[2] 幻想
鴨。
その文様はかろうじてそう読み取れた。あるいは別の文字なのかもしれない。
光電ディスプレイ上で崩れた字が変化する。踊る。踊り狂う。
人によってどう読むか変わる仕掛け。とりあえず私はそれを鴨だと認識している。
がらがらと引き戸を開ける。機械仕掛けの店主が驚いた顔を見せる。
よれたTシャツによれたジーンズ。そんな私の格好はどうでもいい。
この界隈ではありふれたものにすぎない。私の顔も形もすべて。
視線をひくのは後ろを歩く橋姫。模造された女。
場末の酒場に不似合いなほど着飾っている。目に痛い赤のカクテルドレス。
ひざ丈のスカートからは肉感的な脚がのぞく。ほっそりとしていながら確かな形を作る。
レースを透かして鎖骨の形がはっきり見て取れる。開いた胸元にはダイヤモンドのネックレスが輝く。
中身にも外身にもいずれも激しく価値を感じさせる。略奪の対象。
2人してカウンターに腰掛ける。はじめこそ驚きはしたものの店主はすでに平静を装う。
流れるような動作で私たちの前にそれらは現れた。いつもの酒にいつもの肴。
橋姫を横目で眺めて私は何か気取ったことを言おうとする。
「奇跡的な出会いに」
「はい」
「乾杯」
それらの会話に感情は乗らない。それでいい。私は一気に酒を飲みほした。
ほんの一瞬だけ神経が捻じれる。不具合がじんわりと体中に染み渡る。
酒場にあふれるざわめきが身体を通過していく。
表面にとどまる言葉もあれば、中心を突き抜けていく言葉もある。
だれがそれらを判別しているのだろうか。私? 多分、違う。
荷電素子が値上がりすると推測される。買占めを指示した。
集積所は東海岸に配置した。武装強盗に対する警備の強化が必要だ。
女が金を求める。技術は横流しされていく。その意味を変質させながら。
宇治は巨大になりすぎた。崩壊は時間の問題に過ぎない。後回しにされているだけだ。
廃棄する。完全に削除する。証明書を提出すること。再利用は許されない。
魔術師が死んだ。称号は剥奪される。右脳はすでに奪われていた。
最も強固なセキュリティが防衛するものは何か?
それによって防衛される最も価値のあるものとは何か?
巨大なものは自らの重さによって崩れ落ちる義務を負っている。例えば恐竜みたいに。
コソ泥は少しのものだけを奪う。誰にも気づかれないように。鮮やかな手口でもって。
人間の本質は足だ。足によってすべてが成り立っている。奪うなら足を奪え。
音が流れる。生の音だ。幾何学的な順番でリズムを刻む。静かに、緩やかに。
取引は失敗した。赤色透明を始末しろ。左腕の回収は絶対条件だ。
この世界には温度がない。熱量はすべて薄れて均質になった。差異がない。
その仕組みはいたって単純である。侵入者の時間を凍結する。身動きはできない。
すべては接続されている。ジャンプを繰り返せばどこへだって行ける。
誰かの話。きっとここにあるのは誰かの話だけなのだ。それは誰のものでもない話だ。
お前の持っているものを全部置いていけ。命だけは残しておいてやるよ。
高く積み上げられたブックタワーは簡単にバランスを失う。地平にて情報は圧縮される。
そこかしこに境界線は引いてある。いつだって飛べる。飛ぼうと思えばの話になるけれど。
跳躍する者はどこにでもいてどこにもいない。彼は状況を楽しんでいるだけだ。ほとんど無害。
私が持っているものなど何もない。私には何も所有することはできない。所有とは何だ?
精神を氷漬けにされて粉々に砕く。二度と再生されないように。
放つ。組み替える。神経を切断する。はげた大男はその場に崩れ落ちる。
行きつけない場所などない。
同じやつをもう一杯くれ。300だ。直にぶち込む。薄れないように。
模造の街に誰かがうろついている。模造された人間が。それは法律に違反している。
誰も何も所有することはできない。誰も何も所有されることができないように。
長い長い夢を見ることにしよう。できることならそれは覚めないことが望ましい。
都市は男の死体を飲み込む。その所有権を主張する。素材を無駄にはしない。
線引きをする。必要なものと不必要なもの。私はそのための筆を持っているんだよ。
多分その靴に何か仕込んであるのだろう。それがジャンプマンの正体だよ。
網代木には手を出すな――橋姫は私に問いかける。
「何の意味があるんですか?」
「何の意味もない。幻想を必要としているだけ」
「なるほど。よくわかりました」
橋姫は肩をすくめる。きわめて演技的な所作で。記号を返還する。
2人の姿は酒場から消えた。
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