第7話 決死戦 ③

 四台の車両を乗り捨てたという場所から雑木林の中を十分ほど歩き、草地へと出た。この草地は左右に数百メートルほどの奥行きがあるが、前方は百メートルほどで小高い丘となっている。

「あの丘を登ればまた林があるが、それを抜ければすぐにゲートがある」

 歩きながら隼人が言った。

「特異点からはそれなりに距離を置いた、っていうわけか」独りごちたアリスが左手で右胸ポケットからセンサーグラスを取り出し、それを装着した。「ああ……表示はなんとか出ているけど、ノイズがひどくて、やっぱりだめだ」

 歩調を変えずに振り向いた隼人が、すぐに正面に向き直る。

「特異点との距離からすると、障害の範囲はかなり広がっているな」

「不連続時空間は消えたけど特異点だけが残されてから、不連続時空間に作用していたぶんの力が、こっちの世界に向けられてしまった……とか?」

 アリスが疑問を呈した。

「その可能性はある」

 そんな隼人の答えを聞いて、蒼依はリュックを前に抱えると、中からスマートフォンを取りだし、電源を入れてみた。結果は、前と同じだった。

「こっちの二つも、ノイズだらけだ」

 蒼依の背後でロックの声がした。

「無貌教にとっては都合のいい副次的効果だな」隼人は言った。「とにかく、センサーグラスを頼るのは諦めろ。ノイズだらけでは、仮に反応が表示されたとしても、戦闘に集中できない」

「デメリットのほうが大きいわけだ」

 得心した様子のアリスが、センサーグラスを外し、それを右胸ポケットに戻した。

 蒼依もスマートフォンをリュックに戻すが、念のために電源は切らずにおいた。リュックを背負い、蒼依は歩みに専念する。

 異様な状況下にあろうとも、夏の暑さは同じだった。額ににじむ汗を片手でぬぐい、散漫しそうな意識を無理にでも集中させる。

 左手に持つ鞘はとてもうちわ代わりにはなりそうもなく、蒼依は右手のひらをあおいで顔に風を送った。その手が、ふと止まる。

 正面の丘の手前――草地の外れが、白くかすんでいた。

「あれって……」

 蒼依がつぶやいたのと隼人が立ち止まったのは同時だった。

 隊列の全体が立ち止まってすぐ、「霧だ」と榎本が口走った。

 隼人が周囲を見渡す。

「囲まれたな」

「え?」蒼依も周囲に目を走らせた。「赤首の集落?」

 背後の雑木林も左右の広がりも、霧に隠され始めていた。

「フーリガン、急ごう」

 アリスがせき立てた。

「もう遅い。動かないほうがいい」

「でもさ」アリスは隼人の隣に立った。「赤首の集落だったらどうするんだ? あの不連続時空間は消滅したけど、赤首を介して別の世界に連れていかれるとも限らないんだぞ」

「ああ、そうだな。それに、ほかの世界ではなくても、赤首の集落からさえ出られないかもしれない」

「わかっているよ。もう経験済みだし。だから、急ごう、って言っているんだよ」

「経験済みなら動くな。これが赤首の集落が出現する前ぶれだったら、もう手遅れなんだよ。右往左往すれば体力を無駄に消費するだけだ。無貌教が呼び寄せたのか、勝手に現れたのかわからないが、様子を見よう」

 そう告げられて、アリスは口を結んだ。

 霧が濃くなった。丘も雑木林もすでに見えない――というより、周囲の霧の中に建物があるのだ。丘があったはずの場所も雑木林が広がっていたはずの場所も平地となっており、一行は家々に囲まれていた。自分たちが立っているのは通りと通りとが交差する広い一角である、と蒼依は察した。

 隼人がハンドサインを出しつつ、ライフルのハンドガードに左手を添えた。

 ロックもライフルのハンドガードに左手を添え、アリスはあやかし切丸を両手で構える。

「榎本さんも銃を」と隼人に指示されて、榎本も拳銃でハイレディポジションを取った。

 意味がないのは承知のうえで、蒼依は鞘を両手で構える。

「幼生の気配は?」

 問うたのはロックだ。

「いいや」

 隼人は首を横に振った。

 確かに幼生の気配はなかった。しかし蒼依は、別な意味での寒気を感じてしまう。先ほどまでの暑さは実際に薄れているが、あの生ける屍どもの姿を思えばこその体の反応だった。

「やっぱり」とこぼしたアリスを見れば、またしてもセンサーグラスをかけていた。そして彼女は、すぐにそれを胸ポケットに戻す。

 確かめる価値はある、と思い立ち、蒼依はリュックを前にしてスマートフォンを取り出した。しかし確認できたのは、インターネットもGPSも使えないという結果だった。

 スマートフォンを戻してリュックを背負った蒼依は、周囲に目を凝らした。すでに方向感覚を失いつつあった。もっとも、仲間たちの立ち位置から考えれば、隼人がライフルの銃口を向けている方向が北であるはずだ。

