第7話 決死戦 ⑥
草地の彼方や雑木林の奥に、いくつものうごめく影があった。榎本にも見えるのだから、可視状態であるはずだ。いずれも、自分たちとは五十メートルほどの距離に位置しており、今のところは近づいてくる様子がない。
どれを狙ってよいものか判断できないが、榎本は自分が立つ側――おそらくは西、に向かって拳銃を両手で構えた。とはいえ、幼生の一体でさえこの自分が斃すのは確率的にはかなり低い、と思えた。
榎本が銃口を向ける先は草地が広がっており、二体の幼生が確認できた。ほぼ真正面に位置する一体は「人間大の昆虫」のように見えた。その向かって左に十メートルほどの距離を置いて存在するのは、像ほどの大きさがある蛙だろうか。二体ともこの距離では姿態の詳細がつかめない。
あの巨大な蛙は並の弾丸など受け付けなさそうだが、この拳銃に装填されているのは、隼人らが使っているライフルの弾丸と同じく、対ハイブリッド幼生弾丸だ。脳を破壊すればハイブリッド幼生を斃せるというが、当然、相応の射撃の腕前が必要だろう。
塩沢の生臭さを凌駕する悪臭――糞尿のにおいが圧倒的な勢いで押し迫った。吐きそうになるのを榎本はこらえる。
「やっと許しをもらえたんだよね」
カイトの声だった。
自分が定めた標的から目を逸らすことになるが、榎本はそちらに視線を移した。
塩沢の正面から十数メートルという位置に、腕吊りサポーターで右腕を固定したままのカイトが立っていた。彼の左手には例の短剣がある。
「士郎様がせっかく、利用してやる、と言っていたのに、おまえらはその期待を裏切ったんだ。仕方ないから皆殺しにしてくれ、とのお言葉を頂いたわけだ」
そんな話を聞いているうちにも、幼生の数は増えていた。榎本の正面にも四体ほどが加わっている。さらに見回せば、三十体以上が周囲に控えていることが把握できた。
「まあ、そっちの泰輝を殺すことは不可能だが、これだけのハイブリッドがいればその力を封じることは可能だろうね。少なくとも泰輝以外の六人をあの世に送るのは簡単だ」
「手持ちのハイブリッドを全部集めた、というわけか?」
南側の敵にライフルの銃口を向けている隼人が、カイトに横顔を向けて、そう尋ねた。
「そうさ。三十五体もいるぞ。おまえたちに勝ち目はない。恐怖にさいなまれながら死ぬがいいさ」
「手持ちのハイブリッド幼生が、全部か」
塩沢のだみ声だった。
「だから、そうだと言っている」
面倒そうにカイトは返した。
塩沢が榎本に顔を向けた。
「榎本さん、あの石をくれ」
求められたが、榎本は返答に窮する。
「しかしあれは……」
「早くしろ!」
だみ声でせかされた榎本は、渋々と拳銃を左手に持ち、たすき掛けにしたボディバッグを背中から正面に回した。そしてその中から古き印を取り出す。
「こっちへ投げろ」
そんなだみ声に榎本はあらがえなかった。バッグを背中に戻し、古き印を塩沢に向かって右手の下投げでほうる。
難なく左手で古き印を受け取った塩沢だが、同時に全身を震わせ始めた。しかも、古き印を持つ左手からは湯気が立っている。
榎本や隼人だけではなく、蒼依や泰輝、ロック、アリスもその光景に目を向けていた。
「ばかじゃねーの?」カイトが笑った。「自殺でもしようというのか? それとも攻撃に使うのかな? ハイブリッドには多少の効果はあるが、人間であるおれにはまったく効かないよ」
「ばかはおまえだ」
震えながら、塩沢は吐き捨てた。
「なんだと?」
カイトが眉を寄せた。
空を仰いだ塩沢が、口を大きく開いた。
「フングルイ・ムグルウナフ・クトゥルー・ルルイエ・ウガフナグル・フタグン……
そして塩沢は、古き印を自分の口にほうり込んだ。
目を離せないまま、榎本は息を吞んだ。
「ぐああああああああああああ!」
塩沢の絶叫が山々に響いた。まさしく怪物の叫びだった。
カイトでさえ驚愕の表情で固まっていた。否、誰もが――泰輝でさえ固まっている。
塩沢の胸が弾け、血液や肉片が飛び散った。
絶叫が鎮まり、塩沢の体は仰向けに倒れた。
なんのための行動だったのか、榎本にはわからなかった。カイトの言葉どおり、自殺を試みた、とするのが無難なのだろうか。
ふと、においに変化があった。
隼人と蒼依が何かを感じたことを、榎本は彼らの表情で悟った。
「うそだろう……」
うろたえた様子のカイトも、空閑兄妹と同様に感じているに違いない。
