第47話 空で消えた天使の影

 天使が空中に飛んで破裂した。彼はその時、たいそう孤独だったが、二週間滞在しているホテルで朝から成すべき日課はスキーだけだった。遅い眠りから覚めると、窓を開けた。区切られた四角い空間から眺めた一面の雪原を、赤かったり、青かったり、緑色であったり、銀色だったりする色とりどりの蟻たちが、頂きからジャンプしては、下からよちよちと再び登ってゆく。その光景を見ながら泰生は、煙草をふかしながら苦い珈琲を2杯飲む。なぜかその日は泰生はスキーで気晴らしをする気分にはなれなかった。実存的な何かに蓋をしている大切な布がはためいていて、その隙間から空虚な風が吹きつけるような、恐ろしい気分だった。泰生はとにかくシャワーを浴びたあと、ホテルの1階のレストランに行った。席に座り、スクランブルエッグとトマトスープを頼んだ。皿を平らげると、泰生はレストランにいる人物を観察しはじめた。顔の浅黒い若者と、羊のような縮れ毛の若者が若い女を囲んでワインを飲み交わしながら談笑している様子を薔薇の生けられた陶器と陶器の間からぼうっと眺めていた。泰生は、二人の男を知っていた。このホテルに来て当日、泰生は二人の若者に助けられたのだ。


 雪だらけになったスキーシューズの隙間から冷たい水滴が入り込み、不快だったが、泰生はその最初の朝からスキーを楽しんだ。ザクザクと雪山を踏みしめて、上まで登ると、スキー台までヒュルヒュルと滑り降り、颯爽とジャンプしたが、泰生は着地に失敗してしまった。死にかけの蛾のようにバタバタし、スキー板が絡みついた綱のように自由が効かないので、泰生はパニックになった(何せ妻が死んでから5年はこの種の気晴らしを忘れていたのだ)。通りすがる外国人観光客が笑い、泰生は恥ずかしい思いで必死に立ち上がった。すると浅黒い若者と羊のような縮れ毛の若者が、泰生のところまでシュルシュルと滑ってきて、「大丈夫ですか?」と声をかけた。泰生は「大丈夫、大丈夫」と言いながら、二人の若者にありがとうと感謝した。


 昼過ぎに泰生はまたスキー場にいて孤独に滑っていた。トマトスープでもたれた胃が苦しかったが、滑っているとここ最近の苦悩が柔らいだ。やはり滑らないよりは滑る方がいいのだ。すると、先ほどレストランで若者と談笑していた若い女性が泰生の傍を高速で、器用に滑って行った。口が大きくて、口紅は塗ったというより、叩きつけたような印象的な赤だった。泰生は疲れを感じ、ホテルへ戻った。ホテルには図書館があった。饐えたような、紙が濡れて腐ったような匂いのする空間が暖炉で温められている孤独な、何かを諦めたような眠け。1人用のソファに泰生は座り、目の前のテーブルに重ねられた雑誌に目を透した。すると、また、心の空虚を塞いでいる蓋が風で吹き飛ばされそうな感覚が蘇った。彼の5年前に亡くなった女優であった妻の写真が煙草の広告に、雑誌の裏側に使われていたのだ。泰生は図書館から出て、部屋に戻って睡眠薬を飲んで寝てしまった。妻は自殺した。泰生もホテルで自殺しようと考えていたのだ。彼が眠っているベッドの横のテーブルの上には、剥き出しになった拳銃の銃床が恐ろしく黒光っている。


 夕飯の時間になってホテルでは銅鑼がなった。泰生がドアから出ると、隣りの部屋からはなんとあの口の大きい女が出てきた。女は笑顔で泰生に声をかけた。「あなたが隣りの部屋にいたのはずっと知っていたのよ。よかったら一緒に食べない?」「いいですよ、僕でよければ」泰生は答えた。