 その北のほう――一本の通りを、一つの人影が近づいてきた。

「首なしか?」

 隼人とは反対方向に銃口を向けるロックが、横目で北の通りを見た。

「いや」正面に銃口を向けたまま、隼人は答えた。「首はあるようだ」

 その影は大柄な体躯であり、しかも、飛び跳ねながら近づいてくるのだった。

 生臭いにおいが漂った。

「塩沢さん」

 東に正面を向ける榎本が、横目で見ながらその名を口にした。

 隼人から五メートルほどの位置で、その深きもの――塩沢は足を止めた。

「けがをしているのか?」

 銃口を上に向けた隼人が、そう尋ねた。

 塩沢は切り傷を負っていた。肩から胸にかけて十センチほどもある傷だ。したたる血を目にして、蒼依は思わず眉を寄せる。

「手当てをしよう」

 そう告げたアリスが、塩沢に近づこうとした。

「いや、待て」塩沢が右手を前に突き出し、だみ声でアリスを制した。「手当てをしてもほうっておいても同じだ。普通の人間より早く、自然に回復する」

 そして塩沢は、水かきを有する手を下ろした。

「あれからどうしたんだ? 泰輝は?」

 隼人が尋ねた。

「あれから」だみ声が霧の中で際立った。「泰輝くんもおれもメイスンも、小さいタイキにとらえられたまま薄暗い空間を飛んでいたんだが、しばらくしてメイスンが出口の門を呼んだんだ。四人ともその門から飛び出した。しかし、出た場所はこの霧の中だった。泰輝くんと小さいタイキがどこへ行ったのか、それはわからない。とにかく、無重力から解放されたおれはすぐに体勢を立て直そうとしたが、そばにメイスンがいることに、気づくのが遅れたんだ。あとは、このざまさ。おれは反撃しようとしたが、やつは手練れだからな……霧の中に逃げやがった。もっとも、もうこの霧の中……というか、赤首の集落にはいないかもしれないがな」

 泰輝もこの集落のどこかにいるかもしれない――それがわかっただけでもわずかに気持ちが楽になった。しかし、ここから出られないという状況が、どうにもいとわしい。

「メイスンは塩沢さんをこの集落に閉じ込めるつもりだったのかもしれない」

 榎本が独り言のように告げた。

「それはわからないが」隼人は榎本を見た。「もしそうだとすれば、それだけやつは塩沢さんを恐れている、という意味だろうな」

「いくら恐れられても、ここに置き去りにされたのではどうしようもない」

 表情のない顔で告げた塩沢は、周囲の家々を見渡した。カイトに逃げられて悔しいに違いないが、途方に暮れているようにも窺えた。

 蒼依はその塩沢に確認する。

「あの、塩沢さん。首のない人たちを見ましたか?」

「いたよ」塩沢は蒼依に顔を向けた。「遠くに何人か歩いていたが……おれに近づいてくるような様子はなかったな」

 それでも「いた」のである。この集落にいる限り出くわす可能性はある、ということだ。

「そうでしたか。わかりました」

 肩を落とした蒼依は、首なしに遭遇しないことを願った。

「おれは深きものどもなど恐れてはいないぜ」

 カイトの声だ。

 二丁のライフルと一丁の拳銃――三つの銃口がそれぞれ霧に向けられた。しかし、カイトの姿はどこにもない。

 そのとき、蒼依は見た。塩沢の背後に人影があるのを。

 蒼依の表情を読み取ったのか、塩沢は素早く振り向き、それを右手でつかまえた。

「やだ――」

 声を上げた蒼依は、顔を背けそうになった。

 塩沢にとらえられたのは首なしだった。男とおぼしきその首なしは、左腕をとらえられてあがく仕草を見せるが、自由なはずの右腕は空を切るばかりだ。

「メイスン、貴様がこいつをよこしたのか?」

 霧に向かって塩沢はだみ声を飛ばしたた。

「おれは知らないね。でも、こっちの世界に戻りたいんなら、そいつに道案内をさせてもいいんだぜ、塩沢さんよ」

「やっぱり貴様は現実世界にいるわけか」

「そうさ。あんたがおれと決着をつけるためには、こっちの世界へ戻らなければならない。そういうわけさ。そのためにも、まずはおれに頭を下げるんだな。この首なしを道案内にしてください、とね」

「ふざけるな!」

 だみ声で怒鳴った塩沢が、片手で首なしを投げ飛ばした。

 投げ飛ばされた体が近くの建物の壁に当たって地面に落ちる。

「塩沢さん、その人は首がなくてもまだ生きているんですよ。ひどいことをしないで」

 訴えた蒼依は、首なしに同情している自分に気づいた。

 首なしは倒れたままもがいている。

「こいつらに情けは無用だ」だみ声が蒼依に向けられた。「山賊だったやつらだ。何人もの人を襲ったに違いないんだ」

 そう述べる塩沢本人に人を襲った経験はないのだろうか――蒼依は思うが、それは口に出さずにおいた。深きものどもだろうとダゴン秘密教団の教徒だろうと、すべてが同じとは限らない。仮にそうだとしても、塩沢は仲間なのだ。

