第7話 決死戦 ④

 榎本は見鬼がなんたるかを把握しているわけではない。しかし、ロックとアリスだけではなく、見鬼である蒼依でさえ困惑の色を見せたのだ。おそらくは塩沢も同じ思いなのだろう。前例のない試みであるに違いない。

 肩を並べて立つ隼人と蒼依を護衛するために、ロックが兄妹の前、アリスが後ろに位置し、前後左右に目を走らせた。塩沢は皆から少し離れた位置で周囲を睨み、拳銃を両手で構える榎本は剣を援護するつもりでアリスの横に立った。

 兄妹は目を閉じ、瞑想していた。隼人の足元には彼のライフルが、蒼依の足元にはあやかし切丸の鞘が、それぞれ置かれている。

 静かな時間が流れた。

 暑くもなく寒くもなく、夏とは思えない気候が、ここが異世界であることを知らしめているかのようだった。

 遠くから衣擦れや足音が聞こえた。

 兄妹の瞑想が始まって一分も経っていない。腕時計を見ると午後一時五十八分だった。

 榎本は周囲の様子を窺った。もっとも、濃い霧のため、近くの建物しか見えない。

 自分の正面に視線を戻した榎本は、息を吞んだ。

 いくつかの人影が霧の中にあった。狭い通りをこちらへと歩いてくる。そのどれにも頭部がなかった。

「何もするな」アリスが首なしたちを見ながらささやいた。「フーリガンたちの邪魔にならないようにしろ」

「しかし、こっちへ来るぞ」

 榎本も声を落とした。

「今は、可能な限り銃声を避けたい。いざとなったら、あたしが斬る。死なないだろうけど、手足を切り離せば匍匐移動さえできない」

 それは想像するだけで吐き気を催しそうな光景だ。

 アリスは塩沢に顔を向けた。

 気づいたらしく、塩沢もアリスに顔を向けた。そして彼は、すぐに頷く。アリスの言葉を聞いていたようだ。

 首なしたちは体をわずかに震わせつつ、足を引きずるように近づいてくる。

 それらに銃口を向ける榎本の拳銃も、首なしたちと同じように震えていた。

「だったら、今は拳銃もライフルも無意味じゃないか」

 独りごちたつもりだったが、アリスが横目で榎本を見た。

「いざとなったら、迷わずに撃ってくれ。少なくとも蒼依は、この中で一番弱い。彼女を守るつもりで、頼む」

 忘れかけていた意気込みを思い起こさせてくれる言葉だった。

 拳銃の震えが収まった。


 ――たいくん。

 ――たいくん。

 ――たいくん。

 蒼依は心の中で泰輝を呼び続けた。

 外の音は一切耳に入ってこない。泰輝を呼ぶことだけに、蒼依のすべてが集中していた。

 雑念を払拭できたのは、蒼依の中に割り込んだ別の思念の手引きがあったためだ。それは隼人の思念だった。隼人の強大な思念が蒼依の思念を導き、また蒼依の思念は隼人の思念をより強大化させ、同調したそれぞれが、一つの存在に訴え続けた。この同調は蒼依の自信にも繫がった。そしてその自信が、二つの思念のさらなる強大化を生んだ。

 血と悲しみと呪いによって作られたこの霧を突き進んだはるか彼方――それでもここと同じ赤首の集落の中に、それはいた。

 ――たいくん、こっちへ来て。

 ――たいくん、あたしはここにいるよ。

 ――たいくん、みんなを助けて!

 蒼依は懸命に訴えた。

 しかしそれは――神宮司泰輝は、あのタイキと対峙しているらしい。こちらの思念に反応しない。

 ――諦めるな。

 隼人が蒼依を鼓舞した。

 そう、諦めるにはまだ早い。

 ――たいくん!

 ――たいくん、気づいて!

 ――たいくん、あたしだよ!

 蒼依は訴え続けた。

 不意に、感情の波のような何かを感じた。

 深い霧の先――遠くからの意思だ。

「門だ!」

 アリスの声がした。

 そして冷気が漂う。

 ――たいくんが門を使った!

