第32話 月影
薄く、透明感のない、乳白色をした雨に烟る海岸線が、遠くの方に見える。私はこの部屋の大きな窓を開けると、まず最初にこの光景が見えた。私はその頃とても小さく、なにかの事情で、母方の祖母の家に預けられたのだった。祖母は畳のある和室に座り、編み物をしていた。私は朝からこの時間までずっと寝ていて( いつもなら近くの農場に新鮮な、濃い牛乳を一瓶歩いて取りに行く) 、起きたら外は雨なので、なす術がなく、すっかり退屈してしまったのであった。実家から持ってきた五冊の絵本はすっかり読み切ってしまったし、私はそんな幼稚な絵本よりかは映画館に行くことが好きだったませた女の子だったので、なにかすることがないかと探していた。水の匂いのする台所へ行くと、天井の一点からポタポタと雨漏りがしているのに気がついた。私は祖母のところへ行き、その事を伝えると、途端にものすごい空腹感に襲われた。「お腹が空いた」と伝えると、祖母は何処からアンパンを取り出した。私は差し出されたアンパンをすっかり食べ終えると、また眠くなってしまって、ラジオからは「夾竹桃の咲く頃に、あの人は行った。どうしてもゆくのかと」という歌詞の歌謡曲が流れており、祖母はそれを時折口ずさみ、遠くの方から農場の牛の鳴く声がぼんやりと聴こえ、雨に烟る田舎の午後の時間がゆっくりと私を眠りに誘い込み、古いゼンマイ式の大きな掛け時計の音が一秒一秒を正確に、淡々と時を刻む。..... 眠りから覚めると、暗闇に投射された月の表面のようにザラついた感じをさせるスクリーンでは、先程までショートカットのアメリカ人の女とベッドで性行していたならず者の男は背を誰かに銃で撃たれており、よろめきながらパリの市街を行くあてもなく何処へ向かってというのでもなく目的を持たずひたすら逃げるように走っていて、私の隣に座っている友達の女の子は眼から涙を流していて、私はもうすぐ死にゆくであろう男の息づかいに耳をそばだてる。男は汚い路上で呆気なく倒れた。そこで映画は終わった。煙草の煙の匂う映画館を二人の子供は出て、外はすっかり夜になっていることに僅かながら私は驚く。私より二歳か三歳、歳上の、髪の真っ黒なロングヘアーの女の子の友達は、私をここまでこっそりと親にばれずに映画館へ連れてきたのだった。夜空を見上げると月は満月で、私は月影に照らされた、映画館の壁に貼られた、手の届かない範囲にあるいくつかのスチール写真ーーーそれらの映画はそれぞれ、『勝手にしやがれ』『孤独な場所で』『血を吸うカメラ』『大人は判ってくれない』といった題がつけられているーーーを眺め、ぼんやりとした夜逃げにも似た( 夜逃げなど子供の〈私〉はしたことなどあるはずもないのだが) 罪悪感が私をいつのまにか責め苛む。友達は、スチール写真の前にわたされた金属製の手すりに左足をのせて、バレリーナのようなポーズをとっていた。「男は、なんで死んだの?」と私は聞く。「彼女が、警察に密告したからよ」ーーー答えながら彼女は、腰から上を前方にぐっと曲げ、ポキポキという関節の音を立てながら頭をスチール写真のほうへ向けるーーーと、艶やかな長い黒髪が月影に照らされて恐ろしいように黒光り、私は無言でそれに見入ってしまう。彼女は金属製の手すりから左足を降ろし、元の姿勢に戻る。「アンタ、そろそろ帰らなきゃね。お母さんに叱られちゃうわよ」と叫ぶように私に言い、また同じ動作を、右脚を金属製のバーに乗せ、バレリーナのような姿勢をとる。私は「もう帰らなくちゃ」と言う。最後の上映が始まるのか、映画館の奥の方からとても耳障りなブザーの音が鳴る。私たちは逃げるように月に照らされた土手道を走って帰っていった。
これらは、いつの記憶だったのだろうか。
