第8話 夏への脱出 ②

 隼人に左肩を抱かれたまま、蒼依は息も絶え絶えに歩いた。後ろの三人も息を荒らげている。隼人の息が落ち着いているのは蒼依の肩を借りているため、ではないだろう。この体勢は敵の目を逸らす手段に過ぎないのだ。

 木々の枝葉が日差しを遮っていた。とはいえ、蒸し暑さは増している。それがこの倦怠感に拍車をかけていた。

 腕時計を見ると午後二時四十五分だった。携帯食品を食べて以来、まだ何も口にしていない。空腹を覚えて当然だ。これも力が出せない要因の一つ、のように思えた。

 身を寄せ合っているとはいえ、「小声でも会話は危険だ」と訴えた隼人本人に声をかけるわけにはいかない。四年前に蕃神によって連れ去られてからこれまでどうしていたのか、背中から腹部を串刺しにされたのにどうして無事だったのか――など、尋ねたいことは山ほどあるが、少なくとも、この期に及んで彼を偽者と疑うつもりはなかった。ほのかに香る体臭でも、彼が兄にほかならいことは確信できた。

 巨獣たちの咆哮が聞こえなくなっていた。もっとも、それほどの距離を移動したような感覚はない。二体のほうが戦いながら移動した、という可能性がある。

 そんな気休め程度の安堵より、疑問のほうが大きかった。あの小屋に行ったところで事態が好転するとでもいうのだろうか。少なくとも泰輝は古き印を忌避する様子を見せなかったのだから、あの石で純血の幼生であるタイキを斃せるとは思えない。何が目的であの小屋へ行くのか、今の蒼依にはわからないままだ。

 ふと、先ほどの瑠奈の表情が脳裏に浮かんだ。隼人を思い出せなかった瑠奈の表情である。瑠奈は隼人に対する思いまで忘れてしまったのだろうか。隼人はそれをどう感じているのだろうか。隼人と瑠奈――再会を果たした二人が、まるでこの状況にもてあそばれているようではないか。当人でないにもかかわらず、蒼依は悔しさと悲しさで胸がはち切れそうだった。

 雑木林は間もなく抜けられそうだ。前方に日差しの多い草地の広がりが見える。

 それを確認した蒼依は、首を立てている状態さえつらくなり、顔をうつむけた。冷気を感じたような気がしたのは、そのわずかな間だった。

 顔を上げると、ほんの五メートルばかり先に瑠奈が立っていた。門を使ったらしいが、その門はすでに消えており、冷気は蒸し暑さに駆逐されていった。

 隼人の足が止まり、蒼依もそれに合わせた。

 背後の三人ぶんの足音も止まる。

「どこへ行くのかしら?」

 怒りもさげすみもない声だった。見れば、彼女の右手には短剣がある。カズキのものと同じデザインだ。もしくはカズキのものかもしれない。

「君はその剣を捨てたほうがいい」隼人が言った。「素人には使いこなせない」

「大丈夫。今のあなたたちには、勝てる」

 無表情でそう返した瑠奈が、短剣を横に構えて走った。

 蒼依の左肩に回されていた手が、すっ――と離れた。

 ライフルが地面に落ちる。

 軽快に走る瑠奈と、重い足取りでなんとか足を前に出す隼人――。

 短剣が隼人の首の高さで水平に振られた。

 それよりも先に、隼人は屈み、左のこぶしを瑠奈のみぞおちに叩き込んだ。

 ほんのつかの間、瑠奈は目を見開いた。そして短剣を足元に落とし、目を閉じて前のめりに倒れる。倒れゆく瑠奈はそのまま隼人の左肩にもたれた。隼人が腰を上げると、瑠奈はその左肩に担がれてしまう。逆さになった瑠奈の後頭部から垂れるポニーテールが、隼人の腰にかかった。彼女の両腕も、だらりと垂れている。

 隼人は振り向いた。

「蒼依、そのライフルを拾ってくれ。短剣は林の中へ投げ捨てろ」

 言われるまま、蒼依は短剣を拾って右の雑木林へとほうり投げた。とはいえ、ライフルは短剣よりも物騒に感じてしまう。それ以前に、今の自分の力でそれを拾えるか否かが問題だ。

 蒼依が躊躇していると、アリスがハンドガードをつかんでライフルを拾い上げ、そのグリップを隼人に向けて差し出した。右手でそのグリップを握った隼人が、背中を向け、瑠奈を担いだまま歩き出す。

