第7話 物知りな少年


 展示室へ入ってから彼の表情は見る見るうちに晴れやかになっていた。


 歴史は五教科の中で一番の得意科目だと胸を張って言えるから私も興味があった。


 私たちが果てしない、薄暗がりの瀟洒な展示室で一言一句、専門的な解説を読み進めると、彼が補足するように説明してくれた。


「これは春秋戦国時代の鼎だよ。これは室町時代の唐津焼。これは遣唐使のレプリカだね。これは勾玉だ」


 彼は小さな声で周りの人たちに迷惑をかけないように分かり易く説明してくれた。


「宮崎で発掘されたんだって。この勾玉」


 宮崎でもこんな貴重な遺産が発掘されるんだ、と思うくらい、勾玉は何千年ほど前の秘宝とは俄かには信じがたいほど表面に光沢があり、滑らかな翡翠色をしていた。


「勾玉はアクセサリーみたいだよね。今でも普通に使えそう」


「胎児の形なんだって、一説によると」


 胎児。


 そんなナイーブな言葉が彼の口許から出るなんて思いもしなかった。


 耳元で囁かれて顔が赤くならないか、心配になりながらも、静寂を愛する、このささやかな時間を待ち望んでいた私もいた。




「この前、本で読んだんだ。真依ちゃんが住む宮崎は日向神話の舞台なんだ。古事記の上巻はほとんど宮崎が舞台なんだよ。世界各地の神話を調べるのは面白いよ。近代以降に書かれたフィクションとはまた違った重みがあって僕は好きだよ」


 彼は本当に物知りだ。


 下手をすれば並みの大学生よりも通暁しているのかもしれない。


 インテリジェンスな仄かに暗い展示室で彼の水を得た魚のような知識欲に貪欲な声が心に残った。


「真依! どうしたのよ? 探したんだよ?」


 莉紗の声が耳に入った。


 私はハッとなって振り返り、穏やかな鑑賞は唐突に終わりを告げた。


「日野先輩、どうして、ここに?」


 左手を強く握られた。耳元で声がする。




「帰ろう」


 その声はひそひそ話のように小さかったにも関わらず、緊急を差し迫っていた。


「帰るって?」


「帰るんだよ。君のところに」


 気付いたときには強く手を掴まれ、二人で硬いロビーを走っていた。


 私が何度か、声をかけたけれど、彼は頑なに引っ張ったまま、走り続ける。


 人込みを掻き分けながら遠く彼方へ行ってしまうかもしれない、と手を握られた緊張しまくった私にも強い疑念がないわけではなかった。


 手を握られ、観覧者の野暮ったい視線を気にしながらもまるで、恋愛映画のワンシーンのような幸運に当たったような甘美な想念に駆られ、嫌悪感は一切湧かなかった。


 エスカレーター、先ほどまでゆったりと歩いた自動歩道、参道がある鳥居を抜け、観光客の足に逆らうような、人混みが少ない路地まで突っ走っていく。


「どこに行くの? 私、こんな道知らない」


「僕の家はこの近くなんだ」


 路地裏へ到着するともう、観光客の姿はなく、地元の人が使うような細い私道なのだろう。


 誰も歩いていないし、灼熱を孕んだ真夏の昼下がりに見るからに路地は閑散としていた。




 私の心臓は時計の針が人為的な故障で逆回りに回るように胸騒ぎが鳴り止まなかった。


 道路を超えた先に白い一軒家が見え、彼はその邸宅に向かって指差した。


 その洋館は芝生が生えた庭先も芝刈り機で丁寧に刈ったばかりのように整備され、焦げ茶色の屋根の凹部には凝ったデザインの風見鶏が飾ってあった。


 彼は差した指を元通りに戻すといち早く足を止めた。


 油照りのアスファルトの上を一目散に走り切ったせいか、荒々しい息切れが深呼吸しても止まらなかった。


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