私は、今、これらの文章群を書いて、ふと、周りを見渡す。街の図書館で私は恋人を待つ暇つぶしに机の上にノートを広げ、古い記憶を辿る。彼は、もう十五分も私を図書館で待たせている。周りを見れば、浮浪者同然の年齢不詳の男達が、ここぞとばかりに新聞を開き、席をしめている。文章を書くという、一連の動作をした時間が、そこだけ空白を作り、ぽっかりと私の目の前に、死んだ魚のように横たわっている感覚のなかで、私はまた鉛筆を持つ。何かを書こうと試みる。薄く、透明感のない、乳白色をした雨に烟る海岸線が、遠くの方に見える。私は午睡から覚め、窓を開けて友達を待っていた。すると、視界の端から、びしょ濡れになった彼女が現れた。白痴の子だ。私はその子を待っていた。晴れていても、雨であれ、その白痴の子はいつも同じ時刻に私の祖母の家にやってきた。私は雨のことなど気にせずに、玄関からそのまま庭で蝶のように舞う白痴の女の子のところへ走っていった。雨の中、私たちはひたすらぬかるんだ庭で追いかけっこをした。身体の表面にぴったりと服がつき、泥だらけになり、私たちは時を忘れて、ぬかるんだ土、草の匂いのする庭のなかをぐるぐるとまわるーーー私は『ちびくろサンボ』という絵本の、樹木のまわりをぐるぐると回り続けて最終的にはバターになってしまった虎たちの話を思い出すーーーと、突然、地を割るような音が、空中で裂けた。雷鳴が轟き、稲光が遠くの農場のあたりで時間をおいて光った。農場からは、牛の糞、あの、垂れ流しのように無責任にボタボタと落ちる糞は、いまは雨なのでその臭いはしないのだった。私たちは雷を恐れ、庭に開け放った戸を引き、濡れたまま廊下に転がり込んだ。私は怯えていたが、白痴の女の子は、ニカニカと、としか形容することのできない表情で、まるで狂人のように狂喜していた。祖母が慌てて庭の花、草の香りがうつたタオルを私たちに渡し、濡れた頭や身体を拭くように、と貞淑に言った。祖母は襖を閉め、私たちの服を脱がせ、あたらしい乾いた下着を渡し、ありあわせの半纏のようなものを私たちに急いで着せた。私は急に全身に寒気を感じ、その寒気と同期して、いつのまにか温めた牛乳の入ったマグカップを祖母は私たちに渡す。ラジオからは歌謡曲が流れており、掛け時計の音がその背後で時を刻む。温めた牛乳を飲み干すと、白痴の女の子は、半纏を羽織ったまま、庭へ通じる戸を開けて、逃げ去るように、蝶が舞うような優雅さでーーー何処かへ行ってしまった。稲光がまた裂いた。私は白痴の女の子がとても心配になって庭の遠くを見渡すが、視界に入るのは、薄く、透明感のない、乳白色をした雨に烟る海岸線がーーーここまで書いて、私は再び鉛筆を置く。見上げると、彼は脇に本を挟み、私の座っている机の前に立っていた。私の恋人は、緩慢な動作で『エミリー・ディキンソン詩集』を机に置き、椅子に座った。私はノートの内容を彼に見られまいと、急いでバックにそれをしまい込んだ。彼は「いまから喫茶店に行かないか?」と言った。「腹が減ったんだ」私はうん、と言葉に出さずに、ただ頷いた。外は凄まじく、蕩けるように暑かった。私たちは少し冷房の効き過ぎた図書館を出て、その裏にある杉林をあてもなく歩いた。しばらく歩くと、小さな四阿を見つけ、そこに腰を下ろした。容赦ない日光がそこだけ遮られており、灼熱の太陽からの一時しのぎの逃げ場とでも言ったように、その四阿はしつらえられていた。突然、彼は私を抱き寄せ、猛烈な口づけをした。私は抵抗する間も無く、唇を彼に奪われた。三分間ほど口づけを交わしていたら、密集した、草の下生えから、カサコソという草の擦れる音がして、私たちの熱い接吻は中断されたーーー見ると、男の子が一人、ひょっこりと頭を出して私たちのほうを眺めていた。男の子は杉林から逃げ去った。私たちは笑った。その喫茶店まで歩く道のりは、図書館から
約十分ほどあった。私はアイスクリームが食べ
たかった。雑踏した都市の歩行路には、夏芙蓉
の柔らかい濃い緑の梢がしな垂れて、ときどき
私の頭を撫ぜる。人の手のようだった。その歩
行路を右に折れ、しばらく言って、また右に折
れ、迷路のような閑静な住宅街の中にその喫茶
店があった。空をみあげると、遠くの方に赤い
アドバルーンが不自然にデパートの屋上から浮
かんでいるのが見えた。喫茶店のドアを開ける
と、中では古い真空管アンプからクラシック音
楽が流れていた。人は疎らだった。私たちは奥
の一角に席をしめ、私はアイスクリームを、彼
はナポリタンとコーヒーを頼んだ。私たちは差
し出された食べ物を、無言で、淡々と平らげた。音楽が止むと、彼は「さっき、君は、ノー
