第7話 決死戦 ⑦

 草地を進むごとに左右の雑木林が迫ってきた。進行方向を見れば、左の雑木林と右の雑木林とが接する辺りで、一本の道が奥へと延びている。特殊部隊の三人に出会う前――泰輝や榎本、塩沢らと歩いた道だ。今は逆方向に進んでいることになる。

 蒼依はまだ吐き気をこらえていた。強烈なあの悪臭が、鼻腔――否、脳の奥にこびりついている。

「なあ蒼依さん」

 右を歩く榎本が声をかけてきた。彼は右手に拳銃をだらりと提げている。疲れているように窺えるが、蒼依もなんとなくだるかった。長く歩き続けたゆえの疲れもたまっているが、多くの死や多くの異形を目の当たりにして、心が折れそうだった。

「思った以上に疲れている……というか、だんだん足が重くなってきているんだが、君は大丈夫か?」

 尋ねられて、ようやくそれを意識した。確かに歩調が落ちている。だが全体の進行に遅れを取っているわけではない。

「あたしも足が重いんだよ」

 蒼依に代わってそう返したのは、蒼依の左につくアリスだ。

「山野辺士郎の魔術だ」

 そう断言した先頭の隼人も、歩調は皆と同じだった。

「どうりで、この足の重さは異常すぎる」

 蒼依の後ろのロックが、得心したように言葉にした。

「ぼくはみんなに合わせているだけだよ」

 蒼依の前を歩く泰輝が平然と告げた。左手に持つ鞘を小さく揺らして取るリズムは、確かに軽快そうだ。

 しかし、全体の進行速度は下がる一方だった。蒼依は息苦しささえ感じていた。

 そしてついには、全体の足が止まった。

 蒼依は両膝を突いてしまう。

「足だけじゃなくて、体全体が重い」

 わずかに息を上げながら、蒼依は皆の様子を窺った。

 ライフルを右手に提げる隼人は、左手を腰に当て、周囲を見回していた。

 榎本は拳銃を右手に提げたまま、左手を膝に当てて前屈みとなっている。

 あやかし切丸を右手に提げるアリスは、隼人と同じように左手を腰に当てているが、疲れがあるのが、じっとうなだれていた。

 ロックは片膝を突いて頭を横に振っている。

 まるで影響を受けていない、といった風情の泰輝は振り向いており、北のほうを見つめていた。

「たいくん、何か感じるの?」

 少なくとも蒼依は、泰輝の放つ独特の気配以外には何も感じていない。

「うーん」泰輝は首を傾げた。「遠すぎてわからない。でも、こっちを見ている」

「遠すぎても、こんなんじゃ、すぐに追いつかれるな」

 つらそうな声で、榎本が言った。

「そうでなくても、山野辺士郎は門を使えるんだ。今すぐにでも来るかもしれないぞ」

 うつむいたままのアリスが、そう返した。

「すぐには行かないさ」

 士郎の声だった。

 見回すが、蒼依には彼の姿をとらえられない。

「ぼくは君のそばにはいないよ、蒼依ちゃん」

 声は笑っていた。

 隼人が北に正面を向ける。

「貴様、楽しんでいるな?」

「そうだね。ぼくの大切な恋人を殺してくれたんだから、簡単に始末したのでは面白くないだろう。しかも恋人を殺されたのは、二度目だよ。存分に楽しませてもらおうか」

「水野もメイスンもおれが殺したわけじゃないが、二人ともそれなりの業を背負っていたっていうことじゃないかな?」

 相手を刺激するかのような、とぼけた口ぶりだった。

「言ってくれるね」士郎の口調は変わっていない。「カイトに至っては、あの大いなる魔女……その末裔なんだよ。実に惜しい逸材だった」

「なるほど、キザイア・メイスンの血筋だったわけだ」

 隼人は知っているようだが、ロックとアリスは反応を示さなかった。無論、蒼依にとっても、知る由もない話だ。

「だからね、カイトが味わった恐怖を、君たちにも味わってもらいたいのさ」

 笑いを押し殺しているのが、蒼依にもわかった。

