第8話 夏への脱出 ③
朝に歩いた道を今は逆方向に戻っている。帰路である、と信じたかった。
杉林の中の砂利道を歩く榎本は、ほかの三人と同じく、無言だった。旧支配者の呪いから解放されたものの、鬱屈した気分は晴れそうにない。
数時間前は「立花を救う」とか「無貌教の実体をつかむ」などという目的に支えられてこの道を歩いていたわけだが、それらの意気込みはもう意味がない。それよりも、これ以上の犠牲者が出ないことを願うばかりだ。立花の死を無駄にしたくはないが、それがために多くの犠牲者が出るのでは、むしろ、立花の死を無駄にする結果となる。たとえこの演習場から無事に脱出できたとしても、立花の死に拘泥し続ければ、協力者であるほかのジャーナリスト仲間にも危害が及ぶだけなのだ。
榎本の前を歩く蒼依も悄然としていた。旧支配者の呪いから解放され、さらには瑠奈を取り戻したわけだが、塩沢やロックの壮絶な最期を目の当たりにしたのだから、この意気消沈ぶりは当然だろう。
もっとも、隼人やアリスがどんな気持ちでいるのかは、榎本には計り知ることができなかった。これまでも多くの仲間を失っているはずだが、隼人もアリスもそれを引きずっている様子がない。
気になった榎本は、歩きながら振り向いた。
アリスと目が合った。
「なんだよ?」
眉を寄せたアリスは、やはり、それほど落ち込んでいるふうではなかった。
「なんでもない」
榎本は正面に向き直った。そして思う。アリスは怒りを抑えているのだ――と。仲間を殺されたことに対して、悲しみではなく、怒りがあるのだ。
怒りに走る余りに冷静さを欠いては元も子もないが、今の現状に油断するほうが危険だ、と思えた。黒い巨獣はいつまた襲ってくるかもしれないし、瑠奈が催眠状態のまま目を覚ますことも考えられる。さらには、山野辺士郎の脅威もあるのだ。士郎は魔術の使いすぎで疲弊しているようだが、いずれは力を取り戻すに違いない。それらいくつもの懸念を考慮すれば、まずはこの演習場から脱出する、という隼人の判断は理解できた。
砂利道の先に目を凝らすと、明るい草地が見えた。
間もなく杉林を抜けるだろう。
右手の拳銃を隼人に返すときが、榎本は待ち遠しかった。
杉林を出た。またしても夏の午後の日差しが一行をあぶった。
前を見れば、砂利道は三百メートルほど直進して左への急カーブとなり、斜面に沿って上っていた。そのカーブの外に、杉林が広がっている。
「あのカーブを突っ切って杉林をまっすぐに進むと、フェンスの裂け目があるよ」
蒼依は隼人の背中に告げた。
「そうか」隼人は歩きながら横顔を向けた。「みんな、少しペースを上げるぞ」
「了解」
アリスが応答すると、瑠奈を左肩に担ぎつつも、隼人は小走り程度に速度を上げた。瑠奈のポニーテールの揺れが激しくなる。
暑さにあらがいつつ、蒼依も隼人の足の運びに合わせた。
背後でも、二人ぶんの足音が力を増した。
幼生の気配があった。泰輝とタイキだ。
隼人の「止まれ」と蒼依の「来た」が、同時に放たれた。
全員が立ち止まった。
「伏せろ」
周囲に目を走らせつつ、隼人は告げた。
四人が同時に腰を低くした。
巨大な何かが一行の頭上を越え、左の斜面に落下して土砂を散らした。仰向けに倒れているのは、白い巨獣――泰輝だった。
さらにもう一体の巨獣が、泰輝へと向かって一行の頭上を横切る。その黒い巨獣――タイキが、泰輝の腹の上に舞い降り、白い巨軀を押さえつけた。
バニラの香りが満ちた。
二体の咆哮が上がった。そして二体は、互いの長い首に嚙みつく。
「今だ。行くぞ」
小声で告げた隼人が、腰を低くした姿勢で前進を再開した。小走りというより、早足程度の速度だ。蒼依も榎本もアリスも、隼人に倣い、低い姿勢で歩を進めた。
泰輝がタイキを弾き飛ばした。
仰向けに倒れたタイキに向けて、泰輝が長い両耳を伸ばす。
雷鳴を伴った電撃が、タイキの胴体を直撃した。
咆哮が上がった。タイキの絶叫らしい。
両耳を塞ぎたいのをこらえて、蒼依は歩いた。
タイキが跳ね起きた。
刹那、泰輝が翼を羽ばたかせて後方に飛んだ。そして空中で間合いを取りつつ、両耳と尾を敵へと向ける。
三筋の電撃がタイキを襲う――が、彼は素早く飛び立ってそれを躱した。
電撃を受けた地面が弾ける。
後退を止めた泰輝が、宙に浮いたまま見上げた。
翼を閉じた状態で上空に浮くタイキが、両耳と尾を泰輝に向けた。
今度の雷鳴も蒼依の鼓膜に響いた。
泰輝もタイキに劣らない俊敏さで上昇し、電撃の束を躱す。
その泰輝にタイキが組みついた。
二体はもつれ合いながら、東の杉林の彼方へと飛び去った。
「ペースを上げるぞ」
そう告げて、隼人は腰を伸ばし、速度を上げた。
蒼依と榎本、アリスがそれに続く。
あの杉林を過ぎれば演習場の外縁はすぐだ。
鞘を落とさないよう、蒼依は左手に力を込めた。
道のない杉林で、四人は下生えを踏みながら走った。
バニラの香りはここまでは届いていない。
もうすぐこの拳銃を返せるだろう――榎本はそれを信じて前へと進んだ。
不意に、木々の折れる音がした。
蒼依が止まり、榎本も停止を余儀なくされた。
立ち止まった隼人の正面――木々の間に、四つ足で構える黒い巨獣がいた。
バニラの香りがあった。
「お母さんを返せ」
しわがれ声が榎本の耳にも届いた。
アリスが先頭に向かって走った。
「フーリガン、あたしが時間を稼ぐ」
言ってアリスは、隼人の前に立った。
「よせ」と隼人は正面から顔を逸らさずに返した。
「神宮司瑠奈を頼む」
そしてアリスは、あやかし切丸を中段に構えた。
「わかった。頼む」
答えは早かった。
「蒼依、榎本さん……続け」
隼人は右方向に走り出した。
そんな彼にタイキは両耳を伸ばしかけるが、その二本をあやかし切丸が同時に寸断した。
苦悶の咆哮を上げたタイキが、首をのけ反らせた。
「早く行け!」
怒鳴ったアリスが、あやかし切丸でタイキの首を突く。
蒼依が隼人を追って走り出し、榎本は彼女に続いた。下生えに覆われた緩やかな下りだった。
走りながら振り向いた蒼依が、涙目でアリスを見た。
「振り向くな!」
今の榎本が蒼依にしてやれるのは、こんな叱咤だけだ。
蒼依は正面に向き直った。
進路は徐々に南へと修正されていた。
タイキの咆哮が、またしても上がった。
振り向きたいのはやまやまだが、榎本は走ることに集中した。
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