「二人とも落ち着け」

 隼人がたしなめた。

「そういうことだ」カイトの声だ。「とにかく塩沢さんの気持ちはわかった。好きにするんだな。自分たちでどうにかするがいいさ」

 そしてひとしきりの笑いがあり、カイトの声は聞こえなくなった。

「すまなかった。おれのせいでせっかくのチャンスが」

 だみ声はもとより無表情の顔からも反省の色を見るのは難しいが、状況からして自らの言動を悔いているのは間違いないだろう。

「塩沢が頭を下げて頼んだところで、メイスンは笑うだけさ。最初からあたしたちをここから出すつもりなんてなかったんだ」

 あやかし切丸の切っ先を霧に向けたまま、アリスは言った。

「おれもそう思う」

 榎本が追従した。

「そういうことだ」隼人が霧を見渡した。「しかし、もう一体の敵がこの集落のどこかにいる可能性は、まだある」

「小さいタイキ」

 答えるように告げたのはロックだ。

「ここから出られないんでは」アリスが隼人を見た。「その純血の幼生と戦うことになるかもしれないぞ」

「小さいタイキがいるんなら、神宮司泰輝もいるんじゃないか?」

 横目でアリスを見た隼人が、かすかな笑みを浮かべた。

「そうかもしれないけど……あっ」

 何かに気づいたのか、アリスは小さな声を上げた。

「泰輝は力を取り戻しつつある」隼人は言った。「もしかすると、今の彼なら門を呼ぶことができるかもしれない」

「だが、秘薬が足りない」

 ロックが隼人の言葉に繫げた。

「考えがある。だがその前に、塩沢さん……」と隼人が塩沢を見た。

「何か?」

 魚面が隼人に向けられた。

「あんたは門の先の空間で、自主的に移動できたのか?」

「ああ。出口の門から出るときに小さいタイキにメイスンとともにほうり出されたんだが、出口と思われる光に向かって飛んでいくカズマに意識を集中したら、やつを追って飛ぶことができたんだ」

「そうか。なら、都合がいい」言って隼人は、ゆっくりと全員を見回した。「まずは、門の出口を勝田駐屯地特務連隊エリアの中に設定するんだ。秘薬を必要としないおれが行き、隊員宿舎のおれの部屋に置いてある残りの秘薬と、備品置き場のロープを持ってくる。そしてここに戻ったら、榎本さんと蒼依、ロック、アリスの体をロープで繫いだうえで、その四人に秘薬を服用してもらう。あとは、出口の門を神津山演習場近くの適当な位置に設定し、おれと塩沢さんと泰輝でロープを引いて異次元空間を移動するだけだ」

「無貌教の門を利用して何往復かする……というプランに似ているけど、できなくはないよな」

 得心したように頷くアリスに、蒼依の発言の機会は奪われてしまった。

「そうして」隼人は続けた。「榎本さんと蒼依には、出口の門を出たらそこから帰ってもらう。塩沢さんは、どうする?」

 尋ねられた塩沢が、隼人に顔を向けた。

「もちろん、おれは戦う。そのために来たんだ。あんたら特殊部隊の三人と行動をともにするかどうかは、そのときに決める」

「了解した」と隼人は返した。

 しかし、一番の問題は、門を呼び出せる者――泰輝がここにいないことだ。

「たいくんの気配がないよ」蒼依はようやく口にできた。「あの小さいほうのも」

 わずかにも感じないのだ。無限に広がっているかもしれないこの集落のどこにいるのか、見当さえつかない。

「もしくは」隼人は蒼依に顔を向けた。「どちらも元の世界に戻ってしまったかもしれない。しかし見鬼の声なら、泰輝の耳がキャッチしてくれるかもしれないぞ」

 当て推量に過ぎない――蒼依にはそう思えた。

 榎本もロックもアリスも、得心のいかない様子で隼人を見ていた。表情の窺えない塩沢も、黙って隼人を見ている。

「お兄ちゃん」

 蒼依も困惑するが、隼人は表情を崩さなかった。

「おれも一緒にやる。二人で力を合わせるんだ。信じなければ、できるものもできはしない」

 呼んだところで来てくれるかどうかわからない。来てくれたとしても、門を呼び出せるほど調子が戻っている、とは限らない。そんな状況に介在するそれぞれの可能性に賭けるのは、蒼依としては不本意だ。しかしそれが、信じていない、ということなのだろう。

 不意に、倒れていた首なしが立ち上がった。彼は全員が見守る中、来た方向とは反対側へと歩き出し、足を引きずりながら霧の中に姿を消した。

 首なしたちはこうやって永遠に赤首の集落をさまようが、何もしなければ、自分たちも永遠にここから出られないのだ。

 蒼依は目を閉じて深呼吸をした。

 そして目を開き、隼人を見る。

「わかった。あたし、やってみる」

 隼人は何も言葉にせず、静かに頷いた。

 やっと自分の兄に再開できた――蒼依はそんな気がした。

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