第44話 国王の脱走


 いよいよこの国から脱走する時間が刻々と音を立てて、私に迫ってきていた。窓の外の暗闇を眺めていると松明に火をつけた鎧に身を固めた見守り部隊が、何人も城の周りをうろついている。クリケットのようなことをやっている連中もいる。この部屋の扉の向こう側では、見守りの交代の時間なのだろう、兜をガシャガシャ鳴らしながらセウォークという奴とグラゴラニアンという奴が入れ替わった。このグラゴラニアンの正体は実際のところ人気俳優のセオドアなのだが、セオドアは変装がたいへん上手いので私の脱走を手伝うことになったのだ。ガサツ者のセウォークが言った「お前、このりんご食べるか?」「ああ、食べる」「それにしてもお前が来るのが遅かった。俺は早く帰って女房を抱く」セウォークが階下に下がり、丸い月がシューシューと音を立てはじめると扉の向こう側から声がした。


「国王陛下、中に入ってもよろしいでしょうか」

「いつでも入ってくれ。シェリー酒もチェスのセットもなんでも用意してある」

「そんな遊ぶ暇などはありませぬ。いますぐ逃げましょう」


セオドアが金属の棒で複雑精妙だと思われた鍵穴をいとも簡単に開けると、扉は音を立てずに開いた。セオドアの女のような美少年的な横顔が私の頬を綻ばせた。私に林檎を投げてきた。セオドアと私はこの部屋の区切られた一角の裏側にある秘密の横穴へいそいそと逃げた。


 この秘密の通路の存在は私とセオドアと死んだ私の父親とこれまたとうの昔に夭折した人気女優アラウェルしか知らない。私の父親が国王だった時代にアラウェルは、人気の絶頂であったと同時に通俗的な姦通の相手であったわけだ。アラウェルは舞台が終わると劇場とこの城の一室を結ぶ地下通路を通って、シェリー酒で酔ったあとに国王と激しい情事に耽るのだった。だがアラウェルは30歳で肺結核で死んだ。私はアラウェルの横顔が移ったペンダントを父親が死ぬ前に手渡され、熱を上げていたシェイクスピア研究のことを話すと「教えるのだ!ハーリー!」と言ってそのまま心臓は停止した。そのベットは巨大な貝を模しており、眠りの深さによって開いたり閉じたりし、事実、父親は貝類学者であった。


私の青年期に、もうセオドアは私と一種秘密の恋仲であった。市民の中には、次期国王たるものが男色にうつつを抜かすというのは不遜であるとか、情交中の私たちに水を刺そうと玩具の鳩が空中を飛んで窓に何匹もぶつかったりしたが、桃のようなセオドアの尻を私は撫でながら独自のシェイクスピア解釈を披露するのだった。そんなある日、セオドアが「このカーテンの奥には何があるのですか?」と訊いた。私は、お前の日夜働いている劇場と地下通路で繋がっているのだよ、と父親に口留めされていたことをうっかり言ってしまった。「客席が埋まっている時や、途中から観劇する折はこの通路から行くのだよ」セオドアは驚いた様子で得心していた。窓にぶつかる鳩の数が多くなってきた。私たちは地下通路から劇場に二人で行ってみようと試みた。カーテンを開けると通路は粉だらけで、セオドアはくしゃみをした。ものの三十分で劇場についた。私たちは幾度となくこの遊びをした。


 シェリー酒で酔っ払いながら私はこの国からの脱走をいまいましく思った。右派の過激派連中が私を殺めようとしていること、隣国のハリャトゥールがそれをさらに焚き付けていること。セオドアは通路を安いライトで照らしながら、私の不安を察知していたと思う。


 ある冬の、綿毛のような雪のちらつきはじめた厳寒期にその村の新聞やニュースに、次々と赤い服を着たサンタのような格好をした人が理由も分からず異常増殖したと報道され市民を喜ばせた。その事と国王ハーリーがアメリカに亡命したことに何か因果関係があると見た、山裾でみやげ物店を営んでいる飲んだくれのクレイ親父と常連客たちの意見は、以下の出来事と合わせて考えるに不穏当ということでもあるまい。


 セオドアとハーリーが城と劇場を結ぶ地下通路をほろ酔い加減で歩いている時に、ちょっとした地震があった。その地震で天井から埃が落ちて二人はケラケラ笑いながらクシャミ合戦をした。実はセオドアが右手に持っていた時限爆弾のスイッチが5分前に押されており、その爆発が城や腹立たしい臣下ごと吹き飛ばしたのであった。しばらく歩くと、赤ん坊が通路に落ちていて二人は恐怖したが、それは臍にゼンマイ仕掛けのついた人形だった(誰がこんなところに置いたんだろう?)。そうこうして劇場の裏口についた。ハーリーはセオドアの楽屋で、赤い服を渡された。「なんでこんなサンタみたいな服を着なきゃならん?」と国王は不審がったが、セオドアの友人たちの知恵がこの赤い服には込められていたらしい。その頃、もう劇場の外ではサンタもどきが火を吹いたり風船を子どもにあげたりストリートダンスを踊ったり、異常増殖は始まっていた。セオドアが赤い服を着たハーリーの手を取って「さあ!」と言うと二人は裏口から外へ駆け出した。まさか命を狙われているハーリーがこの珍妙なアクシデントの一味だとは小心翼々としている右翼連中も思わないだろう。劇場の表玄関の前に一台の銀色に輝くリムジンがあり、国王とセオドアはそれに乗った。「いまからアラウェル山まで行きますよ」とセオドアは言った。その山は夭折したアラウェルにちなんで名付けれた山だった。「わかった。しかしこの変装とサンタの異常増殖という君たちの粋な計らいには舌を巻いた」とハーリーは言って、少し疲れた国王はリムジンの座席で眠りに落ちた。


 その後ハーリーは涙ながらにセオドアとお別れし、ロープウェイで山頂まで登った。赤い服を着た精霊が山をロープウェイで登ってゆく様は不思議の感があり、みやげ物屋のクレイ親父がたまたま犬を散歩していた時に遭遇し写真で撮った。そう、この写真があらゆるキオスクで現在出回っている.....。山頂ではジェット機が控えており、ハーリーの消息は今や誰もわからない.....





     ――――――ナボコフを練習台に 


 

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