第6話 シンギュラー・ポイント ⑤

 元の世界に戻ってきた――という実感はなかった。少なくとも榎本には、先ほどの巨大空間とこの巨大空間との違いがわからない。外の様子が窺えないのだから、それはなおさらだった。もっとも、外に出るのはまだ先になりそうだ。この施設のどこかにいるらしい神宮司瑠奈を救出するのが、先である。

 榎本は皆とともにそのドアの前で立ち止まった。ドアは金属製のようであり、窓はついていない。

 士郎を連れている隼人がドアの横に立つと、ライフルを右手に提げるアリスが、ドアノブに左手をかけた。ドアの向こうの光が、ドアと壁との隙間から差し込む。ここもドアは施錠されていなようだ。

 アリスはドアを奥へと静かに押し開きながら、戸口の先の様子を窺った。

 開かれた戸口から、榎本はその奥を見た。

 高さ四メートル、幅三メートルほどのまっすぐに伸びる通路があった。延々と続く長方形のトンネルが、等間隔に据えられた天井灯によって薄ぼんやりと照らし出されている。

 ロックが戸口の脇に立ち、巨大空間内に目を走らせた。

 左手で士郎の後ろ手をつかむ隼人が、右手のあやかし切丸を再度、人質の首に突きつけた。そして「行くぞ」と静かに告げ、士郎を押して通路へと進む。

 アリスがそのあとにつき、泰輝、蒼依、榎本、と順次、戸口を通過する。

 榎本が振り向くと、まずは塩沢の巨体が戸口を通過して、すぐに立ち止まった。あとから現れたロックがドアを閉じ、塩沢に何やらささやいてから歩き出す。塩沢はロックにやや遅れて最後尾を歩き出した。

 通路の突き当たりは見えなかった。少なくとも百メートル以上はあるだろう。今のところ、左右の壁にドアらしきものは確認できない。

「神津山の山奥に、よくもこんな地下施設を作ったもだ」

 呆れたようにアリスが口走った。

「神津山市の市境自体が古代に作られた結界だから、ぼくたちにとってその結界内は術を駆使するのに都合のよい環境なんだ」士郎が言った。「それにハイブリッド幼生にとっても居心地のよい土地だから、ハイブリッドたちを集めるのにも適している。そのうえで、同じ神津山市内でもこの山間に地下施設を築いたのは、ここが赤首だからだよ」

「山賊の集団の話か?」

 士郎を連行する隼人が尋ねた。

「そうさ。江戸時代の話だ」

「フーリガンが部隊のみんなに話しくれたやつか……」

 アリスが口にした。おそらくロックも知っているのだろう。

「赤首の住人たちは、高三土山の神を信仰していた」

 士郎は続けた。

づなごんげんのことだよな」

 隼人は促した。

「そう、天狗さ。飯綱権現といえば、長野県のいいづなやまで興った修験道の神であり、神仏習合の神でもある。東京の高尾山の飯綱大権現が有名で、茨城県内では愛宕山のいいづなじんじゃでも奉られているけど、高三土山の飯綱権現は、ぼくたちが崇拝する無貌神なんだよ」

「それは知っている」

 抑揚のない口調で、隼人は返した。榎本も同じ台詞を吐きたかった。

「だろうね」士郎は言った。「でも……君たちはこれも知っているはずだけど、無貌神をこの土地で最初に奉ったのは古代中国から逃れてきた一族なんだ」

「ああ、そうか……古代の一族とあたしのおじいちゃんとの間に、赤首の山賊があったんだ。おじいちゃんは、山賊が残した情報を得ていた」

 得心がいったように蒼依が独りごちた。

「古代の一族?」

 榎本は問うた。

「縄文時代の後期に周から渡来した一族が、当時のかみきみはたに住み着いたんです」蒼依は言った。「その人たちは自分たちの故郷でトラブルに巻き込まれ、追っ手から逃れてきました。その追っ手から身を守るために魔術が必要なんですが、魔術が効力を発揮しやすいように、広範囲に及ぶ結界を作ったんです。今の神津山市の境界線が、一族の作った結界の名残です。そして彼らは、自分たちの手先となる軍隊を作りました。その兵士たちが、ハイブリッド幼生です。無貌神をあがめることで蕃神たちをこの土地に降臨させ、その蕃神たちと見鬼の女性とを交配させたんです」