「アリス、ありがとうございます」

 蒼依が礼を口にすると、アリスは肩をすくめた。

「別にいいよ。それにしても、あの野郎、十分に力があるじゃねーか」

 アリスのそんなぼやきに、蒼依は「ですね」と返し、歩き出した。

 ほかの三人も歩き出す。

「蒼依に寄りついたり、瑠奈を担いだり、ただのスケベだろう」

 蒼依の背後でアリスが吐き散らした。

「やいているのか?」

 ロックの小声だった。

「誰がだ? 殺すぞ!」

 今、この中で元気なのは、アリスの「声」だけかもしれない。

「黙れ、と言ったはずだ」

 隼人に注意され、アリスは静かになった。


 雑木林を出た一行は、日差しにさらされながらも、同じ調子で歩いた。榎本は喉の渇きを覚えたが、一人だけだだをこねるわけにもいかず、黙して歩いた。

 それにしても、隼人の肉体の強靱さには舌を巻くだけだった。隼人は通常の人間より身体能力が高い、と山野辺士郎が口にしていたが、これまでの隼人の働きを見ても疑う余地はない。彼の強靱さは特殊な事象なのだろうが、どうしても、今の自分の力のなさと比べてしまう。

 しばらく歩くと、道は左へと曲がっていた。しかしなぜか、蒼依がその曲がり角の手前で、先頭を歩く隼人に「この右」と声をかけた。右の藪の奥には、塩沢がとらえられていた小屋があるはずだ。

 瑠奈を右肩に担いでいる隼人が立ち止まって振り向き、後続の全員も立ち止まる。

「人が通った跡……を行けばいいのか?」

 隼人は藪の一角を顎で指した。

「そうだよ」蒼依は頷いた。「あたしが先に行く?」

「いや、大丈夫だ。みんな、ついてこい」

 言って隼人は、藪へと足を踏み入れた。

「何をするつもりなんだ?」

 榎本が訊きたかったことをアリスが口にした。

 しかし、藪へと踏み出した蒼依は、こちらを見るなり首を横に振った。口を利いてはならない――と訴えているらしい。

 アリスが首を傾げながら歩き出し、榎本も足を前へと進めた。ロックが最後に歩き出す。

 目的は不明だが、隼人があの小屋に向かっているのは間違いない。蒼依がその案内役を担っていたようだ。

 はたして隼人は、あの小屋を間に合わせの避難場所にでもするのだろうか。それよりも、置き去りにした大量の古き印に関係があるような気がした。

 数時間前に榎本自身や蒼依、泰輝、塩沢によって作られたこの道筋は、灌木の枝や背の高い雑草が未だに進路を塞いでいた。この倦怠感には堪える障害である。小屋への道はほかにもあるに違いないが、それを探すのが愚行であるのは、考えるまでもない。

