第2話 白南風


「私は農業科でいいと思っている。お兄ちゃん、医学部志望なんだって。私は勉強がだるいから」


「真依は本を読むじゃない? もったいないよ?」


 お兄ちゃんは彼とのいざこざがあったにも関わらず、無事、第一志望校へ合格し、四月から晴れて高校生になった。


 勉強が格段に難しくなり、帰宅するのも夜の八時半を越える日もある。


 お兄ちゃんも最近はまだ一年生なのに大学進学の準備に向けて課題に追われ、家を留守にする日も多い。


「うちの親、期待していないもん」


「真依のお兄ちゃんが県模試で十番以内に入ったとき、大騒ぎだったもんね」


 その言葉に微細な待ち針が指先を誤って刺すようにチクッと痛みをもたらした。


 ただでさえ、うちは経済的に余裕がない。私の都合なんて耳に入れてもらえないから我慢しなくちゃいけないし、お兄ちゃんの塾代は毎月バカにならないほど高値だから、常日頃から節約モードになるしかない。




「お兄ちゃん、学歴だけで人生が決まると思っているもん」


「あたしは一流の美容師になりたいの! 中学卒業したらすぐにでも専門学校へ行きたい!」


 莉紗は莉紗で明確な夢があるんだ。


 そのはっきりした口調に莉紗はいいな、と私は感心した。


 ちゃんと将来やりたい夢があって私はその計画表に名前さえまだ書けていない。


 私は大人になったら何がしたんだろう。


 お兄ちゃんみたいに絶対に医者になりたいとか、大きな目標はないし、大人から指摘されるほど充分な向上心だってつくづく薄い。


「日野先輩、元気している?」


 莉紗がいきなり、つっけんどんに話題を変えたので私は吃驚を禁じ得なかった。




「真君のこと? たぶん、元気だよ」


 気が付けば、一年近く顔を合わせていないんだ。


 近藤君の名前を耳にすると去年の、五月雨の頃の彼との邂逅を思い出す。


 近藤君から茶化されるしくじりはめっきり減った。


 私が本を読むようになってから成績が見る見るうちに上がって、今じゃ、学年でも上位のほうにいるためだった。


 成績がどん尻だったのに突然上がって、周囲から目を開くような称賛は浴びたけれど優等生と位置付けられる今でもあまり、成績の件をどうだこうだ、自慢げに喋るのは好きじゃなかった。



「真依は頭がいいから泉が丘高校でもいいじゃない。真依が勉強教えてよ? あたしも頑張る」


 莉紗は成績が二年生に進級してから芳しくなく、この前の進路相談でも先生から注意されていたから、内心焦っているようにも思えた。


「泉が丘はお兄ちゃんがいるし、私は行かない」


「ええっ! 真依は頭がいいじゃない! 先生たち、期待しているよ?」


 油蝉が竹林から耳をつんざきながら、路上を野外ライブのように木霊させている。


 熱気が蔓延し、少し歩いただけなのに汗が首筋を煙る瀑布のように流れ落ちた。


「真依、あたし、夏休みに入ったら福岡に行くんだけれども一緒に行く?」


 私は莉紗に行くよ、とつかさず、返事をした。


 夏服のセーラー服の生地に馴染んだ汗は、白南風がその不潔な汗を濾過するように乾き始めた。


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