第8話 夏への脱出 ①

 連射された弾丸は瑠奈の背後、こちらから向かって門の右の地面に着弾した。

 直後に門から現れた――というより、門の背後から現れたのは、タイキだった。ぼろぼろの衣服を身に着けたままの彼が、着弾地点で立ち止まる。

「見つかっちゃった」

 失望の色を浮かべてタイキは言った。

 隼人がタイキの気配を感じたのは、蒼依とほぼ一緒だったらしい。だが隼人は、ライフルの銃口をすぐに下げてしまった。ライフルの重量に腕が耐えられなかったのは、蒼依にも理解できた。

「やっぱり無理か」

 いまいましそうに隼人は吐き捨てた。

「タイキ、今度こそは思いきりやっていいよ」

 背後のタイキを見ることなく、瑠奈はこちらを見つめたまま告げた。

「食べちゃってもいい?」

「食べちゃってもいいよ」

 そんなやりとりをする二人を前にして、蒼依はいきり立った。

「だめだよ瑠奈! いくらなんでもそんなことを言ってはいけない!」

「まずはあの空閑蒼依を食べちゃいなさい」

 敵意のある視線を、瑠奈は蒼依に飛ばしていた。

 蒼依は口を開けたまま声を失った。贄となることを名指しで宣告されたのだ。しかもそれを告げたのは、たった一人の友人である。

 今度はロックがライフルを構えた。

「神宮司瑠奈は撃つな」

 隼人は言葉で制するが、ロックは銃口を定めたままだ。

「しかし、彼女があの小さなタイキに指示しているんだ」

「こっちにも泰輝がいる」

 そう返して、隼人は泰輝に顔を向けた。

 泰輝は隼人を一顧すると、正面に顔を戻し、静かに頷いた。

 そんなこちらの動向を察したのか、瑠奈が何かをつぶやいた。その直後に、門が消失する。

「さあタイキ、早く食べちゃいなさい」

 顔を横に向けて後ろを見る仕草をした瑠奈だが、目はこちらに向けたままだった。

「はーい」

 陽気な声で答えたタイキが、ゆっくりと五歩ほどあとずさり、瑠奈から距離を取った。

 冷気が引いていき、夏の暑さが戻ってくる。

「隼人お兄ちゃん」泰輝が隼人に顔を向けた。「思い出したことがあるんだ」

 そして泰輝の双眼が真っ赤に輝いた。異形と化す前兆である。

「思い出したこと?」

 眉を寄せた隼人に、泰輝は小声で何かを伝えた。それは蒼依の耳には届かなかった。

「そうなのか?」

 得心がいかない様子で、隼人は泰輝を見ていた。

 泰輝が大股で十歩ほど前進し、日差しの下に出た。

「ばーか」

 タイキが泰輝に向かってほざいた。

「ばか、って言うほうがばかなんだよ。お母さんがそう教えてくれた」

 泰輝はそう告げるが、瑠奈は反応を示さなかった。

「でたらめを言うな!」

 声を上げたタイキも、その双眼を赤く輝かせた。

「本当なんだから、しょうがないよ」

 泰輝はそう応酬した。直後、彼の体は膨れ上がり、ぼろぼろの衣服が弾け飛んだ。瞬時に全裸になった彼を、白い体毛が覆い始める。筋肉が成長し、尾が生え、首が伸び、左右の肩甲骨の辺りからそれぞれコウモリのものに類似した翼が広がり、両耳の先端が鞭のように伸び、全身が巨大化したところで、その変身は完了した。

 わずかに遅れてタイキも変幻を始めるが、彼の全身を覆う体毛は黒かった。いずれにしても、色が異なるのみで、二体はうり二つの姿だった。双方とも、体毛に覆われたドラゴン、といった容姿である。

 二体の巨獣は胴体だけでも象と同格の大きさだが、加えて長い首と長い尾を有しているのだ。目の前に存在するだけで威圧されるが、二体の変身の過程を目の当たりにした榎本やロック、アリスは目を見開いたまま固まっていた。

 バニラの香りがほとばしった。このすさまじさは二体ぶんの香りらしい。巨獣と化したタイキも、体臭は獣型の泰輝と同じなのだろう。とはいえ、蒼依の脳裏に焼きついたあの強烈な悪臭は、まだ払拭されていない。

 泰輝とタイキが同時に咆哮を上げた。蒼依は耳鳴りを覚えるが、耳を塞ぐのさえ諦めたほど、両腕は疲れきっていた。

 先に動いたのは黒いタイキだった。彼は背中の翼を閉じた状態で猛然と白い泰輝に飛びかかる。泰輝は後ろ足で立ち上がり、それを寸前で躱した。

 土砂や草を撒き散らしつつ四つ足で着地したタイキが、真横の泰輝に頭部を向けた。直後に、泰輝がタイキの首に食らいついた。タイキが仰向けに倒れるのに合わせて泰輝が馬乗りになる。

 瑠奈の姿がなかった。二体との距離はそれなりにあったが、彼女は身の安全を確保したのかもしれない。それにしても、どこにいるのか――蒼依は瑠奈の姿を求めたが、どこにもその姿はなかった。

 組み合ったまま、二体の巨獣は地面を転がった。大地を揺るがしつつ何回転もしてから、タイキが上になった。タイキは泰輝の嚙みつきを振りほどくが、すぐにまた、泰輝が上を取る。

