[3]

 あのとき感じ取った彼女の変化を僕は無視し続けた。それは単純な自分の見たくないものを見ようとしないという幼児的な心理の結果に他ならない。

 僕がそれに眼を向けたときにはもう事態は後戻りできない場所へと来ていた。不可逆的に物事は積み重なり、時間の経過を無視することはできないことになっていた。

 数秒の機能停止、記憶素子の欠落、反復動作の失敗――次第に彼女は動けなくなり、それでも僕は彼女の傍にいて言葉を交わしつづけて、けれどもそのうちそれさえもままならなくなって、ついには彼女は意志というものをなくすようになった。

 はじめそれは一日のうち少しの時間でしかなかったが、今となっては一日の大半を彼女は何をすることもなく黙りこくった状態を保っていた。

「私を再起動してください」

 そう淡々と呟く声にヒノという存在は感じられず、極めて空虚で彼女が機械であるということを突きつけられた。

 いや、機械だの人間だのというのは関係ないのかもしれない。どっちにしろ彼女は表層的な他者に接するインタフェースを喪失して、生存本能を剥き出しに放り出すようになってしまっていた。

『恐らくそれはソフト的損傷なのでしょうね。再起動することで簡単に修復されます。むしろ早急に再起動すべきですよ。ソフトのエラーは時にハードにも傷を与えかねない。はい? ソフトエラーの解消ですか? 無理ですね』

 いったいどうすればいいのだろう。

 再起動すれば彼女のソフトは失われる。だが、再起動しなければ彼女のハードをも永遠に失うことになる。

 問題を先延ばしにできる時間はあまりに少ない。

 彼女は日々少しずつ眠る時間を多くしている。それが完全に二十四時間眠り続けることになれば本当の崩壊は間近に迫っているということだろう。

 そう、そこでも僕は問題を先送りにしてしまった。僕は今、眠り続ける彼女を前に頭を抱えている。

 彼女のハードまでもが壊れてしまうのはいつかはわからない、それは今すぐであってもおかしくない。だが僕はそれでもなんの決定も下さずにいる。

 合理的に考えてみれば結論はほとんど自明だ。指示に従い再起動すべきである。

 そうすればエラーをおこしたソフトは再構成され、彼女はまた動き出すことになる。だが、それは彼女であって間違いなく彼女ではないのである。

 今になっても僕は夢想する。

 彼女は何事もなく動き出すのではないか? ひょっこりと起き上がっていつものように掃除をはじめて、僕の名を呼んでくれるのではないか?

 それは本当に根拠のない夢想だとはわかっている。だが、僕はそれを完全に掻き消すことをできないでいる。

 頭に靄がかかったようだ。思考が非常に曖昧で何一つ見分けられそうにない。

 不安以上に不快感がこみあげてくる。僕という人間はいったいどこまでやくにたたないというのか。苛立ちもある。早く選ばなければならない。わかっている。理解がまた僕をせきたてる。

 どうすればいいのか、考えれば考えるほどの思考は袋小路に追い込まれ答えからはその分遠ざかる。

 何物をも得られるものはない。ぐるぐると同じところばかりをまわっている。

 そこに落し物は落ちていないとわかりきっている。もうそこから見つかることはありえないのである。

 彼女はずっと眠っている。

「私を再起動してください」

 僕は思わずその声に顔を上げた。彼女は起き上がって僕を眺めていた。

 機械的平坦なアクセントは消え、彼女の声がそこには返っていた。

「ヒノ!」

「早く私を再起動してください」

「でも、そうしたら君は……」

「お願いします……」

「なぜ、どうして、君は消えてしまうんだよ!」

「――そうですね」

 細く彼女は息を吐いた。

「もうすぐ私という人格は何をしなくとも消えてしまうでしょう。だからこそ、貴方に選んで欲しいのです。新しく起動される私は私であって私ではない。それでもいいんです。機械である私に未来に繋がるものなど何一つない。だからせめてそれが私とはほんの少しのつながりしかもちえないとしても何かを残しておきたいのです」

「ヒノ……」

「私を再起動してください」

 くりかえす彼女の声はまた機械的平坦のもとにつむがれている。

 彼女はまたすぐに眠った。僕はそれが夢だったのかと疑い、眼を閉じた。

 朝の光に眼を覚ます。ゆっくりと手元に影が差す。

 おはようございます。と平坦な声が聞こえた。ヒノ、僕はそう呼びかけようとしてやめた。

 彼女はもう彼女であって彼女でないのだから。

 差し出されたコーヒーを飲んでみる。口に合わない。ひどく苦かった。

 彼女はいない。またべつの彼女と僕はまた別の関係を作ってゆく。

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