 一行はなんとか小屋の正面へとたどり着いた。

 扉のない出入り口の前で足を止めた隼人が、小屋の中の様子を窺った。そして振り向き、黙して頷いた。異常はないようだ。

 もう限界だった。これ以上は歩けそうにない。榎本がそれを訴えると、隼人は「とにかく中へ」と告げ、瑠奈を担いだまま開口部をくぐった。

 蒼依がそれに続くが、ロックとアリスが互いに顔を見合わせた。二人とも困惑の色を呈している。無論、榎本も同じ気持ちだ。

「入るしか、ないだろうな」

 ロックの一言に頷いたアリスが小屋へと入り、榎本は彼女に続いた。

 振り向けば、体を半分だけ小屋に入れた状態のロックが、右手のライフルを立てたまま外を警戒していた。

 出入り口から入ってすぐに立ち止まった榎本だが、目が慣れていないため、暗がりの中の情景をすぐには把握できなかった。

 それでも、塩沢の体臭はわずかに感じられた。


 塩沢の残り香にむせりそうになるが、蒼依はそれをこらえた。

 相変わらずの暗がりだが、やがて目が慣れると、出入り口から差し込む光によって隅々まで見とおすことができた。右の奥に目をやれば、三十余りの古き印が散らばったままだ。

 隼人が左の壁際で瑠奈を地面に下ろし、その背中を壁に寄りかからせた。ぐったりとした瑠奈は、意識を取り戻す様子がない。

「これって、古き印……だろう?」

 右の奥に目をこらしつつ、アリスが尋ねた。

「そうだ」隼人が答えた。「塩沢さんをここに閉じ込めていた代物だ。榎本さんと蒼依が、これをどけて塩沢さんを助けた」

「ああ、そうだったな。塩沢がそう言っていたけど、ここだったんだ」

 得心したように、アリスは頷いた。

「しかし、ここに来てどうするんだ?」

 榎本の質問は、蒼依が抱いていた疑問でもある。

「泰輝の話によれば、こうするだけでいいらしい」

 答えた隼人は、右の奥へと歩いた。そして古き印の一つを左手で拾い、皆に顔を向ける。

「なるほど」隼人は言った。「みんなも、どれでもいいから一つ、持ってみろ」

「持つと、どうなるんだ?」

 アリスが眉を寄せた。

「説明を聞くより、実行したほうが早い。急げ」

 隼人に睨まれ、アリスは不承不承に左手で古き印の一つを拾った。その彼女の顔に、驚愕が浮かぶ。

「榎本も蒼依も、早く拾え」

 アリスはそうせかした

 古き印を持ったまま、隼人は出入り口へと向かった。そしてロックの前に立つと、左手の古き印を差し出した。

「ロック、これを持て」

「わかった」

 素直にそれを受け取ったのは、小屋の中でのやりとりを把握しているからだろう。

 ロックの反応を見るより先に、榎本が古き印の一つを拾った。

 続いて蒼依も古き印に手を伸ばそうとするが、腰をかがめたとたんに力が抜けてしまい、左手の鞘を地面に突いてことなきを得た。

 右手で拾ったそれを、腰を起こしつつ眺めるが、特に変わった様子はなかった――と思うそばから、蒼依の脳裏でくすぶっていた悪臭が消えてしまった。さらには、体が軽くなったような感覚もあった。

 苦しさを払拭できた――という表情の榎本が、自分の左手にある古き印を不思議そうに見つめている。

「これの恩恵なのか?」

「そうだな。泰輝によれば、旧支配者の呪い、というものにおれたちは悩まされていたようだ」

 榎本の問いに答えたのは、ロックの前に立つ隼人だ。そのロックも吹っ切れたような表情を呈していた。

「持つだけで効果があるなんて」アリスが言った。「持っている間しか効果がない、なんていうのは悲しいぞ」

「今のおれは古き印を手放した状態だが、怠慢感はない。でも念のため、その石は携帯しておいたほうがいいな」

 隼人はそう返すと、ロックに渡した古き印はそのままにして小屋の奥に戻り、別の一つを拾った。そしてそれをウエストポーチに収める。

 ロックとアリスもそれぞれのウエストポーチに古き印を入れた。榎本はボディバックの中に押し入れる。リュックを前に抱いた蒼依も、右手に持つ古き印をその中に入れた。

「これで、歩いたり走ったりが、普通にできるな」

 足踏みをしつつ、アリスは言った。

 蒼依も足踏みをしてみた。今までの重さがうそのようである。

「榎本さんや蒼依らが演習場に侵入した場所に、とにかく向かう。急ぐぞ」

 そう告げて、隼人は腰をかがめて瑠奈を左肩に担ぎ、立ち上がった。

 リュックを背負いながら、蒼依は尋ねる。

「瑠奈を起こさないの?」

「まだ催眠術が効いていたら、どうなる?」

 速攻で返され、蒼依は「そうか」とつぶやいた。

 不意に、隼人が天井を見上げた。

 蒼依も感じた。真上から迫ってくるのは、タイキの気配だ。

「急いで外に出ろ!」

 大声で皆を促した隼人は、まだ動かなかった。最後に出るつもりらしい。

 ロックが戸口の外側に身を引いて通路を確保すると、そこに一番近いアリスが真っ先に飛び出した。蒼依がそれに続き、榎本、隼人という順に小屋を出た。

 日差しの中に出た隼人が「ロック、先頭を行け」と叫んだ。

 ロックが先の道に向かって藪を走った。アリス、蒼依、榎本がそれに続く。

 轟音が響いた。

 蒼依は走りながら振り向いた。

 榎本も走りながら振り向いている。

 小屋が完全に倒壊しており、翼をたたんだ状態の黒い巨獣が、四つ足を大地につけていた。その手前で、左肩に瑠奈を担いだ隼人が、ライフルを右手だけで構え、敵と対峙していた。

