第6話 シンギュラー・ポイント ④

 水面に飲み込まれるかのごとく、半魚人の体が玄関の面に姿を消した。もっとも、水面の場合とは異なり、波紋は生じない。光のわずかな揺らめきさえなかった。

 皆が沈黙して玄関の光を見守る中、隼人に取り押さえられている士郎だけが、足元を見下ろしたまま冷笑を浮かべていた。術は解けたのだろうが、あらがう様子はない。

 塩沢が玄関に入ってから十秒ほどが経過した。

 拳銃を右手に提げる榎本は、焦りを感じ始めていた。たとえ強靱な半魚人――深きものだとしても、たった一人では無数のAK47に太刀打ちできない可能性がある。

「フーリガン」

 たまらず、榎本は隼人に声をかけた。

「なんだ?」

 隼人が榎本に顔を向けた。

「塩沢さんのアクションが何もなかったら、どうする?」

 榎本の問いを受けて、隼人は玄関を横目で見た。

「おれが人質を連れての先導となるだけだ。それはそれで効果はあると思うが」

「そうか……わかった」

 頷いたものの、それが適切な手段か否か、榎本には判断できなかった。

 隼人が玄関に目を向けた。つられて榎本もそれを見る。

 光の円から、ぬめっとした腕が突き出ていた。塩沢の左腕であることを、榎本はすぐに悟った。その腕先の手が、来い、と合図した。

 アリスが隼人に顔を向ける。

「今度こそ行けるな?」

「行ける、と信じよう」

 答えた隼人が、皆に目を配った。


 士郎を拘束する隼人が先頭だった。それが隼人の指示だった。二番目のアリス以降は、泰輝、蒼依、榎本、ロックという順だ。

 一人ずつ順に光の円に入った。泰輝までは皆、臆せずに光の円に姿を消していったが、自分の番となった蒼依は、鞘を左手に握ったまま躊躇してしまう。塩沢が合図したのだから大丈夫であるはずだ――そう自分に言い聞かせるが、玄関を目の前にして、足が進まない。

「蒼依さん」後ろから榎本が声をかけてきた。「おれの手を握れ」

 振り向くと、榎本が左手を差し出していた。

「何かあったら、強く握り返すんだ。そうしたら、おれがすぐに引き戻す。何もなければ、すぐに手を離せばいい」

 戻してもらったとしても、こちらの世界はいずれ消えてしまうのだ。それでも蒼依は、右手で榎本の左手を握った。大きくて温かい手だった。

「榎本さん、ありがとうございます。行きます」

 榎本の手を握ったまま、蒼依は光の円へと足を踏み入れた。

 やはり玄関は二次元――すなわち面だったようだ。左足から踏み出したが、光の円に接する部分のみが、氷のように冷たかった。右足も胴体も左右の腕も顔も頭も、その面を通過する瞬間のみ、冷たさを感じたのである。

 右手だけを光の円に残したまま、蒼依は玄関の反対側に出た。先行した者たちが蒼依に背中を向けて立っていた。隼人とアリス、塩沢が周囲に目を走らせている。

 榎本の右手は温かいが、光の円の面に接している前腕に感じる冷たさが不快だった。この体勢から早々に離脱するべく、蒼依は状況の確認をする。

 薄暗い空間だった。しかし、規模や作りは先の空間と酷似している。ここもやはり、内壁の二メートルほどの高さに数十本の電灯が設けられてはいるが、どれもが消灯した状態であり、このぼんやりとした光が玄関から放たれているのは、疑う余地がなかった。自分たち以外は誰もいないようだ。泰輝以外の幼生の気配もない。

 とりあえずの安全を確認し、蒼依は榎本の右手を離した。

 蒼依が右手を光の円から引き抜いてそこから離れると、続いて榎本、ロックという順に、残りの二人がこちら側へと歩み出た。

 不意に、隼人が左手でハンドサインを出した。何かに気づいたらしい。

「ターゲットは五……ロックとアリス以外は伏せろ!」

 そう指示するなり、隼人は足をかけて士郎を押し倒し、自分も腹ばいになった。

 蒼依も泰輝の肩を抱いてともに床に伏せた。

 榎本と塩沢もすぐに伏せる。

 次の瞬間、銃声が鳴った。連続するそれは、同じタイミングでひらめく閃光を伴い、いくつもの薬莢が音を立てて床を転がった。

 泰輝の横でうつぶす蒼依は、両手で頭をかばった。

 五秒ほどで銃声と閃光が収まり、ロックが「ターゲットクリア」と告げた。

「あたしも確認した」

 アリスの声だ。

 目を開けた蒼依は、隼人が立ち上がるのを見た。榎本と塩沢もおもむろに立ち上がる。

「たいくん、立とう」

 隣の泰輝に声をかけ、蒼依も立ち上がった。

 敵がいたのだろうが、未だに蒼依にはそれを視認することができない。

 泰輝が立ち上がるのと同時に、隼人は士郎を強引に立ち上がらせた。

 アリスが塩沢に顔を向ける。

「おい塩沢。テメー、敵に包囲されていたのを知っていたんじゃないのか?」

「無理だよ」士郎がアリスを横目で見た。「待ち構えていたのは腕利きのスナイパーばかりだった。身を隠すことにも長けている。いくら深きものでも、そうそうには見つけられないさ」

