第22話

「気分悪いのが治って、教室に戻ろうと医務室を出ました」

 河上は思い出している様子でゆっくりと話し始めた。


「学生会館で卒業制作を見ていて、なぜかどんどん気分がよくなるというか、調子が上がってきて」

 そういえばなぜだったのだろう、と少し不思議そうな顔をする。


「絵に夢中になっていたせいか、急に椎名がそこに現れたようにすら見えましたが、とにかくそこでたばこを吸ってる姿が目に入ったんです」

 葉山が唸った。千景たちも、どういうことだ、と考えている。


「君はそれを見てどう思ったんだい」

 悠里は気にせず質問を続けた。

「どうって、そりゃ」

 言い淀むと、視線を揺らしてすんと鼻を鳴らした。

「かわいそうだなって思いました」

 思いついたように言った。


「かわいそう」

 その意味を問おうと葉山が繰り返す。

「うちは厳しいので良くて退学、悪くても停学や謹慎処分を受けて、慕っていた人たちが離れていくかもしれない」

 今日一番の輝いた表情で言った河上は、かわいそうと言いながらも、良くて退学悪くて停学と言ったことに気付いていないようだ。


「つまり千景が目障りじゃなくなるということだね」

 悠里の言葉に一瞬頷きかけ、焦って違う違うと首を振った。そうなったらかわいそうだと思ったんだ、などと言っているが悠里はもう聞いていなかった。


「そういうことです、葉山先生」

 葉山も理解したのか頭を抱えている。河上と他の教師たちはわけが分からない、といった顔だ。

「僕としては、河上くんがどう思っていようが他の先生方がどう思っていようが構いません」

 でも、と言って尾崎を見る悠里。


「千景も嘘をついていません。彼はたばこを吸っていません。河上くんの発言だけで千景の喫煙を決めつけたことに対する謝罪がほしい」

 じっと見つめて言う悠里の声は凛と澄み渡り、事実が事実として周囲の人の心に馴染んだ。


「しかし、河上も椎名も嘘をついていないというのは一体どういう」

 そう言う尾崎を遮ったのは葉山だった。

「今こいつが言ったことに間違いはありません。河上は嘘をついていませんし見たのも事実でしょう。しかし椎名がたばこを吸っていなかったのも事実。それは俺が保証します」

 詳しく説明できるわけではありませんが、と前置きして葉山は全体に向かってしゃべり出した。


「学生会館で気分の悪くなる学生や泣き出す学生、倒れる学生などがいた、そういう現象のひとつです」

 どうかあまり気に留めないでください、と葉山は説明する。


 曖昧すぎるがそれでも教師たちは、つまるところ学生たちの不安定な精神状態から起きた思い違いであると認識した。

 河上の様子から千景に対する普通でない感情、強い嫉妬のようなものを読み取ったのも事実だ。


「それで尾崎先生、どうなんですか」

 悠里は再び尾崎に向き直る。

「きちんと確かめもせずに決めつけて、千景の言葉を信じなかった。それって一大人としてあまりよい手本ではないように思いますが」

 どうなんでしょう、と尾崎の様子を伺う。う、と言葉に詰まる尾崎はちらりと千景を見た。


 ふう、と諦めたように息を吐いて立ち上がる。

「確かに、そうだな」

 肩を落とした尾崎は千景に向き直った。

「椎名は模範的な学生とは到底言えないが、確かに最初から疑ってかかったのは私が悪い。いやな思いをさせてすまなかった」

 ぴ、と千景は姿勢を正し、いえいえ、と首を小刻みに振る。恐縮しているらしい。

 悠里も千景も、こうして不当な処分を受けずに済んだ。






「河上が見たのって結局何やったん」

 寮に戻るとそう尋ねた志希に、一斉に信じられないといった目が向く。

「ここにも理解してないやつがいた」

 千景は天を仰いで大袈裟に呆れた仕草をしてみせる。真琴も理解していなかったのか、あたしも、と言いかけたが口を噤んだ。


「たとえば自分の存在価値を否定しているような人があれを見たら、自分なんていない方がいいって、どんどん滅入っていくんだろうけど」

 樹はあまり気にせずに説明した。

「河上くんは千景をうっとおしく思っていたから千景がいなくなればいい、って千景の存在価値を否定するような思いを抱いたんだろうね」

 樹の言葉に志希は、ほお、と気の抜けた返事をする。