 バニラの香りが漂う。

「お母さんを返せ」

 しわがれ声が一帯に響いた。泰輝と同じ理屈であれば、舌先に生じた第二の口で言葉を紡いでいるはずだ。

 雑草に足を取られ、蒼依は仰向けに転倒した。そんな蒼依の足に取られ、榎本も転倒する。榎本はかろうじて蒼依の上にはならず、彼女のすぐ右に仰向けになっていた。

「ごめんなさい」

「いや、おれのほうこそ……」

 こんなやりとりをしている場合ではない、と蒼依は自責の念に駆られた。

「大丈夫か!」

 声を上げながら、アリスが戻ってきた。

「大丈夫です」

 答えて蒼依は、榎本とともに立ち上がった。

 道の先では、ロックが小屋のあったほうを見ているが、間に仲間が立っているせいか、ライフルを向けられないでいた。

 しかし、銃声が鳴った。

 隼人が撃ったらしいが、すでにタイキの姿はなかった。

 つかの間、一帯が暗くなり、そしてすぐに明るさが戻った。

 蒼依はすぐに悟った。タイキが頭上を飛び越えたのだ。

 進行方向を見れば、ロックの先にタイキが四つ足で着地するところだった。

 そちらへと正面を向けたロックが、ライフルを撃った。

 銃声は何度も連続した。頭部や首にいくつもの着弾の様子が見られたが、タイキは平然としており、効果はないようだった。

「ロック、下がれ!」

 隼人が叫んだ。

 黒くて長い両耳が、その先端をロックに向けた。

 あやかし切丸を構えたアリスが、ロックのほうへと走り出した。

 ロックの射撃は続いている。

 タイキの両耳の先端から、強烈な光が走った。

 板を割ったような音が耳をつんざいた。

 思わず目を閉じた蒼依は、その瞬間を見ていなかった。しかし、目を開けてそちらを見れば、アリスが身を伏せており、タイキの手前にあったはずのロックの姿がなかった。

 立ち上がったアリスに二本の長い耳が先端を向けた。

 もう一つの気配を蒼依が感じたのは、そのときだった。

 南の空から降下してきた白い巨軀が、タイキに体当たりを食らわせた。二体はもつれ合って倒れるが、すぐに体勢を立て直したタイキが、翼を閉じたまま上空に飛び立った。

 悔しそうな雄叫びを上げた泰輝が、翼を広げた。

 垂直に上昇していたタイキが翼を広げ、北のほうへと飛び去る。

 泰輝も敵を追って、北へと飛び立った。

 瑠奈を担いでいる隼人が、蒼依の横を通って先へと進んだ。さらに彼は、立ち尽くすアリスを躱し、ロックが立っていた位置へとたどり着いた。

 地面を確認した隼人が、振り向く。

「行くぞ。アリスは最後尾だ」

「蒼依、急げ」

 アリスがそう付け加えた。

 蒼依が歩き出すと、榎本が続いた。

 立ち尽くすアリスを抜いてその場所に差しかかった蒼依は、立ち止まってしまった。

「なんてことだ」

 蒼依のすぐ後ろで、榎本が声を漏らした。

 衣類や防弾ベスト、ブーツなどの残骸とともに肉片が飛び散っていた。藪の中に落ちているライフルは、中央からへし折れている。

 声も出せずに震えていると、「早く行けよ」とアリスにせき立てられた。

 ほかに通るべき道がなく、蒼依はいくつかの肉片を踏みつけながら前へと進んだ。

 藪の外へ出ると、瑠奈を担いだままの隼人が、周囲を警戒しつつ、蒼依を横目で見た。

「おれの後ろについて、道案内をしてくれ」

「フェンスが裂けているところ……へ行くんだね?」

 旧支配者の呪いから解放されたはずなのに、声に力が入らなかった。

「そうだ」

「案内は、声を出して話してもいいの?」

「かまわない。もうバレバレみたいだからな」

「わかたった」

 蒼依が頷くと、榎本とアリスが藪から出てきた。

 南に向かって歩き出した隼人は、瑠奈を担いだままだが歩調は落ちておらず、周囲の警戒も怠らない。その隼人に、蒼依、榎本、アリスという順で続く。

 道はすぐに左へと曲がり、そこから先は砂利が敷かれていた。前方には杉林が広がっている。

 泰輝の気配もタイキの気配も感じられなかった。

 バニラの香りが薄らいでいく。

 瑠奈のポニーテールが、隼人の背中で揺れていた。

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