[4] 記憶

 ざわざわと騒いでいる声が聞こえる。居並ぶ人々は口々に勝手なことばかり言う。

 これは現在だろうかそれとも過去だろうか。あるいは未来? なんだっていい。

 ウェイターは血を吐いて倒れていた。みんながそれを見下ろしている。

 私は歩き出す。適当な額のお金をテーブルの上に残して。

 行くべき場所は私の足が知っている。思ったよりそれは簡単に自分になじんだ。

 石畳。裸足の感覚。痛みはない。冷たさだけが残る。

 店先に赤い花を見つけた。気に入ったので1本だけもらっていく。

 残ったお金はすべてそこに投げ込む。必要ならばまたどこかで奪えばいい。

 人間的であるのか、それとも人間的であろうとしているのか、よくわからなかった。

 悪魔さんは何も言わない。ただ私についてくる。それだけなのになぜだか楽しそうにしている。

 袋小路。壁にぶつかる。邪魔だ。黒い右腕で振り払う。高い石の壁はあっさりと崩れ去る。

 大きな音。立ち込める砂煙。それらはすでに私の背後にしかないものだ。

 道はない。そんなものはいらない。私は歩きつづけることにした。

 飛ぶという発想はなかった。一歩一歩確かめるようにして私は進む。

 過去へと遡っていくかのように。

 太陽が沈む。前へと影が伸びていく。それは過去の残像に過ぎない。

 夜が訪れる。森の中は暗闇に閉ざされる。今となってはそれがひどく心地いいものに思える。

 私は歩くのをやめない。エネルギーは十分に足りていた。

 仮に足りなくなったとしても周りの木々からそれらはいくらでも奪うことができた。

 森に入ってはいけないよ。あぶない動物がいるからね。彼らは君のことなんて簡単に噛み殺せるんだ。

 足だって速い。逃げようとしたってすぐに追いつかれてしまうよ。

 1匹の狼がいて私の食いかかってきた。右腕を食いちぎる。そんなものはくれてやる。

 かわりに死を与えてあげよう。爆ぜる。彼の体は内部から破裂する。血と肉をあたりにまき散らす。

 ひどく臭う。おめでとう。あなたは確かに生きていた。今のがその証。

 雨が降れば消えてしまうものだろう。けれどもそれまでは残ってくれるはずだ。

 あまりぜいたくを言ってはいけない。今自分の持っているものに感謝しなさい。

 一寸先が見えなくとも迷うことはないだろう。私は思い出したから。

 上る。上って下る。ただひたすらにまっすぐ進む。道はない。道を作る。

 これは魔法なのだろうか。多分違う。私が生来持っていた何か。正体のよくわからない何か。

 昔々あるところに小さな村があって1組の夫婦がいて娘が1人と息子が1人いた。

 特別に裕福でなければ特別に貧乏でもなく、与えられた範囲内で日々を暮らしていた。

 畑はあったし森で木の実を拾ったり動物を狩ったりもしていた。

 不自由をした覚えはなかった。その知っている自由の範囲が狭かったのかもしれないけれど。

 朝日が昇る。目を細めた。私はその場所に立っていた。

 目の前に広がる光景は記憶とはまるで重ならないけれどその場所が正しいと私にはわかった。

 やわらかい土の山。表面にはいくばくかの草が生える。人が住んでいた形跡はない。

 けれども確かにそこには村があったのだ。私の住んでいた村が。

 人為的なものではない。もっと大きな何かによってそれは土に飲まれて消えていた。

 音楽が聞こえる。オルガンの音色。荘厳な響き。私を責め立てる。

 ゆっくりと語りかけてくる声。ねっとりまとわりついて私の耳に絡んでくる。

 彼は正しいことしか言わない。故に私の考えは自動的に間違っていることになる。

 どうしてオルガンの音はそれをかき消すことができないのだろうか?

 きらきら光って、こんなにも綺麗なのに、どうして世界をそれだけで埋め尽くしてはくれないのだろうか?

 私は神に会ったことはない。

 手に持っていた赤い花は投げ捨てた。とっくの昔に意味を失くしていたから。。

「どうして守ってくれなかったんですか?」

「さあ、よく知らないけど、初めから必要なかったんじゃないの」

「それはどういう意味ですか?」

「私たちには人間が1人2人死のうがどうでもいいってこと。生贄なんて捧げられてもね」

「そっか、そうなんですね……」

 答えは常にわからない。人間が知覚できる範囲は恐ろしく狭い。

 そしてそれらの答えは今なってはどっちだっていいものだ。

 私は悪魔さんに抱き着いた。その胸に顔をうずめる。背中に手を回す。爪を立てた。

 声を上げて泣く。その理由を私にはうまく説明できそうにない。

 音楽はかわらず聞こえていた。うるさい。さっさと止まってくれればいいのに。

 私はどこへでも行ける。けれどももうどこにも行きつくことはない。

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