強烈な気配は、ハイブリッド幼生など比べものにならないほどの強大な存在から放たれていた。雄の性ではあるようだが、純血の幼生とも異なっている。
それを感じた直後に、においの変化があった。塩沢の体臭を何倍にも濃くしたような悪臭であり、蒼依はこらえきれずに嘔吐した。
アリスが咳き込んでいた。隼人やロック、榎本はもちろん、カイトでさえ顔をしかめている。泰輝だけは平然としているが、それでも彼は、塩沢から目を離さない。
胸部が大きく裂けた塩沢は、仰向けのまま微動だにしなかった。魚のものと変わらぬ目は見開いているが、それはこれまでと同様だ。蒼依の懸念は塩沢の生死である。通常の人間ならば生きているのが不思議な状態だろう。深きものである、ということに期待したかったが、現実的に考えても存命はありえない。
その塩沢の体が、大きく一度だけ震えた。
生きている――と思いたかったが、そうではないらしい。加えて、強烈な気配はさらに強まっていた。
突然、塩沢の胸の裂け目から太い何かが天空へと伸び上がった。
悪臭がさらに増した。
とてつもなく長い何かだった。それがはるか上空で大きな弧を下へと描き、大地に向かってさらに伸びた。弧を描いている位置はそのままに、どんどん伸びていく。伸長の起点は塩沢の胸のように見えるが、この何かの容量が塩沢の体内に収まっている――とは考えにくい。門など時空の出入り口が塩沢の体内にあるに違いない――そんな漠然とした所感が蒼依の脳裏をよぎった。
直径が三十センチ前後のそれは、濃緑色、もしくは濃い灰色であり、先端が細く、弧を描けるしなやかさがあるのは把握できた。触手――なのだろう。巨大な一本の触手である。
触手の先端が、地面に達する直前で伸長を水平に変えた。カイトに向かってまっすぐに伸びていく。
驚愕の表情を浮かべたカイトは、悪態をつく余裕さえないらしく、無言のまま、滑るように素早く後退した。
しかし、触手の先端はカイトに追いつき、まっすぐに延びて彼の横を通り過ぎた。そして、たったそれだけで彼の体を弾き飛ばしてしまう。
カイトが空中で湯気を放って蒸発した。
さらに触手は、カイトの後方に待機していたハイブリッド幼生たちへと接近した。
ハイブリッド幼生たちが放つ気配に、恐怖が混交した。
図太い触手は伸長を止めたらしい。だがそれは、次なる動きを見せた。
ハイブリッド幼生たち――人でもなく獣でもなく鳥でもなく虫でもない形容しがたいものどもが、次々と弾き飛ばされた。化け物どもをなぎ払うかのごとく、触手が横に走っているのだ。塩沢の体を中心として、反時計回りに移動しているのである。その速度が、徐々に増していった。
弾き飛ばされたハイブリッド幼生たちには、カイトと同じ最期が待っていた。彼らもまた、湯気を放って一瞬にして消滅するのだ。
蒼依は見上げた。弧を描いている部分が自分の頭上を通過するときに、とてつもない悪寒を感じた。おそらくは、泰輝をも赤子同然と見なす圧倒的な存在だろう。
残りのハイブリッド幼生たちが後退し始めるが、触手は反時計回りに移動しつつ、さらに伸び、先ほどより距離を置いた化け物どもを次々と消していった。
反時計回りに一周した触手は、その動きを止めると、即座に収縮を始めた。先端が手前に引き戻され、弧の位置へと上昇し、やがて垂直に下りて塩沢の胸部の裂け目に消えてしまう。
泰輝以外の幼生の気配はなかった。あの強大な気配も、今はない。
悪臭は残っているが、少しずつ収まっているようだった。
「なんだったんだ……」
ライフルの銃口を下ろしたロックが、そうつぶやいた。
「塩沢さんの……深きものどもの神が、塩沢さんの体を門として使い、遠方から攻撃したんだ」
答えた隼人も、ライフルの銃口を下に向けていた。
「なら今のは、蕃神の一柱ということか」
そう告げたアリスも、あやかし切丸の切っ先を下に向けている。
蒼依は三人の注意がそちらに集中している事態が気に入らなかった。
「塩沢さんは?」
問いつつ、蒼依は仰向けの塩沢に近づこうとした。
「死んでいる」
沈鬱な趣で榎本が告げた。
「うそ……」
足を止めて、蒼依は塩沢を見た。
まるで活け作りだった。そう感じた自分を、蒼依は恥じる。
「南へ向かうぞ」
躊躇せずに隼人が言った。一刻も早くここから離れたい――そんな雰囲気だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます