第64話 アインズランドの蛙の子ども

この話は事実であるかフィクションであるかわからない。すべてがその村に住んでいた人々の伝聞から織りなされているからである。


 〈蛙の口〉と呼ばれる洞窟の入り口をある女が裁縫仕事に疲れて散歩していると、そこで二人の子どもがうずくまっていた。この禁足地は涼しく、少し不穏な風がいつも吹いているとはいえ、女はそこを歩くことを好んだ。女はその震える子どもたちに話しかけると、どうやらその姉と弟は迷子らしいと気づいた。ふつう村人たちは〈蛙の口〉は不吉な場所であるとして決して近づかない。「家はどこなの?」と女が質問すると、青い眼をしたか細い弟のほうが訊いたことのないわけのわからない言語で姉にささやき、おんおん泣き始めた。この姉弟は、肌が鯖のように青く、手に水掻きがついていた。女は寒さからかひもじさで震えるこの子どもたちを家に連れて帰った。


 部屋でストーブをつけて、温めたホットチョコレートと食パンを二人に差し出した。弟は姉の腕に縋りつき、まだ泣いていたが、差し出された食物には手を触れようともしなかった。女は、二人を家に置いておいて、村の司祭や、妖精専門家と呼ばれる占いを家業にしているアマチュアの女占い師や、薬剤師を呼んだ。村人も噂を聞きつけて彼らに着いてきた。後ろでは犬が吠え立てていた。窓の外で老いも若きも村人たちが覗いていた。女は、家に帰るまでに、あの水掻きのついた青い子どもたちがそのままの場所にいるかどうか、食べ物を食べているか、もしかしたら家ごと火事で燃えているのではないかと不安がった。


 司祭たちを家に入れると、子どもたちは青い眼で身を寄せ合った。姉のほうがホットチョコレートを飲んでいるが、弟は手をつけず泣きくれているばかりだった。妖精専門家の占い師の老女が言った「妖精には豆を与えよ!」と。司祭はこれは悪魔の手先かもしれないと疑い、子どもたちに聖水をかけたが、二人はポカンとしていた。とりあえずこの姉弟を2日後に教会で洗礼させることに司祭は決めたが、その後幾年もこの老司祭はこの子どもたちを悪魔の手先である可能性を拭うことが出来なかった。


 それから何日も経ったが、弟のほうは泣き止まなかった。姉のほうは与えられた豆料理にがっついた。しかし豆から滋養を身体が得ているようには見えず、華奢な身体つきだった。次第に肌の青さがなくなり、手の水掻きもなくなり、村人の人間とほぼ同じになった。しかし姉は弟の看護の権利を絶対に女や村人たちには譲らないという頑固なところがあり、妖精専門家の占い師などには手も触れさせようとしなかった。そうして1週間が経ち、弟は泣きもしなくなった。その2日後の深夜3時に姉が女の寝室に行き、弟が死んだと告げた。司祭がやってきて、黙祷を捧げ、村の聖なる場所にこの子を埋葬しようと言った。


 姉のほうは豆もよく食べるし、みるみるうちに溌剌となった。家主の女は、歳をとっているが生涯独身で、旦那のいない寡婦だった。だから彼女はこの〈蛙の口〉で迷っていた子どもを育てることになって(弟は死んだが)幸福だった。生きながらえた姉に女はチェルシーと名付けたが、チェルシーはどこで産まれたのとか〈蛙の口〉にいる前はどこに住んでいたのとかなんでこの世界に来たの?などといろいろな質問をしてもチェルシーは特に嫌な顔をするというわけでもなく、こう語った。


「わたしはアインズランドという場所で産まれたの。そこは太陽が差さない場所で、村人はみんな肌が生魚のように青く、手には水掻きが付いていた。」


女は少女を愛し、慈しんで育て、弟のように死ななかったことを感謝した。


「わたしと弟は羊を追いかけてました。角が3本ある羊で、わたしと弟は父親に命じられてその羊を捕まえるように言われました。羊は、明るい河を越え、暗い河を越え、わたしたちも二つの河を越えました。その河を越えると、どんな生き物を空気を吸うことが出来ずに死ぬ、という荒地でした。わたしと弟はそこを越えると穴に真っ逆さまに落ちました」


チェルシーはその後ふつうの人間の女として育ち、人間の男と結婚して子どもも産まれたが、記録には何も残っていないし、アインズランドがどこにある場所なのかもわかっていない。

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