第7話 決死戦 ①

 榎本は拳銃を握ったまま、コンクリートに囲まれた空間を四人とともに走った。生き延びることが目的ではなくなっていた。明確には表現できないが、「何かを達成したい」という信念に突き動かされていた。もっとも、その「何か」がなんであるのかは、未だにわからないままだ。

 これまでと変わらず、隼人とアリスが警戒しながら慎重に隊列を先導した。例の十字路を右に折れた一行は、左右のいくつかのドアをやり過ごし、長い直線の先で突き当たった丁字路を、左へと向かった。その直線は十メートルほどであり、突き当たりと左右のそれぞれにドアが一つずつあった。隼人は見取り図をポシェットに入れたままだが、迷わずに右のドアの前に立ち、アリスにそれを開けさせると、警戒しながらその先へと歩を進めた。

 それ以降も、いくつもの通路といくつものドア、いくつもの角を通過した。さすがに榎本は、これまでの道順が頭から失せていた。

 泰輝たちが消えたあの巨大空間を出てから十分以上は移動しただろう。

 気づけば、アリスによって開かれたドアの先に、上りの階段があった。通路と同じく、幅は三メートルほどだ。

 隼人は階段のほうを警戒しながら左手でハンドサインを出した。

 不意に、通路の照明が落ちた。

「え……」

 蒼依の声が漏れた。

 前後で物音がしてすぐ、照明が灯された。もっとも、それらは天井灯ではなく、小さな三つの明かりである。特殊部隊の三人のおのおのが小型懐中電灯を左手に持ち、点灯させたのだった。

「敵が動き出したようだ。急ぐぞ」

 言って隼人は、階段を上り始めた。

 不連続時空間で地下に下りたあの階段と同様、途中に踊り場があった。やはり、長さは二階ぶんはあった。

 隼人とアリスが階段を上りきった瞬間に、一行の歩みは止まった。蒼依が上りきる直前、という状態だ。榎本とロックも階段の途中で立ち止まる。

 階段を上りきった二メートルほど先に、片開きのドアがあった。アリスがドアノブに手をかけるが、その手を離すなり、首を横に振った。ドアが施錠されているらしい。

 隼人が振り向く。

「みんな、もう少し下がって、顔をかばってくれ」

 そして隼人は、アリスに何かをささやいた。

 頷いたアリスは懐中電灯を口にくわえると、あやかし切丸を左手に持ち替え、右手で右腰のホルスターから拳銃を抜いた。

 隼人がアリスの背後に回った。同時に、ロックが階段を下り始める。

 何をするのかを悟った榎本は、鞘を左手に持つ蒼依を先に下がらせた。

「おれの陰にいろ」

「はい」

 意表を突かれたような蒼依に続いて、榎本は階段を三段だけ下りた。

 隼人とアリス以外が片手で顔をかばった。

 一発の銃声が鳴り、乾いた音を立てて薬莢が階段を転がり落ちていった。

「いいぞ」

 隼人の声を耳にし、榎本は顔をそちらに向けた。

 拳銃をホルスターに戻したアリスが、右手にあやかし切丸を持ったところだった。そして隼人が頷くと、アリスは静かにドアを開けた。

「待て」

 隼人が言った。

「幼生が……」続けて口走ったのは蒼依だ。「幼生が後ろから来る」

「ロック、アリスと一緒に先頭を頼む」

 そう告げた隼人が、榎本と蒼依の横を通ってロックの元へと至った。

「しかし――」

「センサーグラスが使えないという事態だ」隼人はロックの言葉にかぶせた。「おれなら目が利く。早くしろ」

「わかった」

 渋々と答えたロックが、階段を上がった。

「何をしている。二人とも早く上がれ」

 せかされて榎本は、蒼依を先に行かせてから、自分も階段を上がった。

 ロックが先頭となって戸口の先へと進んだ。アリス、蒼依、榎本という順でそれに続く。

 振り向くと、隼人が後方を警戒しつつ榎本のあとに続いていた。

 暗い通路を三十秒ほど進んだ。

 突き当たりに木製らしき片開きのドアがあった。

 アリスがドアノブを握ると、ロックが懐中電灯を口にくわえ、ライフルのハンドガードに左手を添えてハイレディポジションを取った。

 ドアが外側に開かれた。鍵はかかっていなかったようだ。

 とたんに通路が明るくなる。

「来たぞ! 走れ!」

 隼人が叫んだ。

 榎本は蒼依に続いて走った。


 隼人の叫びを聞く直前に、蒼依の背筋の寒さは限界に達していた。それは雄の気配だった。蒼依との交接を欲しているらしい。とはいえ、その欲情を抑えるがためのいら立ちも、同時に感じることができた。士郎に遣わされているのだろうから、欲情を抑えなければならないのは当然である。

