに来たんだろうか?
「進さん?」
裕子は驚いた。まさか、進が来るとは。もう来てくれないだろう。復縁しようと言ってこないだろうと思っていたのに。
「そ、そうだけど」
「どうしたの?」
「久しぶりに会いたいなって思って」
進は笑みを浮かべた。久々に会えるのが嬉しいようだ。
「いいじゃない。入ってよ。新も帰省してるわよ」
進は驚いた。新が帰省しているって事は、1人暮らしをしてるって事だ。大学生だろうか? それとも社会人だろうか?
「あ、ありがとう」
進は家に入った。何年ぶりだろう。家に入るなり、進は辺りを見渡した。あの時と全く変わっていない。
進はリビングにくつろいで、これまでの事を語った。裕子は真剣な表情で聞いている。
「そっか、再婚した妻を亡くしたのか」
「うん。それで1人暮らしなんだ」
同じく1人暮らしをしている裕子は、進の気持ちがわかった。せっかく結婚して、楽しい生活を奥ていたのに、また一人ぼっちになってしまうとは。
「もう一度、やり直せないかなと思って」
「ふーん」
もう一度一緒に住むか。全く考えた事がない。もうこんな事はないと思っていた。
「なかなか言えなかったんだけどね」
「実は私、あなたと別れたの、後悔してるの。新が上京して、夢を追いかけてる姿を見て、胸をときめかしてたんだ。それを見て、どうして夢を追いかけている人と別れたんだろうと思って」
進は驚いた。まさか、裕子はそんな事を考えているとは。もう一度一緒に住めないだろうかと思っていたが、まさか裕子も同じ答えだったとは。
「裕子・・・」
「もしよかったら、もう一度やり直せないかなって。そして、夢を追いかけるあなたを助けたいなと思って」
進は裕子の手を握ろうとした。すると、裕子は手を差し伸べた。進と裕子は再び手を握り合った。離婚した時以来だ。
「いいよ。また一緒に生きようよ」
「あ、ありがとう」
進は裕子にキスをした。夫婦だった時も、そんなにした事がないのに。裕子は決意した。これからまた一緒に生きようと。今日からはもう一人ぼっちじゃない。これからは進がいる。2人がいるから、寂しくない。またあの時のようにやり直そう。
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