「やがてその一族はこの土地を去り、その一族が記した古文書とあるじを失ったハイブリッドたちが残された」次に話を繫いだのは隼人だった。「とはいえ、ハイブリッドが生み出されたのはこの土地だけではない。日本中の至るところ……いや、世界中の至るところで、さまざまな技法を用いて、ハイブリッド幼生は生み出された。しかし、この土地はハイブリッド幼生にとって居心地がいいらしいから、ほかの土地からも次々にハイブリッド幼生が入り込んできたんだ。一方で古文書は、山賊たちの手に伝わったんだろうな。その山賊の子孫から空閑孝義……おれたちの祖父に伝わったのかもしれない」

「うまくまとめたね。でも隼人くん、一つだけ付け加えておくよ」

 士郎が言った。

「興味深い事実がありそうだな」

 臆せずに隼人は返した。

「赤首の山賊の中に、ぼくたち空閑一族のご先祖がいたのさ」

 士郎がそう伝えた直後に、蒼依の肩が震えたのを榎本は見逃さなかった。

「ならその古文書が空閑家に伝わっていて当然なわけだ。それを元に、空閑孝義は無貌教を作り上げた」

 自分に山賊の血が流れているなど歯牙にもかけない様子で隼人は言うが、蒼依には衝撃的な話だったのだろう。歩調を維持しているが、彼女はわずかにうつむいていた。

「それとこの施設の関係って、なんだよ?」

 問いを口にしたのはアリスだった。

「話が逸れていたね」士郎は笑う。「当時の神津山の住民は、山賊一味が討伐されたあとの赤首を、穢れた里、と呼んでいた。生首がさらされたから……だけじゃないよ。無貌神を崇拝していたからさ。生け贄を欲する神だ。当時は人間ではなく牛や馬などの動物を供えていた程度だけど、それでも俗世の者たちはよしとしなかったわけだ。しかし実際に、無貌神の力はこの土地に影響を及ぼしていた。君たちが目にしたあの集落、そして首なしの者たちだよ。集落も首なしの者たちも、神の力で永遠に生かされるんだ。そんな強いパワーがうずくまるこの土地だからこそ、われわれ無貌教はいつでも神の恩恵にあずかることができるのさ」

 胸がむかつくような話だった。榎本でさえ嫌悪してしまうのだ。蒼依に至ってはいかほどのものか、想像もつかなかった。


 五分ほど歩いた辺りでもう一本の通路が直角に交わっており、隼人の合図により皆が立ち止まった。隼人が左右の安全を確認し、ロックがその位置での警戒に就いたうえで、隊列は移動を再開した。その際、左右に延びる通路に、蒼依は視線を投げた。ほんの一瞬だったために把握しきれなかったが、やはりどちらの通路も突き当たりが見えず、ドアも存在しないようだった。

 直進するこの通路も、突き当たりはまだ見えない。左右にはドアもないままだ。延々と続くそんな光景に圧迫感を覚えるが、加えて、先ほどの士郎の話で蒼依の心は十分に萎えていた。

 祖父が淫祠邪教を興し、いとこはその邪教集団を率いる魔道士であり、遠い先祖は邪神を崇拝する山賊だったのだ。穢れた里という赤首の異称を耳にしたばかりだが、自分の血も穢れているような気がしてならない。