「では、恐怖をどうぞ」

 とたんに、蒼依の視界は闇に覆われた。


 黒い靄が薄れていった。揺らめく光が頭上から降っている。見下ろせば闇ばかりであり、地面は視界になかった。

 自分が水中を漂っていることを、蒼依は知った。黒い靄はすっかり晴れたものの、周囲はほのかに暗かった。水中ではあるが、呼吸に支障はない。

 蒼依はどこかへと向かって進んでいた。泳いでいる、という意識はなく、手足を動かしている感覚もなかった。水の中をただ突き進んでいるのだ。

 水深が増したらしく、暗さが募った。黒い靄ほどではないが、視界が悪い。

 やがて下方に砂地が見えてきた。岩場もある。それらに光の揺らめきが映り、蒼依の到来を歓迎しているかのようだった。

 蒼依は深度を増しながら進んだ。かなりの深さらしい。魚影も海藻の類いも見当たらないが、ここは海の底である、と納得できた。

 眼下では砂地がなくなり、岩だらけの大地となった。いくつもの巨大な岩山が屹立し、蒼依はそれらの間を進んだ。

 前方のはるか彼方に建造物のような影が見えた。少なくとも自然にできた造形ではない。

 蒼依の精神を揺さぶる途方もなく巨大な圧力があった。それは彼方の建造物のような影から放たれていた。

 ――行きたくない。

 素直な感情だった。なのに蒼依は潜行を止めることができず、徐々にその影へと近づいていく。

 ――行きたくない。

 何本もの巨大な柱が見えてきた。それら巨大な柱を戴くのは、さらに巨大な建造物である。

 精神を揺さぶる圧力が、大きくなってきた。

 ――行きたくない。

 眼下はごつごつとした岩場だったはずだが、いつの間にか平坦な面になっていた。よく見れば石畳だった。

 正面に視線を戻せば、巨大な建造物はいくつもあった。そのどれもが、そして巨大な柱のすべてが、石でできていた。

 得体の知れない圧力が蒼依の精神を揺さぶっている。

 ――行きたくない。

 そんな感情とは別の意思によって、蒼依の潜行は不意に止まった。石造都市のまっただ中で、蒼依は浮いていた。

 見渡せば、さまざまな形の石造物が並んでいた。直方体、立方体、半球形、ピラミッド型など、あらゆる形状の巨大な石造物が、海底下の都市を形作っているのだ。しかしそれぞれは、蒼依の知る角度や面を有してはいなかった。直角に見えていたはずの部位が鋭角に見えたり、平面に見えていた壁が曲面にも見えてしまったり――凝視すればするほど目まいがし、吐き気を催すほどである。

 正面には巨大な壁があった。石の壁である。そしてそれも、垂直に立っているのか傾斜しているのか、見定められなかった。もっとも、抱き柱や敷居がある造形から、扉であると窺えた。その前面には、浅浮き彫りで異形の像が描かれているが、それが何かは蒼依にはわからなかった――というより、見たくないあまりに、像の形を理解する前にその箇所から目を逸らしたのだ。とはいえ、扉であろうその部分が奥へと後退し始めたときは、さすがに目を向けてしまった。

 扉はすでになく、漆黒の闇がうずくまる巨大な開口部が、蒼依の正面に立ちはだかっていた。漆黒の闇は、開口部を満たす漆黒の物質にも思えた。

 得体の知れない圧力がさらに強くなった。純血の幼生でもなくハイブリッド幼生でもない、巨大な何かだ。

 逃げたかったが、体は動かなかった。蒼依が自由に動かせるのは、目だけだ。しかしその目も、今は自由にならない。まばたきさえできないのだ。

 開口部内の闇が揺れた――そのように見えた。

 蒼依の両目は、その闇に釘づけとなった。

 漆黒の闇を押し分けて、それは姿を現した。濃緑色の巨大な怪物だった。頭足類のような形状の頭部、背中には折りたたまれた一対の翼、太い胴体、かぎ爪を有する手足――それが、蒼依の正面で彼女の視界を占領した巨体だった。

