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 かれこれ一週間ほど連続してコーンフレーク。いい加減なにか処置を施したほうがよさそうな制服をはおる。僕は学校への道を繰り返し歩いてゆく。いつかそんな日が来るだろうなとは予想してはいた。実際に訪れるとなんか感慨深いものがある。学校があったと思われる場所には大きな水溜りができていた。実に壮大で胸のすっとするような風景だった。ナニモカモガトケテミズニナル。

 右手に持っていたカバンがなんか妙に重くなってきた。ひとりきり、誰にみせるでもなく僕はわざとらしく肩をすくめてから、水溜りの中にカバンを投げ捨てた。ぽちゃんと音を鳴らして水をはねさせてすぐに、それは溶けて消えてしまった。水の量がちょっと増えたのだろうけど、まったくわかりそうになかった。

 学校に行くという唯一に近い用事がなくなって何が変わったかといえば、だらだらとすぎる時間というやつに区切りが消えた。もっといえば時間というものを僕はなくした。時間の単位といえば、小説一冊であったりCD一枚であったり映画一本であったり。あとは他に食べたくなったり寝たくなったり。太陽がどうのこうのはあまり気にしなくなる。結論、一日は二十四時間ではなく随分と伸び縮みするものだ。

 外部からの刺激に行動を誘発されるというのは長らくない。風の吹き込んでくるよう開け放ってある窓からときおり外を眺めたりしていた。見るたびにモノは減っていって、そのうちに一メートルぐらいの深さはある水の上から、ぽつんぽつんとまばらに家が立ち並ぶようになっていた。そこまで水量が増してくるともう出歩くなんてことはできない。レジャー用のゴムボートを持ち出して、食料調達にえっちらおっちら遠くのデパートまでこいでいった。

 もうちょっとすると家のすべてが水に埋まってしまうかもしれない。そうすればもう僕はたったひとりでゴムボートピープルを気取らねばならなくなる。いやその前にもっと高いビルかなんかに移住すればいいのか? そんなことを思いついたのがちょうどいいことにデパートだったので、僕はきのみきのままそこに住みつくことにした。ずいぶんといろいろに便利になりはしたけれども、自分になじんでいるものがないというのはいくらか寂しい気もした。

 そこで僕はあいつにでくわすことになった。第一声はぎょっとかぎゃっとかそういう言葉にならない類のもの。お互い人間に会うのはかなり久しぶりだったせいだろう。僕に至っては自分以外に生存しているものがあるという可能性をまったく失念してしまっていた。そのころは僕もあいつの名前を覚えていたのだけれども、のちにはまったく思い出せなくなる。だからというわけでもないが、あいつと統一して呼び習わすことにする。これ以上の混乱はまっぴらだ。

 あいつは言った。もうほとんどの人間が溶けてしまっている。僕は君以外を知らない。まったくどうしてこんなことになってしまったんだろう? 生物というのはもともと死後溶けていく運命にあることを知っているかい? 自家融解といってね、生きているうちから生物の体内で使っていた酵素というのは強力なもので、死後抑制がきかなくなると肉体をどろどろにしていくんだ。でも、どんなに溶かしたところで水にはならない。人間を含めて水でないものが水になったりするものなのか? 僕が調べた限りではあれは本当にまったくの純水だったよ。だから科学的な観点から僕はあの溶けるという現象を考えることをやめることにした。問題はもっと観念的なことなのかもしれない。現代人のトピックスといったもののひとつに無関心があるだろう。狭苦しいアパートにおしこまれているくせに隣にすむ人間の顔も知らない。この溶けるというのはその態度に端を発しているんじゃないだろうか? きっとこの現象は取りざたされるずっと前、もしかすると何万年も前から存在していたのかもしれない。これはもうなんの証明もない推測でしかないけれど、人間をふくめてあらゆるものは一定のラインを超えなければ存在できないようになってるんじゃないかな?

 それは凝固点だとか沸点みたいな? 僕があいつの話に口をはさんだのは一度きりだった。

 え、なにをいってるんだ、そんな堅苦しい話じゃないよ。まったく君はいままで話を聞いていたのか! それともよほどバカなのか! なんで君みたいなバカが生き残っている? 意味がない、まったく意味がないよ。適者は生存され次代になにかがつながってゆくのならもっと優秀なものが残されるべきだろう。まったく間違っている。君が生きていることは間違っているよ! え! 科学こそあれは前時代の迷妄だったのだよ。あれを完全に消し去るためになにもかもが溶けてしまったんだよ。そうでもしなければ科学はなくなってしまわないだろう。どこにもそこにも科学、科学、科学だ! うんざりする。

 案外に僕とあいつとが一緒にいた時間は短かったのかもしれない。いつのまにか僕の前から消え去っていた。多分溶けてしまったのだ。無関心――あいつ自体はあまり僕に関心がなかったのか? 違うだろう、あいつは当初から言っていた。相互に観察し合って溶ける瞬間を見極めようじゃないか、と。言葉どおりに四六時中僕のあとをつけまわしていた。それでも溶けるべくしてなのかはおいとくとして、あいつは溶けて水になった。

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