 気づけばため息をついていた。

 隊列の先頭を見れば、姿勢よく歩く隼人の姿があった。ときおり、自分の歩調に合わせるべく士郎をぐいと押し出す仕草を見せている。

 兄はどうとも感じていないのだろうか――そんな疑問が湧くが、それを確認できる状況ではない。蒼依はただ、隊列の歩みに合わせて足を前に進めるだけだ。

 前方の彼方に、突き当たりらしき光景があった。

 腕時計を見ると正午を二十二分回っているが、通路を歩いたのがどれだけの時間だったのか、計ってはいなかった。

「あの先にお母さんがいるよ」

 歩きながら泰輝が告げた。

 意気を失っている場合ではなさそうだ。蒼依は通路の突き当たりに目を向けると、鞘を持つ左手に力を入れて気を引き締め直した。

 幼生の気配を感じた。前方からだ。泰輝の気配と似ているが、強い殺気を放っていた。

「お兄ちゃん!」

 蒼依は隼人に声をかけた。

「ああ、感じているよ。あの少年だ」

 通路の先に顔を向けたまま、隼人はそう返した。

 突き当たりに近づくにつれて鼓動が早まっている――そんな気がした。

 その突き当たりまで十メートルという位置で、隼人は足を止めた。

 隊列全体が止まり、蒼依は通路の突き当たりを確認する。

 先ほどと同じようなドアがあった。その手前の左右にもドアが一つずつある。

 振り向いた隼人は「おれとアリス以外はここで待機だ」と指示したうえで、隊列の後ろのほうを見て顎をしゃくった。

 蒼依も振り向いた。

 頷いたロックが塩沢を躱して後方へと移動し、来た道にライフルを向けた。後方の警戒に就いたようだ。

 蒼依が正面に向き直ると、隼人がアリスに目で合図を出していた。

 ここでもアリスがドアノブに左手をかけた。そして彼女が静かにドアを開けると、そちら側からまばゆい光が通路に漏れた。

 戸口を手前にして、アリスが横にのいた。そして彼女は、ライフルを構えて戸口の向こうを警戒する。

 隼人が士郎を前に押しつつ、その喉に刃を突きつけたまま、ゆっくりとそちら側に足を踏み入れた。

 まばゆい光に包まれるそちら側を蒼依は覗こうとするが、隼人や士郎、アリスらの体が視界を遮り、把握できない。もっとも、強い殺気だけは続いていた。

「気をつけろ!」とロックが叫ぶのと蒼依が別のいくつもの気配に気づいたのは、ほぼ同時だった。

 振り向くと、通路の彼方から何かが迫ってくるのが見えた。この気配なのだから、幼生に違いない。しかも、無数である。

 ロックのライフルが火を噴き、いくつもの薬莢が床に転がった。

 先頭の何体かが床に倒れるのが見えたが、後続がそれらを踏み越えてやってくる。それぞれが重なり入り乱れているため、一体一体の大きさや姿は把握できない。

「みんな、こっちに走れ!」

 隼人の叫びを耳にし、蒼依は泰輝の左腕をつかんで戸口へと走った。榎本ら三人があとに続いていることが、足音で知れた。

 蒼依は泰輝とともに、明るいその空間へと飛び込んだ。

 背後でドアを閉じる音がした。

「ドアから離れろ!」

 隼人の指示に従い、蒼依は泰輝とともに走り続けようとするが、すぐに立ち止まった。

 士郎を拘束する隼人らが立ち止まっていることも蒼依が足を止めるきっかけだったが、ほかにも、体を硬直させる光景がそこにあった。

 それでも蒼依は振り向き、榎本や塩沢、ロックらがそろっていること、そしてドアが閉じられていることを確認した。もっとも、ドアを閉じたところで幼生の群れを防げるものではないが、その群れの気配が消えているのを、蒼依は感じ取ることができた。幼生の群れがどこへ行ってしまったのか、それは知る由もないが、一時的であれ、脅威の一つは解消されたようだ。

 ゆえに蒼依は、ほかの要因に惑わされることなく、自分の体を硬直させたその光景に、顔を向けた。

 不連続時空間のあの巨大空間や先ほどの巨大空間と、ほぼ同じ大きさ、ほぼ同じ作りの巨大な空間であるが、その中央には壇はなく、代わりに三人の人物がこちらに正面を向け、横に並んで立っていた。