トに何を書いていたの?」と言った。私は「いいえ、なんでもないの。と素っ気なく言った。「子供の頃の思い出よ。貴方が集合時間に遅れたから、書いていたの」「見せてくれないか?」「じゃあ、いいわよ。」私はノートを彼に差し出した。
彼女の文章を読んだ。彼女は、散文ではな
く、詩を書いたほうがいいと思った。それを彼
女に言うべきか否か、僕は非常に迷った。イン
クのような濃いブラックコーヒーを飲み干し、僕は彼女の顔、露わになった腕を見た。赤いペ
チコートを着た彼女は、白く、余りにも透き通
った肌をしているので青い脈が浮き出ているの
に、僕は微かな興奮をおぼえた。さっき、杉林
の中で中断された口づけ、熱い接吻を、一人の子供に中断された事に、いまさらながら腹立ち
をおぼえた。彼女は、僕の眼を見ながら、微か
に笑っていた。僕は煙草に火をつけて、彼女か
ら眼をそらした。「ねえ、この話知ってる?」と彼女は唐突に話し始めた。ーーーある男が、昔、ドイツにいたの。で、その男は、オペラが大好きでーーーヴェルディやプッチーニがーーーいつも歌劇場に入り浸っていたの。それ以外、彼は何もしなかった。ある日、その男の資産家のお父さんが死んで、遺書にはその資産を全て息子に譲る、と書いてあったの。で、その男は、何を考えたのか知らないけれど、もともと頭の少しイカれた男だったんだわ、何故かわからないんだけど、その死んだ父親の資産金で、アマゾンの奥地に歌劇場を建てようと決意した。でも、その、イキトスという名のアマゾンの奥地はとても辺鄙な場所で、ちょっとした川や山を越えなければ行けないような場所にあった。でも、彼は決意した。船でオペラ座を建設するための資材を運べばなんとかなる、と。しかし、その大量の資材を誰が運ぶのか、という問題があった。彼はそんな重要なことを考えていないほど、馬鹿ではなかった。船はさっそく出帆した。彼は、アマゾンの上流を船で下りながら、蓄音機でプッチーニの『トゥーランドット』を船で流したの。すると、彼ののっている船の前方のほうから、小さな船に乗ったアマゾ
ンの原住民たちが、何隻かやってきた。原住民
は毒矢を吹き、主人公ーーー名前は忘れたわーーーの仲間が、一人死んだ。原住民たちは小さ
な船から、主人公の乗っている船にぞろぞろ這
い上がってきた。彼は「殺される」と思った。
いそいで蓄音機を止めた。すると、原住民の一
人が、彼に怒り狂った。どうやらそれは、音楽を止めるな、という意味らしかった。彼の目論
見は成功した原住民たちは、蓄音機から流れる
オペラがいたく気に入ったらしく、私たちと仲
間になろうと言う意味のことを通訳に伝えた。主人公は、喜んで仲間になろうと通訳に伝えた
。そして、これからイキトスという土地へオペ
ラ座を建設するから、その資材を運ぶのを手伝
ってくれないか?と原住民に聞いた。それは無
理である、と原住民は言った。途中、険しく、
荒れ果てた山が聳えている、と。すると、主人
公は、だったらこの、いま我々が乗っている船
ごと、縄で縛って運べばいい、と、いくらか気
狂いじみた提案をした。原住民たちは、それな
ら可能である、と言って、その奇抜な提案を許
諾した。」「それからどうしたの?」「原住民は」
と彼女は続けた。「イキトスが背後に控えてい
る山まで川を下ると、船を浅瀬に止めたんだわ
。そうして、縄で船をくくりつけて、約八十人
くらいの原住民たちが縄で縛った船を引っ張っ
て、山越えをしたの。船を山越えさせるなんて
、気狂いじみているわ」「それは凄い」「でも、
翌朝、主人公が起きると、何故か原住民たちは
船をもとの浅瀬まで戻して、船を川に流してしまったの。主人公は茫然としていたけれども、
原住民はもう、森の中へ帰ってしまって、何処
かへ消えてしまった」その唐突な、不思議な話
を彼女の口から聞いた僕は戸惑うと同時に、何
故か笑いがこみ上げてきた。「そんなふうにして
、物事ってうまくいかないものだわ」と彼女は
言った。僕はもう一本、煙草に火をつけた。煙
に巻かれた。僕は眠くなった。僕は深い森や大
