短編小説集

緑窓六角祭

融点

融点

[1]

 みぶるいで僕は目を覚ます。今しも季節は夏の盛りへと突入しようというのに。無理もないことかもしれない。まとっていたはずのシーツが消えて、かわりといってはなんだけど、僕の体は水まみれ。ぐっちょりという程度でなく、それはもうびちゃんびちゃんに。

 こんなときくしゃみの一つでもするというのは、演技的な所作であって僕は好かない。だからあえてその衝動を抑えつけて大きく伸びをした。そんなことを日常的に思い行動するはずはない、と貴方は思うかもしれない。貴方だって!? 誰なんだそれは? 人間誰しも外部に始点を設定して自己というハードを起動させている。それが一個の正常なフィードバック機構を形成している――なんちゃって。

 ベッドに寝転がったままで立ち上がりもしないというのは随分と自堕落なことだ。僕は飛び起きると朝食をとることにした。居間まで降りていけばその真ん中にぬぎちらかされたワンピースがほったらかしにされている。布の端にふれると今度はじゅくじゅくでなくじっとりぐらいに湿っていた。言うまでもなく、誰に言うまでもないことなのかわからないが、これは僕の服ではない。妹のものだ。いや正確を期すなら妹のものだった。乾き具合から見てだいたい考えたところ、昨日の夜あたりぐらいまでは。

 とりあえず僕は手をあわせて合掌しておいた。それ以上は期待して欲しくない。カーニバルは非日常的であるからこそ人をひきつける。日常の中で人はそうそうに大仰な儀式などやっていられない。コーンフレークに牛乳をかけてがしがしと食う。電気やらガスやらそっちのほうのインフラは近頃どうも不調なようで、そうなってくると自然料理というものは雑になる。ハンガーにかけるだけはかけておいてまったく整えたりはしていない制服を僕は着こなす。それからいってきますと呟く。こたえが返ってくるとはまったく思ってなどいない、惰性。

 ふざけたぐらいに外は暑くてたまらなかった。実際太陽の野郎は随分と近頃調子に乗っている。誰にも文句をつけられないからといって好き放題にやるというのは、人格的な問題というところに帰結する。そういうふうに思いついて僕は太陽をにらみつけてやった。学校に近づくにつれぱらぱらと人の姿が見られるようになる。その大半が僕と同じくよれよれな制服をまとっていて、特に男子にはその傾向が顕著である。だからどうしたといわれればそれまでだけれど。そういう多数側に自分が属しているという安心感と焦燥感を味わえる。それがまだ可能であるというのは、おそらく多分確言は無理でもよろこばしいことなのだろう。

 教室まですいすいとたどり着く。隣の席が空なので隣の隣の席のやつに聞いたところ、ため息をついてから大きく横に首をふってくれた。時間割は英数物地の体音。朝方が大半面倒だけれどどうせ、このとおりにすすむはずはないと僕は知っている。隣の隣の席のやつも知っている。ホームルームはアウト、一時間目はセーフで、二時間目もアウト、三時間目は半セーフ半アウトといったところ。授業をやっていたはずだったのにいつのまにか誰も気づいていない間に、物理教師は消えてしまっていた。妙に強く風が吹き込んでくる。ついでのことで壁もごっそりなくなっている。まったく油断するとどうなることやらわからない。なにもかもが安でのアイスクリームでできているみたいで、そういうととてもメルヘンチックに聞こえるが、実情はそうでもなくて悩んでいるやつにはとても深刻なことであるらしい。

 何もかもが溶けて水になる。

 いつからだったろうかといわれたところで僕にはうまく思い出せない。僕の日常的な範囲ではじめてそれを見たのは確か一週間前。テレビの中で騒いでいたのはかれこれ一ヶ月ぐらい前のことだったろうか? 怪奇現象だの宇宙人だのなんだのとにかく色んなジャンルの人々が自説を打ち出していたが、それを長く維持できる人はいなかった。次々と人は溶けていったから。

 半端に終わった授業に退屈していた僕は広げておいて見ていなかった教科書に視線を移した。沸点上昇凝固点降下。不純物が混じると沸点は上がり、凝固点は下がる。凝固点というのは水が氷になる温度のことで、その逆の氷が水になる温度もそれに等しい。つまりは妙なものが混じっていると氷というのは低い温度で溶けるということだ。

 現代人には色々と食品添加物やらなんやらがいりまじっているという。近頃の死体を埋めてみたところなかなかに長持ちしたとのこと。自分からすすんで保存剤をとっていたのだからまあそういうもんだろう。最近の人々の凝固点というやつはあからさまに下降しているのだと思う。だから――人間が溶けるようになったのかもしれない。都合のいいことに今年はバカみたいな異常気象のすえに、クソみたいな暑さで溶けてしまうのにちょうどいい日差し。今年を逃せばもう溶けるチャンスはないぜってくらいに。

 あたりまえのことでこの説は一考にもあたいしない。人間が水を多く含んでいるといってもそれはもともと液体の状態であるのだし。それにどんなに頑張ったところでそんな無理は通るまい。そもそも僕だってインスタント食品をばりばり食ってる世代にストライクだ。とろけてやるには絶好の素材に違いない。

 ふと顔をあげてみたら教室には誰の姿もない。時計も失せている。机ももう二三個あるばかり。椅子も勿論。床のタイルも大分はげてしまっていた。家に帰る。帰ったところでなんになるわけでもないが。帰り道にて僕は誰にもでくわすことなく家までたどりつくことができた。

 本を読むにしても音楽を聞くにしても、このごろは一気にやるようにしている。うっかり途中のままにしたのを忘れて、思い出したときにはもうなくなってしまっていたなんてことがままあったから。アニメなどときに全五十二話なんてこともある。それでも最近はひたすらな努力を重ねて、半ば眼球に痛みを感じながらも、全部ひといきに見たりする。そんなときの僕が一番燃えている。退屈に開いた時間を漫然としてすごすのは得意分野で、暇に押しつぶされて死ぬなんて事態はちょっと考えられない。一日はすわっと消えてしまって、また朝がやってくる。

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