第9話 朱夏の構図


 彼は珈琲カップをのせたお盆を机の上に置くと、窓際に設置された、くすんだ青色のシーツを被せてあるベッドに腰かけた。


 大きな南方にある、見晴らしのいい窓からは大きく成長した入道雲が朱夏の構図をデッサン人形のように陣取っていた。


 クーラーをつけるよ、と彼は机の上にあったリモコンを操作し、風向から涼しい風が私の汗だくの背中を待ち侘びるように押した。



「僕は好きじゃなくてね。この部屋」


「こんなに素敵なお家なのに?」


「僕は嫌い」


 その口調は冷たい真水が入った、曇り一つのないグラスのようだった。


「私の家よりずっと整理整頓されているよ。すごく立派な家。飾ってあったカサブランカの花も綺麗だった。すごく高そう」


「僕はあの花が嫌いだ」


 脳裏には虚ろな瞳を閉じた頼りない風体の少年が、カサブランカの花の茎で長い乱れ髪を縛り、重く垂れ下がったカサブランカと共に、憂いに満ち足りた横顔で俯いている、センチメンタルな絵画のような光景がふと浮かんだ。


 彼のたっぷりとある、たおやかな長い黒髪がクーラーの微風によってふわりと舞った。



「どうして?」


 わざわざ、遠出した花屋で購入したカサブランカの花のように思えた。


 かなり、念入りに手入れもされているのが個人的にも手に取るように分かったからだ。


「僕はあの花よりも穢れているから。知っているだろう。カサブランカの花言葉は……」


 両膝ががくがくと微妙な痺れが生まれ、早く座りたい、と時機を見計らうように座れる場所を探した。


「無垢な乙女だよ。君みたいな」


 あたふたと座れる場所を探しながらここに入ってはいけなかった、何を私は選択したかったのだろう、と否応なしに迫りくる純情な危機を知った。


「いいの、お義母さんはいないのに?」


 とうとう、抒情的な不穏に導かれるように口にしてしまった。


 いけない、そんな不都合な指摘。



「帰ってこないよ」


「ごめん」


 瞳の奥の機微がかすかに黒く青く刹那に光る。


「母さんは死んだ。だから、帰ってこない」


 信じられなかった。


 本当に信じられなかった。


 あまりにも突拍子すぎて私は頭の中が文字通り、真っ白になった。


 


 紗羽子さん。


 私と面識のない叔母さん。



 一度も会った機会がないのに、その存在を伝う話だけで、か弱げなイメージのある女の人。


 お母さんよりもずっと若く、頼りない一本の細枝のような女の人。


 お兄ちゃんが口酸っぱく教えてくれた。


 


 紗羽子さんは、お母さんよりも十二歳も年下で、紗羽子さんは彼を十九歳で産んだ。


 未成年の私より、五つ上の星霜の月齢の夜に禁断の恋に落ちて、意志とは反して彼を静かに身籠った。


 そのエピソードだけで十分、メルヘンな秘話になり、自らを痛めつけるような過ちを犯した迷い人となる。


 皇子さまとの間に授かった幼気な嬰児を残して、この現世から立ち去った泡沫の朝日を浴びた、人魚姫のような物語。


「どうして、そんな大事な話を言ってくれなかったの。家族なのに」


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