 冷気が漂っているのを感じつつ、蒼依は両目を開いた。


 情報量が多かった。何がどうなっているのか、蒼依はすぐには把握できなかった。

 蒼依と隼人の正面にはロックが背中を向けてライフルを構えているが、その前方に門があった。地上よりわずかに浮いているそれは直径が二メートル程度だ。その手前にタイキがこちらに向かって立っており、彼の足元には泰輝が倒れていた。泰輝はうつ伏せであり、顔をこちらに向け、目を半開きにしている。二人の少年は、どちらも衣服がぼろきれのようだった。そしてタイキは、両耳が元の状態だった。

 さらに、足音に気づいて振り向けば、アリスと榎本――二人の背中の向こうに、何体かの首なしが見えた。首なしたちはこちらにゆっくりと近づいており、その先頭はアリスまで五メートルという位置だった。

「残念だったね。門を呼んだのはぼくだよ」

 得意げな声を聞いて、蒼依はタイキに向き直った。

「おまえにもおれたちの呼び声が聞こえたわけだ」

 隼人は残念そうでもない様子だった。

「今からおまえたちを食べてやる」

 言ってタイキは、にやりと笑った。

「悪いけど、我慢しろよ」

 アリスの声がした。

 見れば、先頭の首なしの左脇腹をアリスが右足で蹴ったところだった。

 左へと倒れた首なしは仰向けになり、手足を動かすが、なかなか立ち上がれない。二体目の首なしがそこへ差しかかり、倒れている同胞につまずき、その上に倒れ込んだ。それだけでなく、三体目もそれに続く者たちも、次々と折り重なるように倒れてしまう。

「ぼくが話をしているんだよ!」

 タイキの罵声を耳にして、蒼依はそれに向き直った。

「おまえたち、ぼくが怖いんだろう?」

 どうにか自分を落ち着けようとしているらしい。声にいら立ちが窺えた。

 門が間近という状況下であり、冷気は徐々に増していた。真夏ではないどころか、真冬のようだった。凍えるような寒さは、夏服なのだからなおさらである。

「怖くないよ」蒼依は言った。「残念なのはあなたのほうだったね。こんなにごちそうがあるのに、どれもおいしくない」

 とたんにタイキは憤怒の形相をあらわにした。

「うるさい! 今から食べられちゃうんだから、怖くないはずはないんだ!」

「黙れ」

 静かに吐き捨てたロックが、ライフルの銃口をタイキに向けた。

「ロック、待て!」

 隼人が声を上げるのとロックのライフルが火を噴くのは同時だった。

 連射された三発の弾丸は、タイキに届かなかった。代わりに、泰輝のすぐ手前の地面が炸裂する。

「あーあ、失敗しちゃった」タイキは本気で悔しがっているらしい。「おまえたちに返そうと思ったのに」

「どうなっているんだ?」

 声を落としたロックは、次の射撃に入らなかった。

 タイキに向かってアリスが走り出した。その彼女の左腕を隼人の右手がつかむ。

「やめろと言っている」

「何もしないで黙ってこいつに食われろと?」

 あやかし切丸の切っ先をタイキに向けたまま、アリスは隼人を睨んだ。

 それよりも、蒼依は自分たちの泰輝が気になった。純血の幼生である彼は死ぬはずがないが、どう見ても脱力しきっているのだ。

「ねえ、あなた」どうしてもタイキを名前で呼ぶ気がせず、蒼依はそう声をかけた。「瑠奈は……あなたのお母さんは、あたしたちを食べろ、と言ったの?」

「まだ……だよ。でも、食べてもいいに決まっている」

 蒼依に向けられた顔には、逡巡があった。

「さっき、あなたのお母さんは、だめ、って言っていた。あなたも聞いたはずだよ。確認したほうがいいよ。そうすれば、お母さんは喜ぶ」

 タイキから目を逸らさずに蒼依は告げた。

「喜ぶ?」

 不審そうな色を浮かべつつも、わずかな揺らぎがあった。蒼依はこの機会を逃したくなかった。

「そうだよ。あたしはあなたのお母さんと付き合いが長いからわかっているんだ。あなたのお母さんはいろんなことを訊かれるのが好きなの。あたしたちを食べてもいいかどうか、ちゃんと目を見つめて尋ねたら、あなたのお母さんはあなたのことをますます好きになるよ」