 一方の塩沢本人は、周囲を見渡すばかりで二人の言葉に聞く耳を持たない様子だ。

「それよりも、隼人くんはぼくを人質にするんじゃなかったのかい?」

 皮肉っぽい口調で士郎が訊いた。

「今も言ったが、待ち構えていたのは腕利きのスナイパーばかりだった。それ察したから、予定を変更して先手を打ったわけだ」

 隼人は淡々と答えた。

「さすがは特殊部隊の副隊長だ」

 言って士郎は肩をすくめた。

 ロックがライフルを構えたまま、向かって右の薄闇のほうへと進んだ。それを一瞥したアリスが、ライフルを構えたまま左へと進む。

 闇に目が慣れた蒼依は、この空間の隅にほぼ等間隔で倒れている者たちを視認した。皆それぞれ、闇に溶け込みそうな黒っぽい上下を身に着けていた。さらには、自分たちが立っている場所が、先ほどと同じようなテーブル状の壇であることを知る。

「三人を確認。みんな死んでいる」

 ロックの声がした。

「こっちは二人だ」アリスが続けた。「でもあたしがやったのは、こっちに倒れている一人だけだ。やっぱり射撃は、ロックにかなわない」

「アリスがいなかったら一人は取り残していた、ということでもあるな。そうしたら、おれはその一人にやられていたかもしれない」

 こちらへと引き返しつつ、ロックは言った。

 失笑したアリスも、こちらへときびすを返す。

「ねえ、蒼依ちゃん」

 蒼依に声をかけた泰輝が、玄関の反対側に回り込んだ。

 戦闘が済んだばかりで呆然としていた蒼依は、泰輝の行動の意味を解こうとする意欲さえ、まったく湧かなかった。

「どうしたの?」

 とりあえずは訊いておいた。

「ああ、やっぱりだ」泰輝は蒼依に手招きをした。「蒼依ちゃんもこっちへおいでよ」

 このような能動的な泰輝を蒼依が目にするのは久しぶりだった。

 見れば、士郎も含め、皆が泰輝に注目している。

 蒼依も玄関の反対側に回り込んだ。

「ほら、この丸いやつね、こっちから見ても同じだよ」

 玄関の裏面の前に立つ泰輝が、そう告げた。

 あちらの世界で玄関を前にしたときでさえ、蒼依はその裏側の状態など想像もしていなかった。しかしこうして回り込んで見ると、裏側の状態は表側と何も変わらない。そもそも、表裏という表現さえこの玄関には適切ではないのかもしれない。

