「半分」溶けてしまうこと——初音ミクが歌うことによって起きる繊細な融合

 初音ミクは「想像」しない。そこにはいわば欠落のようなものがあり、言い換えれば彼女自身に意図して残された「余白」である。彼女は自身が余白を持っている=「想像」を欠落していることを理解しながら、ユーザーに対して「私を歌わせてみて」と言葉をかけてくる。そこに存在している余白、そして私たちは彼女の「想像」に自身を代入することを通して、私たちは蜜月な「私」と「君」の二者関係を構築する。彼女は「欠落」し、「余白」があるからこそ、蜜月な二者関係を構築できたのだ。以上が前節の議論の要点である。


 しかしながら、そこに生じている「余白」に作曲者自身の「想像」の全てを代入することはできない。初音ミクがどこまでもシミュレートされた音声であるがゆえに人間にはなれないことは既述したが、そこに自身の「想像」の全てを代入できない以上、作曲者は何かしらを捨て去っていく必要に駆られてしまうだろう。初音ミクは「余白」を持ちながらも、その「余白」に自身を完全に代入できない。だとすると、そこに何があるのだろうか。


 正しい表現であるかはともかく、そこにはあくまで基礎情報がほとんどなかったがゆえにユーザー間を連帯してきた、初音ミクをめぐるネット間で共有された「象徴」だろう。2007年に登場して以来、初音ミクはユーザー同士を繋げ、世界同時的にコミュニケーションを行うためのまさに「象徴」として登場してきた——これは国内ネット史の歴史的経緯としても、また初音ミクは「想像」しないという前節の議論としても明らかだろう。そうした彼女自身の「繋げる」思想は無視できないものであり、ボカロPたちは彼女に内包されたそうしたイメージを引き受けながら、残りの「余白」に自身の「想像」を代入する。そうして、ボーカロイド楽曲は新たに作り上げられる。言い換えれば、初音ミクの「余白」に「想像」を組み込むことはつまり、初音ミクをめぐる共同体的なイメージに自身をも入れ込むこと、作家性をある意味で溶かすことでもある(実際、初音ミクで楽曲を作られているからこそ「聞いてもらえる」という事実は少なからずあるだろう)。初音ミクが歌うこと、それは一方で「他者」たる歌い手よりも純粋に自身の「想像」を伝達する行為であり、他方で集合体の中に自身をある程度溶かしこむ行為である。そうした不完全な溶け合いと表現の繊細な距離感こそ、彼女が歌う事の最も重要な要素ではないだろうか。


 そこにある余白、自らの「想像」代入すること、そして「半分だけ」溶けてしまうこと。初音ミクが歌を歌うことはこうした点において、「作曲者自身が歌う」のとも、「歌い手に依頼して歌唱してもらう」のとも異なったとても繊細な距離感を保っているのである。それはみきとPが2013年に公開した楽曲「僕は初音ミクとキスをした」の中にも表象されているだろう。楽曲MVにて登場する主人公の描くオリジナルキャラクターは、最後にはまるで初音ミクと融合するように消失し、消え去ってしまう。初音ミクが歌うこととはこのように、ある意味で自身の半身を共同体の中に委ねてしまうこと、それによって何かしらの犠牲を払うことでもあるのだろう——本楽曲MVにおけるオリジナルキャラクターが初音ミクにキスをし、最終的には初音ミクを融合するように消えっていったように。「君の思いを私が歌う」というある意味で2010年代的な初音ミクの楽曲の中に内包されているのは、こうした繊細かつ複雑な哲学的思考だったのかもしれない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る