 向かって右端に立つのは、腕吊りサポーターで右腕を固定しているカイトだ。左端の小さな姿はタイキである。真ん中にいるのは、別れたときと同じ姿の瑠奈だった。

「瑠奈!」

 声を上げた蒼依はすぐにでも駆け寄りたかったが、それを思いとどまる。瑠奈の元へ行ったところで、自分も人質にされるだけだろう。

 ふと、蒼依は気づいた。

「瑠奈の表情が……」

 距離にして三十メートルはあるが、瑠奈の遠くを見るような目が見て取れた。左右の二人はこちらを挑発するかのような笑みを浮かべている。

「貴様の催眠術とやらは効きがいいみたいだな」

 隼人が士郎を睨んだ。そして、下げていた刃を再び士郎の喉に突き当てる。

「当然さ」士郎は答えた。「その都度、いちいちかけ直さなきゃならないが、薬物で副作用なんて出たら大変だ。長い付き合いになるからね。健康が一番だよ」

 彼は決して瑠奈を気遣っているわけではない。憂慮なく利用するためには健康でなくてはならない、ということだ。

 しかし、先ほどの士郎の言葉にあったように、特機隊と輝世会とが連携して「処置」を続けているのも事実だ。実際の処置に当たるのは輝世会の担当成員だが、処置という職務を管轄するのはあくまでも特機隊である。蒼依も特機隊隊員となれば、無実の者に処置を施す作業とは無関係でいられなくなるのだ。

 釈然としない思いが浮上しかかるが、蒼依はそれを振り払った。

「このように対面させる必要があるわけなんだな?」

 隼人の問いに士郎は「そのほうがドラマチックじゃないか」と返した。

「そのために幼生を使ったのか?」

 次に尋ねたのはアリスだった。

「また同じ手を使った……わけさ」

 この忌むべきふてぶてしさは四年前と変わらない――否、拍車がかかっているような気さえする。蒼依は左手の鞘で士郎の後頭部を殴りつけたかった。

「ねえねえ空閑隼人くん」カイトが口を開いた。「まさか人質交換、だなんて持ちかけてこないよね?」

「そうしようと思っていたが、それがままならないほどそっちは不利、ということなのかな?」

 落ち着いた口調ではあるが、相手を刺激するような言葉だろう。瑠奈がとらわれている現状を隼人にはもっと意識してほしい、と蒼依は思った。

「自分の立場、というものをわかっていないようだね。士郎様と瑠奈ちゃんを交換しても、おれたちとあんたらとの立ち位置が平等になるわけじゃないんだ。だって、あんたらが敵の陣地の中で敵に囲まれた状況、っていうのは変わらないままなんだしさ。こっちはいつでも、ハイブリッド幼生たちを呼び寄せられるんだぜ」

 カイトのその言葉に間違いはないはずだ。蒼依はその現実を改めて認める。とはいえ、このままではらちが明かない。

「そっちの要求は?」

 隼人は問いを投げた。

「士郎様を返してもらう」

「見返りは?」

「命だけは助けよう」勝ち誇るかのような顔で、カイトは答えた。「泰輝くんの処遇は難しいとしても……特殊部隊の三人と塩沢さんは、洗脳して兵士として使えるだろうし、蒼依ちゃんは使い道がいいけど当分は瑠奈ちゃんの機嫌取りがいいかな。榎本さんは無貌教のスパイとして活躍してもらおう」

「そんなの一方的すぎる!」

 たまらず、蒼依は怒鳴った。

「一方的も何も、現状を見れば順当な成り行きだよ」

 カイトは肩をすくめて笑った。

 榎本や塩沢、アリス、ロックらが殺気立っているのを、蒼依は悟った。自分もそうなのだから仕方がない。だが、ここで感情に走ってはあちらの思うつぼだ。冷徹さを失わない隼人が次にどう切り出すのか、蒼依はそれに賭けるしかなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る