きく淀んだ川を想像し、山を登る巨大な船を想
像した。
昔、大きな公園の中にあるいくつか間を置いて点在したベンチの、そのどれかの席に私の母親が座っていて、私は父親の漕ぐボートに乗り、大きな池のさざ波に見入っており、〈私〉が最近、恋人と観た映画では三人の男と女ーーー哲学の教授、その教え子の男とその恋人のウィーン出身の女ーーーは同じようにイギリスの何処かの公園の中を縫うように流れるゆったりとした川幅を持つ川をボートに乗って午後の眩しい真夏の陽射しを浴びて、カメラは舐めるように女の透けるようなストッキングをつけた組んだ細く優雅な両脚を撮っていて、教授は櫂を漕いでおり、教え子の金髪の男は鼾をかいて眠っていて、しきりに女の脚に見惚れていたので教授はボートの前方に集中することができずに、次のショットで川の横に走る低木に衝突して思い切り腰を打ち付けて身体がボートから投げ出されることがバシャバシャといった水音だけで明示されるのだが、〈私〉は、その映画の冒頭で映し出される教授の住んでいる田舎の
洋館を映し出すカメラの背後で物凄い爆音が、
泥酔した教え子の男の運転した車が木にぶつか
って派手に横転した事を既に知っており、鼾を
かいて眠っている教え子の男は全身を強く打ち
付けて死んだという事実を、あらためてそのシ
ーンを観て前後した記憶の中で確かめるのだが
、助手席に座っていた死んだ男の恋人は無事で
、深夜の夜空にぽっかりと浮かび上がる欠けた
月のショットで教授の悲鳴がわき起こり、月影
に照らされた、死んだ教え子の血塗れの顔を足
で踏まぬように横転してぐんにゃりと曲がった
車から、かろうじて無事であった女を引っ張り
上げ、助け出す。私は父親の漕ぐ櫂が水を掻き
分けて水面に映し出される私の顔がさまざまな
形に変わるのを見ながら、池の水の中に小さな
手を入れる。水は冷たかった。陸地の方を眺め
ると私の母親はべンチでなにかの編み物をして
いた。私は視界の中で小さくなった母親に大き
な声で「お母さん!」と叫び、しかし母親は編
み物に没頭してまるでその呼び声に気がつかず
、母親の輪郭、池の周りを取り囲む柳の木の輪
郭はいよいよ陽に照らされて曖昧になる。中国
製の磁器製のポットに青色で描かれた絵には、
大きな池をまわりに巡らした中心に、小さいが
絢爛とした島に建てられた寺院が描かれており
、公園の池にはそのような島などないのだった
が、母親はよくそのポットを使って紅茶を入れ
て、甘い菓子と一緒にそれを飲んだのだった。
父親は舵をとるのにすっかり疲れたのか、ティ
ーシャツの背中に大きな楕円状をした汗の染み
をつけていて、ボートの端に座り、しばらくはボートを漂わせ、ポケットから煙草とライター
を取り出し、一服する。父親は吸い殻を躊躇す
る事なく池に放り、たくさんの鯉が先を争って
それに群がり、ボートは風にまかせるままに水上を漂う。それから私は母親のもとへ戻りたいと思うのだが、父親は長いこと舵を取るのを放
り出し、その後、私はどのような時間を過ごしたのかまるで記憶の糸がそこだけぷっつりと切
れておりーーーいつのまにかフィルムは端から
焼き尽くされ、闇の中に身をまかせる観客たち
は茫然としてその映画が終わったことを了解す
るのだがーーー幼少時の過去は父親の浮気相手
との突然の失踪とともに切断されていて、しか
し、〈私〉の記憶の舵をとるのは誰なのか、い
まこれを書きつつある〈私〉なのか、〈私〉が
書きつつある文章が私の思考の舵をとるのか、
いよいよ曖昧になり、また最初からノートに書
いた頁の最初から文章を眼が追い、そこには「
薄く、透明感のない、乳白色をした雨に烟る海
岸線が遠くの方に見え」と書いてあり、いくつ
かの月に照らされた川波が鉛筆という櫂でもっ
てその輪郭をゆらめかせるのを知り、そのボー
トはいまだ知らぬ方向と時間と場所と空間へ、
いまだ、終わる事なく、進んで行くのだろうと
いう事を〈私〉は確信してさざ波を見つめて、
曖昧な頁の余白にその波は打ち寄せるーーー
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます