「想像」する歌い手と、「想像」しない初音ミク
この二者関係の重要な点は、歌詞としての言語を人間が歌うのでなく、パソコンのソフトであり「楽器」であるボーカロイドに歌わせるという点だ。それがどのような意味を有するのかに対し、ここでは20世紀後半にフランスの精神分析学者ジャック・ラカンの理論を補助線にする。彼の難解な思想を説明するのは筆者では明らかに力不足ではあるが、本稿では彼における独自な世界の見方としての「想像界」「象徴界」「現実界」のことに限定して、試論を展開してみたく思う[9]。ラカンによれば、我々は現実に生きている世界そのものを見ることは決してできない。例えば目の前に「リンゴ」とよばれる、「赤い果実」があるとしよう。日本語を扱う日本人はそれを「リンゴ」という日本語と音でそれを表現することができる。つまり、「赤い果実」と「リンゴ」が同じものを指すということは、一定の集団の中で共通の言語=「日本語」と、それを使用している集団=「日本人」があるということによって、保証される。それゆえ、日本語しか理解できない集団内ではそれ以外の言語(例えば“apple”)が「赤い果実(日本語の「リンゴ」を指す物体)」を指すことは分からない。我々が言語を共有できているのは、共同体の水準で言語という「象徴」を共有している世界を持っているからである。このような、言語やその他の象徴を経由して共有されている世界のことをラカンは「象徴界」といい、感覚的なものによって共有されている世界(ここでは「赤い果実」)を「現実界」と呼ぶ。そして、先に「赤い果実」という物体と「リンゴ」という言葉によって「現実界」と「象徴界」の関係を示したが、各個人がそれぞれの内面で想像している「イメージ」の世界のことを、ラカンは「想像界」と称している。「想像界」には私のある「考え」があるが、この思想を自分以外の誰かに伝えたいとき、それは言葉という「象徴」を媒介としてのみでしか伝達しえない。つまり、「想像界」も「現実界」と同じく何かの「象徴」がなければ、コミュニケーションはできない。
以上より、再度初音ミクの問題に立ち返ろう。初音ミクを用いることとはどういう意味を有するのか。本稿では歌詞をボーカロイドではなく実際の他者——つまりは「歌い手」に依頼して歌唱すること比較対象として想定しつつ考えてみたい。「作曲者」が「歌い手」に歌唱以来をする際、二人の間に少なからず、作曲者の脳内にしか存在しない音楽のイメージに対しての解釈違いが生じてくるだろう。それは無論のこと、作曲者の内面にあるイメージと歌い手の内面にあるイメージが一致していないからであり、そして二者の間に共通してあるだろう一つの共通イメージが共有されることは永遠にない。なぜなら、どれだけ作曲者が自身の内面で想定しているイメージを歌い手に伝達しようとも、歌い手がそれをすべて確実に理解することはありえないからだ。言い換えれば、両者の間に完全一致する「象徴」が存在していないゆえに、作曲者と歌い手の間に避けることができない乖離が生じてしまう。作曲者が内面で行う「想像」の世界は、それ自体が想像界に属しているものであるがゆえに他者に伝達できず、したがって作曲者の「想像」は決して歌い手の「想像」とはならないのだ。その際、歌い手は作曲者の指示に従いながら歌唱するなかで、歌い手自身が作曲者の「想像」を理解することはできないがゆえ、あくまでもコミュニケーションの中で——つまりは言語的「象徴」によって伝達を試みる中で——自身の「想像」を形成し、そのうえで歌唱を行う必要に駆られることになる。両者の間には歌詞やメロディ、そして歌い方といった数々の象徴が行き交うが、それが作曲者という個体のイメージである以上、いくら象徴として伝達しようとしても限界があり、完全に一致することはない。こうした不一致において、歌い手は常に「作曲者」ではなく、作曲者が想定した「想像」を変身させる「別の作曲者」であるとも言えるかもしれない。
歌い手は常に作曲者の意図を完全に汲み取ることはできず、本来の作曲者自身が内面に抱えていた願望や欲望を変形させることによって、ある意味で全く別の作品を作り出す。この点に対し、初音ミクはそれ自体が単なる「楽器」であるがゆえ、その限界を少なからず超える可能性を持つ。人ではない彼女は「想像界」を持たず、それ故に徹底的に「主観性」と「客観性」の両者は排除される。無論、それらが人間の声をベースに設計されたソフトウェアである以上、人間の声それ自体に到達すること、或いは人間の声それ自体を超えることは到底できない(人間には表現できない声を表現できる、という意味では人間の声を超えているが)。しかしながら、どれだけ人間の声をシミュレートした存在であるとしてもなお、彼女の欠落した「想像」は、歌い手を経由しないことによって楽曲の変形を避けることが可能な数少ない手段として、注目に値するものではないだろうか。
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[8] https://nico.ms/sm37223770 (最終閲覧日:2022年3月9日)
[9] Fink, Bruce, 1997, A Clinical Introduction to Lacanian Psychoanalysis: Theory and Technique, Cambridge,Mass.:Harvard University Press.( 2008,中西之信・椿田貴史・舟木徹男・信 友建志訳『ラカン派精神分析入門 理論と技法』誠信書房.)が詳しい。また本論では扱わないが、斎藤環, 2011『キャラクター精神分析——マンガ・文学・日本人』筑摩書房.はラカン理論で現代サブカルチャー批評をする著作になっている(わずかだが、初音ミクのことも取り上げられている)。
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