 巨大な怪物が蒼依を見下ろした。怪物の目は左右に三つずつ並んでいる――ように見えた。頭部の下部を覆う無数の触手がのたくっている。

 目の前に浮かぶ小さな肉を食らう――それは、この怪物が放つ意思であり、蒼依の精神を揺るがしている根源だった。

 あの強烈な悪臭が蒼依の脳をかき乱した。


「蒼依!」

 声と同時に、蒼依は右肩をつかまれた。

 足が重くなって立ち止まった場所だった。南を向いて立ったままの蒼依は、正面に立つ隼人に目の焦点を合わせた。隼人は左手で蒼依の右肩をつかんでいる。

 強烈な悪臭がわずかに感じられたが、それが脳内の残像であることを、蒼依は悟った。

「気がついたか」

「あたし、どうしていたの?」

「幻覚を見せられていたんだ。おれも、ほかのみんなも」

 答えた隼人は、仲間たち一人一人に目を配った。

「ぼくは見ていないよ」

 泰輝が平然とした様子で言うが、榎本やロック、アリスは、疲れたような表情を呈していた。

「みんなが同じ幻覚を?」

 蒼依が尋ねると、隼人は「ああ」と頷いて左手を下ろした。

「においの幻覚まであった」

 榎本がこぼした。

「どうだい?」士郎の声がした。「今のがカイトが受けた恐怖だよ。南緯四十七度九分、西経百二十六度四十三分……その海底に眠る神の姿を、君たちに見てもらったのさ」

「まずいな」

 つらそうな顔でロックが言った。

「何が?」

 問い返すアリスもつらそうだった。

「さっきの術はもう切れているみたいだが、今の幻覚は精神的にも肉体的にも、かなり効いた」

 ロックはそう返した。

「持続効果がある、ということだな」隼人はかぶりを振った。「おれもそうとうやられたよ。南のフェンスまで歩けるかどうか」

 そして隼人は周囲を見渡した。

 沈黙があった。

「山野辺士郎のお告げは途絶えたようだな」隼人は言った。「ここで少し休もう」

「こんなところで、か?」

 驚いたように声を上げたのはアリスだった。

「なら、どこで休めばいい?」

 隼人は切り返した。

「どこで……というより、今は先を急ぐべきじゃないのか?」

「そうしたいところだが、まともに歩けるのは泰輝だけだ」

 告げられてアリスは、「確かに」と頷いた。

「それに」隼人は続けた。「気づかなかったか?」

「何に?」

 首を傾げたアリスが、ロックを見た。しかし、ロックも首を傾げる。

「山野辺士郎の声かな?」

 榎本だった。言葉を紡ぐのもつらそうである。

「そうだ。あいつも疲れているみたいだ」

 隼人はそう答えた。

「言われてみれば、そんな声音だったな」

 得心したようにアリスが言った。

「おそらく」隼人は北のほうに目をやった。「さっきのハイブリッドはメイスンではなく山野辺士郎も使役していたんだろう。それに加えて、味方の数が減ったために、おれたちの体を重くしたり、幻覚を見せたりと、魔術を繰り返した。やつもおれたちと同様、疲弊しているに違いない」

「休むのなら今のうち、というわけか……」

 ロックがつぶやいた。

「しかし、向こうにはまだ動けるやつがいる」

 そう意見した榎本に、アリスが顔を向けた。

「小さいタイキ、だな」

「そうさ。今、あいつに襲われたら、ひとたまりもない」

「でも、歩いて今より疲れてしまっては、剣も振れないし、銃も撃てないぞ。少しでも休んで体力を回復させるほうが、ほんのちょっとでもマシだろう」

「それはそうだが……」

 榎本は言葉を濁した。

「それにな、榎本さん」隼人は言う。「勝算がないわけではないぞ」

 そして隼人は泰輝を見た。

 榎本もロックもアリスも蒼依も――全員が泰輝に視線を送った。

 小さな驚きを呈した泰輝だが、すぐに落ち着き、周囲を見渡す。

「ここにいたほうがいいよ。あいつが来たら、ぼくが戦う」

 思いも寄らない言葉を耳にして、蒼依は息を吞んだ。元の泰輝に戻った――というよりも、さらに成長したように思えた。

「戦えるのか?」

 アリスが尋ねた。

「戦えるよ。勝てるかどうかは、わからない。だって、今のところはやられてばかりだからね。でも、お母さんを助けなきゃ」

 答えて泰輝は、小さな笑い声を立てた。

「笑っている場合かよ」

 呆れたように返したアリスが、うつむいてため息をついた。

「そういうことだな。ここでしばらく休むぞ」

 隼人は明言した。

 少なくとも蒼依は、しばらくは歩けそうにない。ここで休憩を入れてくれるのを、今はありがたく思った。

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