 分かっているのかいないのか。


「自分なんかいなくなればいいのに、じゃなくて千景なんかいなくなればいいのにって強く思ったのよ」

 梓が言う。へえ、と先ほどより納得したように志希が頷いた。

「それで千景の信頼がなくなるような現象が目に浮かんだってことやな」

 志希はうんうんと頷きながら確認した。







「そういえば悠里はどうしておれが煙草吸ってないって信じたんだ」

 夜、風呂上がりにリビングでくつろいでいた千景が唐突に尋ねた。少し考える仕草をした悠里はふいに頬を緩める。


「僕は人の心を読めるわけじゃない」

 言いながら千景を見つめて、でもね、と続ける。

「君は自分を悪く見せるために嘘をつくことはあっても、自分を守るために嘘をつくようには見えなかったからね」

 悠里はへらりと笑う。


 だから、と言って立ち上がり千景の座る椅子に近付き彼の前にしゃがんだ。

「君が自分は犯人じゃないと言うのなら僕はそれを信じるし、自分は犯人だと言うのなら僕はそれを信じないよ」

 千景は驚いて目を見開く。


 それなら、と考え笑いが漏れると同時に柄にもなく目頭が熱くなった気がした。初めて得た絶対的な信頼だった。

「それじゃお前、どう言ってもおれが犯人じゃないってことになるだろ」

 ばかだなーと頭を抱えているふりをした。


「周りが何を言っても君自身が何を言っても事実は変わらないということさ」

 言いながら千景の心情に気付いているのか悠里は千景の肩にかかったバスタオルをするりと外し、ばさりと彼の頭にかける。

 だって君はまっすぐだもの。そう言って濡れた千景の髪をかしかしと拭く。


 うつむいたままの千景は、ややあって急にがしりと悠里の手を掴んだ。え、と固まる悠里にそのまま抱きつき

「悠里。お前が女なら絶対に放っておかねーのに」

 いつもの軽い調子が戻っている千景に悠里は笑って

「僕じゃなくても君は女の子を放っておかないだろうに」

 言ってぺしりと千景のおでこをはじくと、腕はするりと外れる。梓がその千景の後頭部をぱしりと叩いた。


 いやむしろおれが女ならよかったか、今の口説き文句は絶対に落ちてたぞ、と机をばしばし叩いて力説する千景の声をみんなが聞き流す。





 そういえば、と言って樹が悠里に視線を戻す。

「悠里はどうするつもりだったの」

 なにが、と樹に向き直って悠里は素で返した。


 悠里の無実は証明したが樹たちが何もしなければどうするつもりだったのか、とそういうことだ。

 しん、と張り詰めた空気になる。んー、と悠里は考えていなかったかのように首を傾げた。


「そういえばどうして分かったの」

 葵が聞く。あの作品が危ないということが、だ。

「なんとなくさ」

 気持ち悪かった、と悠里は簡潔に答える。


「なんで理由を説明せんかったん」

 志希が尋ねる。うーん、と腕を組んで考える仕草をする悠里。

「だって説明するのってなかなか面倒じゃないかい」

 ねえ、と尋ねるように言う。


 確かになんとなく気持ち悪いでは話にならない。証明するには今回棗たちがしたように検証が必要だ。


「おい、まさかおれたちが調べることを予想してたのか」

 千景の言葉にぴくり、と悠里の肩が揺れた。ゆっくり振り返ると、

「なんのことだい」

 ここ最近で一番の笑顔を見せた悠里。


 驚いた表情の志希が顔を伏せる。肩がふるふる震えている。

「もし、もしも、そうなんやったら」

 何かを堪えるように噛みしめるようにそう呟いた。


「おい、志希」

 千景が心配そうに声をかけるが志希はばっと顔を上げる。弾けんばかりの笑顔だ。

「めっちゃうれしい」

 みんなの心配をよそにそう声を張り上げた。


「それってめちゃくちゃ信じてるってことやんな、頼りにしてるってことやんな」

 言って悠里に駆け寄ると肩を組む。今度は悠里が驚いた表情を浮かべた。


 否定も肯定もしない。辺りを見回すと他の者も一様に満足そうな、うれしそうな顔をしている。

「君って、君たちって本当に」

 そこで言葉を区切ると、ふっと笑う。

「本当にどうしようもなく、みんなばかだね」

 あははと笑った。

 みんな笑った。

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