第60話 飛んだ女


 雨の降る夜に、靖子は散歩をするのが好きだ。暗い坂を、傘をさしながら、ヌッと何かが現れそうな道を海辺に向かって降りていく。いつもなら、海の藻の匂いが鼻につくと坂は終わりに近いのだが、今日は夜に終わりがない。いつまでも真っ暗な坂がひたすら続く。しまいには、靖子の背中には翼が生えてきてしまって、靖子は嘆いた。


「これでは一生お嫁に行けない」


それから夜にさよならをしようと翼で足掻いているうちに両足にたしかな地面が離れ、靖子は夜空を飛んだ。45歳にもなって私は空を飛んでいる。


 夜空には他に飛んでいる者などいなかった。


 星と人間の見分けのつかない境目、というのがどの距離にもあり、靖子なのか月なのか、もうどうでも良くなった、と傍目で思っているのは金魚とまぐわった朝鮮の茶器だ。靖子の父親はその手の茶器を集めるのに熱心で、肌の木目がといってイカモノ、イカモノでなくともぼんぼん茶器を庭の池に沈めた。


 月の住心地はなかなか悪くなく、会話のできる粘着生物の《ユーファミリア》というのと靖子は仲良くなった。地球では生き物と仲良くなれなかったけど、ここではなにもなもうまくいく。脚の四本ある生き物だとかおでこに3つめの眼があるものたちは靖子の好きな科学雑誌でよく目にしていたのでなんともなかったが、靖子につらかったのはここの食べ物が地球で言うタロ芋に似たネトネトした炭水化物しか主食になかったことだ。


「これを調理できないとお嫁に行けないよ」


とユーファミリアに何度、からかわれたことか。

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