「きっとね、こっち側から入れば」泰輝は玄関を指さした。「向こうの世界では、この丸いやつの反対側に出るんだよ」

「そのとおりだよ。すごいね、泰輝くん」

 士郎が泰輝を褒めちぎった。

 その瞬間――唐突に玄関の光が消えた。

 視界が闇に閉ざされるが、すぐに壁のすべての照明が灯された。

 玄関の輪の中が筒抜けになっていた。反対側に立つ隼人らの姿が、そのまま見えた。

 そして、壁際に等間隔で倒れている者たちの姿も、はっきりと目に飛び込んできた。どの遺体のそばにも、照準器を装備したライフルが落ちている。

 隼人が士郎を見た。

「不連続時空間を消したのか?」

「そうさ。そして、この部屋の照明を点けた。君たちのためにね」

 拘束されたままの士郎だが、彼のたたずまいは覇気を帯びていた。

「負け惜しみを」

 アリスがそうこぼした。

「負け惜しみかどうか、それは勝手に判断するがいいさ」士郎は言った。「いずれにせよ、出入り口は四カ所、あるよ」

「そうらしいな」

 見渡しながら、隼人は頷いた。

 玄関の表側と裏側それぞれの延長線の突き当たりと、玄関の左右それぞれの延長線の突き当たり――すなわち壁の四カ所に、片開きのドアがあった。

「どれを進めばどこに行けるか、なんて訊かないでほしいな。このぼくが答えるわけないからね」

 士郎は笑いながら告げた。

 確認しなければならないことがあった。蒼依は隼人を見る。

「お兄ちゃん、ちょっと待って」

 隼人は蒼依に顔を向けるが、黙して見つめるだけだ。蒼依の訴えを認めてくれたらしい。

「ねえ、たいくん」

 蒼依は泰輝に声をかけた。

「なあに?」

 気が抜けたような返事だが、蒼依を見る瞳はふぬけではなかった。

「瑠奈の気配を感じない?」

 そう問われ、泰輝はこの巨大な空間に目を走らせた。

「お母さんは……いるよ」

 答えた泰輝が、蒼依の背後を右手で指さした。

 振り向き、蒼依はそのドアを見る。

「あのドアの向こうにいるの?」

「ずっと先だよ。まっすぐ行ったところ」

 そう告げて、泰輝は右手を下ろした。

「だが」士郎が口を挟んだ。「そのドアの先がまっすぐな通路とは限らないよ。ドアの向こうの通路が入り組んでいて、あらぬ方向に行ってしまったりね」

「わざわざ口にする辺り、欺瞞ということだな」

 隼人が言いきった。

「ははは」士郎は笑った。「いいね。隼人くんは懸命だ。それに泰輝くんも何か吹っ切れたようで、賢さが戻ったね。純血の幼生たるならば、それでなくてはいけない」

「ぼくって賢いのかなあ?」

 首を傾げる泰輝は、とぼけてはいないはずだ。むしろ、士郎を嘲弄しているのかもしれない。

 士郎は泰輝を見つめる。

「事実だよ。純血の幼生はいずれは神へと昇華する存在なんだ。思考力も人間を凌駕するんだよ。ハイブリッド幼生でさえ、学習能力があるんだからね」

「何を語っているんだ。ばかか?」

 呆れたようにアリスが吐き捨てた。

「それはどっちかな?」

 士郎は横目でアリスを見た。

 眉を寄せたアリスが、士郎を睨み返す。

「なんだと?」

「気づかないのかな」士郎は笑っていた。「一時期、ハイブリッドたちは妖怪の姿から巨大怪獣のような姿へと、こぞって変化していった。しかし今では、巨大な個体は数が減っているじゃないか。文明の発展に伴い、人々が恐れる対象も変化しているんだ。ならばハイブリッドたちだってその対象に合わせて姿を変えなくてはならない。おいしいごちそうにありつくためにね」

 士郎の説に蒼依は得心がいった。二日前の事件からこれまでの間に遭遇したハイブリッド幼生――それらの姿は相も変わらず多種多様であるが、大型の個体は少なかった。ハイブリッド幼生たちはこの先も、人間社会の動向を暗闇の奥で観察し、学習し続けるに違いない。

「もっとも」士郎は続けた。「地球上に存在するハイブリッドの個体数自体が減ってはいるけどね」

「いずれは完全に淘汰されるさ」

 隼人は言った。

「できるかな?」

 問いを投げて、士郎は不敵な笑みを浮かべた。

「やるだけさ」

 隼人も笑みを浮かべた。

 ふと、蒼依は思い立ち、背中のリュックを前に抱くと、中からスマートフォンを取りだした。そして一通りの確認をして、隼人を見る。

「ネットは繫がらないし、GPSも機能していないよ」

「不連続時空間は消滅したけど、特異点は残しておいたからね。そのほうがぼくたちにとっては都合がいい」

 笑みを浮かべたまま士郎は説いた。

 ロックとアリスがそれぞれ、左手で左胸のポケットからセンサーグラスを取り出し、それを装着した。

「やっぱり機能しないな」

 ロックが言った。

「こっちもだ」

 アリスがそう繫いだ。

 ロックに至っては一本目を右胸ポケットに戻し、ウエストポーチから取り出した二本目も確認する始末だ。もっとも、結果は同じらしく、ロックは二本目を外すとそれをウエストポーチに戻した。

 そして、アリスが士郎を睨む。

「赤首の集落でセンサーや無線が使えなかったのも、特異点のせいなんだな?」

「それはぼくのあずかり知らぬところだね。ぼくがあの集落について携われるのは、ほんの一部だ」

 うそではないらしい。おそらく蒼依があの集落でスマートフォンを使っても、インターネットもGPSも繫がらなかっただろう。

「おれと蒼依がセンサーになる」

 隼人は言うが、蒼依には精神的な負担が増えただけだ。しかし公言された以上、断るわけにはいかない。

 士郎を前に押し出して、隼人が蒼依のほうへとやってくる。

「泰輝の示した先へと行く。元の隊列だ」指示を下した隼人が、塩沢を見た。「塩沢さん、今度もしんがりを頼む」

「わかった」と塩沢はだみ声で答えた。

 士郎を伴って、隼人はそのドアへと向かって歩き出した。

 リュックにスマートフォンを入れ、そのリュックを背負い、蒼依は歩き出した。

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