「ふーん」訝るようにタイキはうなった。「どうせおまえたちはここから出られないし、じゃあ、ちょっとお母さんに会ってくるよ」

 そう告げるなり、タイキはこちらに正面を向けたまま門に吸い込まれた。その直後に門は急速に縮小し、そして消失した。

 冷気が徐々に弱くなっていく。

 隼人がアリスの左腕を解放した。

 それが契機となり、蒼依は泰輝に向かって駆け出す。

「たいくん!」

 膝立ちとなった蒼依は、泰輝の上半身を抱き起こした。

「たいくん、大丈夫?」

 何度かまばたきを繰り返した泰輝が、目を開いて蒼依を見た。

「うん、大丈夫だよ。でもあの子は強いね。服がぼろぼろになっちゃった」

 衣服が破れる程度ならむしろたいしたことはなさそうだが、人間体同士でどんな戦いをしたのか、気にはなるが尋ねるのは控えた。

「それよりもね、たいくん、門を呼ぶことはできるかな?」

 タイキが戻ってくる前にここを脱出すべき、と考えた。ゆえに、さっそくだが尋ねたのだ。

「もうできるよ。でも、門を呼ばなくても、元の世界には戻れる」

 その答えを聞いて、蒼依は隼人を見た。判断を仰ぎたかったのだ。

「どういう方法なんだ?」

 隼人が泰輝に尋ねた。

「あの人たちを使うんだよ」

 言って泰輝は、蒼依の背後を指さした。折り重なっていた首なしたちは地面にばらけていたが、それでもまだ起き上がれずにもがき続けている。数えてみれば、五体だった。

「泰輝にはお膳立てができるのか?」

 アリスが問うが、泰輝は首を傾げた。言葉の意味がわからなかったらしい。

「たいくんがあの人たちに頼んでくれるの?」

 蒼依は叙説した。

「ぼくでもいいけど、蒼依ちゃんだってできるよ」泰輝は言った。「蒼依ちゃんが持っているあの石を使うんだ。ぼくが頼むより、そのほうが早いよ」

「石?」

 思い当たる節がなかった。

「古き印、じゃないのか?」

 隼人の助け船が入った。

「あっ」と声を上げた蒼依は、リュックを前に抱え、中から古き印を取りだした。

 塩沢が距離をさらに取った。そんな塩沢に罪悪感を抱きつつも、蒼依はそれを右手に持って泰輝に見せる。

「これ、だよね?」

「そうだよ」泰輝は頷いた。「これをあの首のない人に渡せば、これを持ったまま、霧の外に向かって歩いていくんだ」

「どうしてそれがわかったの?」

「黒くて小さいあいつが、ぶつぶつと言っていたんだ。しるしが描かれた石があれば、首なしが外の世界へ案内してくれるのに……って。ばかなあいつらはそれさえわからない。ばかなおまえが付き合っているくらいだから、あいつらもばかなんだ……そうとも言っていたよ」

 最後の二つは余計である。それを気にせず口にするのが、泰輝なのだ。

 蒼依は再度、隼人を見た。

「お兄ちゃん、どうする?」

「この世界から出るだけなら、古き印を使ったほうがリスクは低いな。ただし、おそらくだが、出た場所は神津山演習場内だろう。門を使う方法は、ロープで榎本さんや蒼依、ロック、アリスの体を繫ぐが、それがほどけてしまうと四人は異次元空間を永遠にさまようことになる。いずれは秘薬の効き目も消えるから、永遠にさまよう、というより、間もなく死ぬわけだ。しかし泰輝が口にした方法なら、無貌教との接触は避けやすい」

 すなわち、隼人も迷っている、ということだ。

「門を使ったとしても、無貌教の手から逃れるのは難しいと思うが」

 塩沢のだみ声だった。

「どうしてだよ?」

 尋ねたのはアリスだ。

「今は無貌教のチビが門を使って行ったり来たりしているんだ」塩沢は言った。「あいつが移動している最中にこっちが門を使えば、間違いなく感づかれる。しかも、ロープで繫いだ四人は、秘薬が効いている間は無防備だ。出口の門から出たあともしばらくはその状態だしな。もう一つの問題は、フーリガンが秘薬とロープを取りに行って戻ってくるまでの時間だ。戻ってきても、ロープで繫いだり秘薬が効くのを待ったりしなきゃならない」

「なるほど」

 ロックがつぶやいた。

「それに榎本さんと蒼依さんは、ここで辞退するのは不本意なはずだ」

 だみ声でそう振った塩沢は、霧に顔を向けた。

「榎本さん」

 蒼依は榎本を見た。

「蒼依さんは、このまま帰ることに心残りがあるんだろう?」

 そう問われ、蒼依は黙して頷いた。

「なら、おれも一緒に行くさ」そして榎本は隼人に顔を向けた。「決まりのようだが、フーリガン」

「まるで多数決だな。しかし、榎本さんと蒼依を敵陣に連れていく、とはまだ言っていないぞ。ここから出たときの状況で決める」

「決定権はフーリガンにあり、か?」

 皮肉っぽく、榎本はつぶやいた。

「相変わらず固いんだよ」とアリスが付け加えた。

「おれは指揮を執っているんだ。当然だろう」

 そして隼人はため息をつき、蒼依に左手を突き出した。

 兄の所作の意味が読めず、蒼依は「何?」と尋ねた。

「古き印をくれ」

 求められて、蒼依はそれを差し出した。

 受け取った隼人が、もがき続ける首なしたちへと近づいた。

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