第40話 りんご


 机の上にりんごが一つ置いてある。誰かが囓った跡があり、酸化して数分経っているのでそこだけ茶色になっている。それは数日前には木に実っていたりんごの中の一つであり、日に焼けた農家のおじさんが全部纏めて籠に入れて出荷した。品種はなんだろう?紅玉か?近くで見ると信じられないほど赤いと思われたものが、そうでもないということがわかる。美女を信じられない距離で眺めた時に毛穴のあつまりに圧倒されるような具合か。それはりんごだ、一つのりんごだ。食べられたり、生のまま囓ったり、砂糖といっしょに煮詰めたりする。誰のためでもないりんご。私はそれを捨てることもできるし、自分の5歳になる息子とキャッチボールすることもできる。息子はりんごが嫌いだ。息子がりんごだったらどうしよう?世の中の物体がりんごに変わってしまう。そうしたら息子は泣くだろう。砂浜に転がるりんご、海に浮かぶりんご、フジ、ジョナゴールド、紅玉、すべてのりんごが浮かんでいる。人間とりんごだったらどちらのほうが価値があるのだろう?そんなことを考えていたら勝手に転がっていった、ああそれがその、赤いあいつ。わたしは何にも語っていない。


 逆の試みをしてみよう。その、それ、赤いあいつについてではなく、まわりの物体を描写する。小型ラジオから流れる音楽や、机の質感や、ソファーや、埋め尽くし漂う酸素についてをわたしが詳細に語り、その中心にあるりんごを読者に予測させるのだ。刈られた芝生が、ミステリーサークルになるみたいに。そんなことを考えていたら息子が学校から帰ってきて私は昼寝をした。

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