「全員、移動するぞ」

 隼人が号令をかけた。

「おい、フーリガン」アリスが隼人に顔を向けた。「こんな体でどこへ行こうっていうんだ」

「命令に従え。今なら無貌教のタイキはおれたちにかまっていられない」

 そう返した隼人が、南に顔を向けた。

「まったく」

 アリスは悪態をついた。

「蒼依、急げ」

 横目で蒼依を見ながら、隼人はせかした。

 瑠奈の顔を見たばかりに、またしても未練を抱いてしまった。なんとかして踏みとどまりたいが、意味がないのも承知していた。今の瑠奈を強引に連れ去ることは、力を出せない自分たちには無理である。それ以前の問題として瑠奈がどこにいるのかわからないのだから、たとえ力が余っていたとしても、連れて帰るのは不可能だ。

 置かれたままの鞘を、蒼依は拾った。その蒼依の右に立った隼人が、左手で蒼依の肩を抱いた。

「すまないが肩を貸してくれ。ふらついて、まともに歩けない」

「あたしだって力が入らないんだよ」

「さっきの射撃で手足をおかしくした」

 そう訴えると、隼人は蒼依を伴って歩き出した。どちらかといえば、隼人が蒼依を引いている感じである。とてもふらついているとは思えない。少なくとも蒼依は、一歩を踏み出すのでさえ、かなりの力を必要とした。

「隊列は?」

 アリスの声を耳にして、蒼依は歩きながら振り向いた。

 尋ねたアリスが蒼依たちのすぐ後ろを歩いており、榎本とロック、という順で一列に繫がっている。さらなる後方では、二体の巨獣が組み合ったまま地面を転がっていた。

「好きにしてかまわない」

 振り向きもせずに隼人は答えた。

「なんだよそれ」呆れたようにアリスは返した。「なら好きにするよ」

 不意に、隼人が蒼依に顔を寄せた。

 兄とはいえ、蒼依は心臓が高鳴るのを感じてしまう。

「よく聞け」隼人はささやいた。「山野辺士郎に聞かれたくない」

「うん」

 企てがあるのを悟り、蒼依も声を抑えた。

「いくつもの古き印が小屋にあるそうだな」

「そうだよ。回収されていなければ、だけど。……たいくんが言ったの?」

「ああ、さっき聞いた」

 泰輝が隼人に小声で伝えたのはこれだったのだ。

「その小屋に案内してくれ」

「いいけど、古き印をどうかするの?」

「そのときに話す。今はあまりしゃべらないほうがいい」

「わかった」

 小声での会話は終わった。隼人の顔は離れたが、蒼依の肩に回された手はそのままだった。それが少しだけ、蒼依はうれしかった。

 一歩一歩、踏み締めながら、皆は歩いた。まるで亀の行進だった。

 咆哮とうなり声、大地の振動、バニラの香りは、なかなか遠くならなかった。

 もうすでに、蒼依の息は上がりかけていた。

 気づけば、左手に持つ鞘を杖代わりにしていた。


 泰輝とタイキ――この二人の少年が人間ではないことを、榎本すでに承知している。だが、怪物の姿に変わる瞬間を目にすれば、動揺して当然だ。その動揺が収まらないうちに、隼人は移動を命じたのである。動揺が収まらないだけではない。精神的にも肉体的にも疲弊しきっているのだ。確かに今ならば、ここを離れられる絶好の機会なのだろうが――。

 そんな過酷な行進を命じておきながら、当の隼人は単独では歩けないらしい。蒼依の肩を借りている。支えにするならば武装していない彼女が適任である、という理由があって当然だが、榎本は別の事情があるような気がしてならなかった。

 いずれにせよ、榎本もまともに力が入らなく、深いぬかるみに足を取られながらの歩行をなしているかのようだった。背後では二体の巨獣が戦っているが、その喧騒はまだ近くにある。あの甘ったるいにおいもだ。歩きたくはないが、いざ移動が始まると、一刻も早く巨獣同士の戦場から離れたい、という思いに駆り立てられていた。

 この怠慢な歩行は、通常の半分程度の速度だろう。雑木林までは移動を再開した位置から百メートルほどの距離だが、二分以上はかかったはずだ。

 雑木林の中の道に至ると、巨獣たちの咆哮がわずかに遠のいた。それでも、黒い巨獣が今、目の前に現れてもおかしくはないのだ。おこがましいとはわかっているものの、白い巨獣――泰輝の健闘を願ってやまなかった。

「なあ、フーリガン。フェンスの外まで一気に行くのか?」

 おそらくはそうなのだろう――と思いつつ、榎本は呼吸を荒らげつつ尋ねた。一息入れたくはあったが、二体の巨獣の戦いがどうしても気になる。

「質問も会話も禁止だ」

 蒼依の肩を借りて歩く隼人が、背中で答えた。

 素っ気ない回答に榎本は絶句した。

「なんでだよ?」

 アリスが険のある声で尋ねた。

「声を出すだけで力を消耗する。以上だ」

 素っ気ない答えだった。

 そんな隼人の態度に感化されたのか、アリスは「ああそうかい」と捨て鉢気味に答えた。

「あの……アリス……」

 振り向かずに、蒼依が声を振り絞った。かなりつらそうである。

「なんだい?」

「この鞘……杖代わりにしちゃって……ごめんなさい」

「ああ……別にかまわないさ。むしろ、役に立ってよかった。気にしないで使ってくれ。持ってくれてありがとうな」

「いえ」

 蒼依はそう答えるのもやっとのようだ。

 誰もが脱力しているのだ。

 雑木林の中の道が、果てしなく思えた。

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