 いずれにしても逃げなければならない。蒼依はアリスに続いて戸口の外へと飛び出した。

 湿気を含んだ熱気が顔や腕にまとわりついた。明らかに夏の空の下だった。

 藪に覆われた斜面にその開口部はあった。雑木林に囲まれた一角だが、開口部の周辺はわずかに開けており、夏の日差しの直撃を受けていた。

 雑草に足を取られてよろめいた蒼依は、右腕を引かれてそちらへと足を運んだ。

 蒼依の右腕をつかんでいるのはアリスだった。戸口を挟んだ反対側には、ロックと榎本が立っている。

 通路の中からライフルの銃声が聞こえた。

 獣の雄叫びが上がった。

「そのドアから離れろ!」

 ロックが怒鳴った。

 さらに腕を引かれて、蒼依は戸口に正面を向けたままあとずさった。

 隼人が戸口から後ろ向きに飛び出した。ライフルを両手に構える彼は、背中から地面に落下し、後方に一回転して片膝を立てた。

 半透明の何かが戸口から飛び出し、隼人の正面に二本足で立った。筋肉らしきもの、骨らしきもの、内臓らしきもの――少なくとも蒼依には、それらのすべてが半透明の状態で目に映った。すなわち、見鬼には視認できるが通常の者には見ることができない、ということだ。

 とてつもない悪臭が広がった。

「幼生!」

 

 声を上げたアリスが蒼依の腕を離し、あやかし切丸を両手で構えた。とはいえ、彼女にはそれが見えないはずだ。

 ロックがライフルを構えるが、やはり敵を視認できないに違いなく、目が一点に集中していない。

 榎本に至っては、拳銃を両手で構えているがその銃口は下を向いていた。彼が対応に苦慮していることは、蒼依にえ察せられた。

 不意に、半透明の中身に色がつき始めた。そして皮膚にも色がつき、それは実体を日差しの元にあらわにした。

 全裸の老人のようだった。肌の色は人のそれと同じだが、頭部にもそのほかの部位にも体毛はなく、股間で屹立する巨大な男根が目立った。しかし、禿頭を見れば第三の目があり、腕は左右に二本ずつ生えている。

 その異形――幼生が、隼人に向かって身構え、四本の腕を広げた。

 片膝立ちの姿勢から、隼人が前方に大きく跳躍した。彼はその勢いで右足の蹴りを幼生の顔面に食らわせ、のけぞった敵の背後に着地し、身を低くした。そして「ロック!」と声を上げる。

 うめきつつ、幼生が体勢を立て直した。

 アリスが蒼依の右肩をつかんで下に押した。

「伏せろ!」

 言われるままに、蒼依はアリスとともに腰を落とした。

 ロックのライフルが火を噴いた。三発の弾丸が連射されたのを蒼依は音で知った。

 幼生の首から上が砕け散った。

 こちら側に向かって横倒しになった遺骸から、蒼依は目を逸らした。破損部を嫌悪する以上に、この自分に欲情していた証しを目にするのが嫌だったのだ。

 立ち上がった隼人が、周囲を見渡した。

「ほかには、いないらしいな」

 そんな隼人に、アリスが顔を向ける。

「こいつの脳は、ちゃんと頭の中にあったのか?」

「大丈夫だ」

 隼人の答えを聞いて、アリスは立ち上がった。

 蒼依も立ち上がるが、その際に幼生の遺骸が目の端に入ってしまう。うっすらとした湯気が立っていた。

「それよりも、追っ手がまた来るかもしれない。急いでここを離れよう」

 隼人は言いながら、ライフルの弾倉を交換した。

 木製のドアが全開となったままの開口部の奥に、今のところ幼生の気配はない。全開であるためドアはこちらに裏側を向けているが、表側に雑草や蔓がこびりついているのが、わずかに窺えた。おそらくは、それが出入り口のカモフラージュになっていたのだろう。

「しかし闇雲に移動するよりは、それなりの指針はあったほうがいいと思うが」

 同じく弾倉を交換するロックが、そう提案した。

「目的地はある」隼人はロックに顔を向けた。「ゲートだ」

「ゲートに行ってどうするんだ?」

 そう尋ねたアリスを、隼人は横目で見る。

「榎本さんと蒼依をこの演習場から脱出させる」

「どうして?」考えるより先に口にしていた。「まだ瑠奈を取り戻していないんだよ。それに、たいくんと塩沢さんもいなくなっちゃったし」

「おれたちは足手まとい、というわけか」

 榎本がこぼした。

 弾倉の交換を終えてライフルを右手で立てた隼人が、榎本に顔を向ける。

「悪く思わないでくれ。神宮司瑠奈の救出は、おれた三人でやる。塩沢さんと泰輝は、自分たちでどうにかするはずだ。もっとも、塩沢さんに関しては、深きものどもがあの異次元空間で生きていられたら、の話だが。……おそらく、特機隊がこの演習場の外を警戒している。榎本さんと蒼依は、特機隊との接触を試みてくれ」

「仕方がない」榎本が蒼依を見る。「そうしよう」

 何も言い返せず、蒼依は唇を嚙み締めた。

 袖とグローブとの隙間から腕時計を見た隼人が、その左手をかざして空を見上げた。時刻と太陽の位置とで方角を確認しているらしい。

「北はこっちだな」

 開口部が向いている先に、隼人は顔を向けた。

「だが、ここの位置はわかるのか?」

 ロックの問いに隼人は頷く。

「だいたいはな」そして隼人は全員に目を走らせた。「行くぞ。元の隊列だ」

 隼人が開口部の正面の雑木林に向かって歩き出した。アリス、蒼依、榎本、ロックという順でそれに続く。

 酷暑の中、やはりセミの鳴き声も鳥のさえずりもなかった。

 腕時計を見ると午後一時ちょうどだった。

 鞘を持つ左手にどうしても力が入らず、蒼依はそっとため息を落とした。

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