第10話 秒針を追うごと


 私の口角は否定形で秒針を追うごとに増していた。


「僕も一週間前に知ったばかりだ。母さんとは小学生の頃に父さんに引き取られてから一度も会っていない。父さんと暮らした月日のほうが長いし、母さんは後日、とある閉鎖病棟に入院していた、と冷酷非情に知らされたよ。お酒なしじゃ、生活が保てなくなったから半ば強制的だった、と父さんは一切の感情もなく説明した。この期に及んで、その壮絶な話を聞かされた僕は、父さんに育てられて本当に良かったと思う。ここじゃ、温かい珈琲も思う存分飲めるし、こうして勉強だって安心しながら打ち込める。ただ……」


 その澄み切った眼は十六夜の月が楚々と浮かんだ、秋澄む湖の水面のように蒼い。


 彼は燕尾服を身に纏った紳士のように砂糖もミルクも入っていない、昂る湯気によって紅潮した頬と香る珈琲を飲みながら、淡々と澱みもなく話してくれた。




 お父さんに引き取られるまで溝鼠が出没するような不衛生な団地で暮らし、小学校で片親の子だから、とクラスメートのリーダー格の男子から何かと引け目を感じながらいじめられていたこと。


 お母さんが夜の仕事で働き始めてから不調を来たすようになり、八歳のときに新しいお父さんが転がり込んで、毎晩、罵声を浴びながら叩かれたこと。


 それに耐えるために独り、夜の公園でブランコに乗って遊び、喧嘩から逃げ出すようにブランコから空を見上げたら夕靄から見え隠れた一番星が綺麗だったこと。


 お母さんが泣き叫びながらぶたれるのを目撃するのが嫌で新しいお父さんにそのたびに土下座し、真冬に裸で追いやられ、泣きながら冷たい木枯らしを風葬した遺骸のように全身から浴びたこと。


 児童相談所に保護されてまもなく、弁護士のお父さんに引き取られ、戸籍もお父さんの名義になり、姓も変更し、お母さんと会うのは叶わなかったこと……。




「父さんから引き取られてからここじゃ嘘みたいな暮らしができるのは不幸中の幸いだった。初めて父さんの所得顔を見たとき、僕は思ったんだ。高そうなフレームの眼鏡と真珠色の腕時計が光っていてさ。この人は今まで底を這うような苦しみを味わったことがない人だな、と。母さんはよく僕に真彦さんにそっくりね、って布団の中で抱き着きながら言ってくれたけれど、僕はあの人を本当の父親だ、とは今でも到底思えないんだ。父さんはストレートで大学に進学して苦労もせず、すんなり弁護士にもなって、……結局、父さんは人の哀しみが分からないんだ。あの男の血を濃密に引いた僕が言える台詞でもないけれど」


 彼が器用な手で飲んでいた珈琲は話を終えるうちに空っぽになった。


「父さんは弁護士で少年事件を担当しているんだ。笑っちゃうよ。実の息子がナイフで刺されるより、酷い目にあったのに。他人の子供の面倒を見るくらいなら母さんと僕を捨てなきゃ、良かったのにね。あいつの本心はまるで分かんないよ……」


 私はようやく、冷えた珈琲を一気に飲み干した。砂糖もミルクも入っていないから苦かった。


「大学生だった父さんは自分のキャリアを優先するために当時、妊娠が発覚した身重の母さんを良心の呵責もなく捨てたんだよ。弁護士になるにはそれなりに修練する時間がかかるし、母さんと関係を維持しても結局のところは、足手纏いの結果にしかならなかったのによくまあ、と義理の母さんから泣きじゃくりながら告げられたよ。中絶費用もちゃんと用意したのに、あの人は父さんを巧みに騙してあんたを産んだのよ、と義理の母さんは我先構わず、噎せながら僕に真実を話してくれた」


 真君、あなたは全否定されて、生まれて来たわけじゃない。


 全世界の人と敵対しても、あなたには私がいる。


 酷い、酷いよ。あんまりだよ? とそれを大きな声では叫べなかった。


 言ってはいけない、と強く拒む私がここにいたからだった。



「義理の母さんは子供ができない体質で、不妊治療を何年も続けているんだよ。だから、僕に冷たく当たることで捌け口を作らないと心身に異常を来たすくらい、本当は辛いんだろうね。実の子供じゃない僕を母親として接しなければいけないから。それもいつまで続くんだろうか。僕に弟か、妹が生まれたら父さんは……」


 言わないで、そんな台詞は、と私は炎暑なのに凍えるように指先から震えた。



「父さんは僕をまた捨てるだろうか」


 そのときの彼の眼。


 あの遠くを見つめるような空虚な、はかばかしくない眼。


 彼は師走の夜の帳が瞬く間に落ちてしまうように儚くも自責を残して、死んじゃうんだろうか。


 自ら、その告白状によって徒に死を選びたがっているんだろうか。



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