 紅いスカーフを女はつけていてたいそう魅力的だったが、どことなく亡くなった妻に似ている...舌平目のフライをナイフで切り分けながら、泰生は思った。「あした一緒にスキー場に行きませんか?」と泰生は行った。「いいわよ。ただしあの顔の赤い若者と、羊みたいな奴を一緒にしてね。私あの人たちと仲がいいのよ」と女はワインを飲みながら言った。ジャズの生演奏がはじまった。すると女は「私やることがあるの」と言って泰生を置き去りにした。泰生は女を探したが、少し飲んだワインの酔いと悪趣味な東洋趣味の赤提灯のせいで、知らない広場に迷ってしまった。そこでは、裸の女が水浴している絵が、ただ一枚あっただけだった。


 夜になるまで泰生は煙草を吸った。もう寝ようと、泰生は睡眠薬を飲もうと考えていたら、隣りの部屋からギターの音が聴こえてきた。それに犬の鳴き声、魔女の呪文のような声、太鼓の音に、焚き火がパチパチ言うようなこれらの不可解な音.....。2時間近くそのパーティーは続いたので、泰生は隣りの部屋に注意をしようとした。うるさくて眠れないじゃないか、と。ドアは鍵が閉まっていなかった。すると、ドアを開けて泰生の目にしたものは、脚が鉤爪のように尖く、鷲と人間のあいの子のような怪物だった。羽根は部屋に収まらないほど大きく、想像上の絵で描かれた智天使のようだった。その空間だけ時間が止まったようになっており、逆回転させたスノードームのように細かな羽根がゆっくりと下へさがる。怪物と目が合った泰生は逃げた。ハアハア言いながら、しばらくしてまたドアを開けると、その部屋には女は居るはずもなく、天使の姿もなく、床に羽根の残骸だけが1、2枚残っているに過ぎなかった。窓が開いていた。泰生が外を見渡すと、雪原の上を遠く飛翔するものがあった。あいつはここから出ていったのか。


 泰生は、これは飲みつけないアルコールと眠剤が引き起こした幻覚だろうと結論した。手が震え、コップを倒した。水が溢れた。しかし、ベットに横になりながら、窓の外を移ろう雪片や、人の顔に見えるような壁の染みを眺めているうちに彼は眠りに落ちた。

 

 翌日、朝食の銅鑼がなり、泰生はレストランへ行くと、若い女はすでに座っていた。泰生が席に就くと、若い女は彼の隣に来た。女は言った「あなた、いつも暗い顔してるわね。どうせ傷心の独身男が静養に来たんでしょうよ。いっしょに滑りましょう」と挑発的な物言いだ。泰生は昨夜聴いたり見たもののことを言いそうになり、思わず「天使の怪物が.....」と女に言いかけた。すると女は紅いスカーフを揺らしながら泰生の唇に青白く細長い人差し指をつけて、「秘密よ」と言った。


 数時間後、泰生は女と一緒に楽しくスキー板を自由自在に滑らせていた。時の呪縛から逃れたようだった。彼女と一緒にいると、この5年感じていた苦痛が消えるようだった。自分の心の空虚をふさぐ穴に足りなかったのは、きっと彼女が身に纏っていたあの紅いスカーフだったのだ。女の名前すら知らなかったがそれはどうでもいい。しばらく滑っていると、コースから外れた、林のような場所を彼女はぼんやりと見つめていた。泰生が「どうしたんだい?」と林を見ると、黒ずくめの男がこっちを見ていた。しかし林の中に消えた。


「なんでもないの」と女は言った。

泰生は嫌な予感がした。


 女は頂上までリフトで登り、スキー台目がけて滑った。これまでにないくらい高くジャンプしたので、ホテル客の人目を引いた。と、空中を黒い悪魔のようなものが彼女目がけて衝突した。鷲と鷲が喧嘩しているように縺れ合い、羽根がちぎれ、彼女は撃たれた鳩のように墜落した。そこらじゅうで悲鳴が上がり、泰生や、客の全員が彼女の墜落した場所に行くと、そこにはスポーツウェアと、骨の残骸と、スキー板と、血のついた白い羽根だけが雪の上に残っているに過ぎなかった。

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