第6話 シンギュラー・ポイント ③

 長い時間が流れたようにも感じられたが、実際には十秒も経っていないだろう。

 こんな張り詰めた空気の中で、蒼依は空腹を覚えていた。こっそりと腕時計を見れば、正午を二分過ぎたところだった。

「そっちの要求は?」

 魔道士を睨んだまま、隼人が口を開いた。

「まずは蒼依ちゃんだ。彼女を渡してもらいたい」

 予想どおりの返答だが、蒼依の体は瞬時に硬直した。

「蒼依を手に入れて、どうするつもりだ?」

 隼人は重ねて尋ねた。

「瑠奈ちゃんがぼくたちの要求を受け入れてくれなくなった場合に備えての、人質だね。蒼依ちゃんがいれば、瑠奈ちゃんは嫌でもこちらの要求を受け入れるだろう。そしてもう一つ、万が一にも瑠奈ちゃんの身に何かあった場合に、瑠奈ちゃんの代わりに働いてもらう」

「働くというのは、あの子供に指示を出す、という意味だな? 代理母ではない者であっても、女性の見鬼……すなわちならば、愛情を持って接すればその純血の幼生を手なずけることも不可能ではない」

 隼人が口にしたそんな理屈は、蒼依にとっては未知の情報だった。見れば、榎本と塩沢はもとより、ロックやアリスも不可解そうな表情を浮かべている。

「そういうことさ」と士郎は肩をすくめた。

 代理母ではない者でも純血の幼生を手なずけることができる――おそらくは事実なのだろうが、重要度の高い懸念が、ほかにあった。看過できずに、蒼依は口を挟む。

「ちょっと待って。瑠奈が要求を受け入れてくれなくなった場合に備えて……って言ったけど、まるで今は受け入れているみたいな言い方じゃない?」

「へえ、察しがいいね。そのとおりだよ。瑠奈ちゃんは、すでに働いている」

 そう告げた士郎が、小さく噴き出した。

「うそだ。瑠奈はあんたらなんかに手を貸したりしない」

 首を横に振って、蒼依は士郎の言葉を否定した。

「でも事実なんだよ。瑠奈ちゃんは、今は立派に母親として働いている。あの子の母親としてね」

「母親?」蒼依は眉を寄せた。「ふざけないでよ。瑠奈はここにいるたいくん……神宮司泰輝の母親だよ。いくらなんだって、あの子が自分が産んだ子ではないことくらい、瑠奈にはわかるはずだ」

「瑠奈ちゃんの性格は、ぼくだって承知しているさ。だから、簡単な呪文を唱えさせてもらった」

「催眠術か」

 口にしたのは隼人だ。

「ひどい……」とこぼして、蒼依は唇を嚙み締めた。

「どこかの組織のように薬物を使ったりとか、そんなことはしていない。それに、術が解ければ元に戻るし。でも術が効いている間は、瑠奈ちゃんはあの子の母親なんだ」

 そして士郎は、泰輝とうり二つの男児――あの少年の名を、カタカナ表示の「タイキ」であると告げた。

「そのタイキは、瑠奈ちゃんのクローンが代理出産した純血の幼生だな?」

 隼人が尋ねた。

「それについても、君の予想どおりさ」士郎は言った。「四年前、高三土山の頂上で瑠奈ちゃんを拘束したとき、彼女の頭部の皮膚をほんのちょっとだけ頂いたんだ。それで瑠奈ちゃんのクローンを作り、成長促進剤で急成長させたそのクローンに、代理出産してもらったわけだよ。だから瑠奈ちゃんとタイキは相性がいいのさ」

 塩沢が持っていた情報は正しかったわけだ。

「蒼依の代わりにおれを人質にしてくれないか?」

 隼人は訴えた。

 それは蒼依が望んでもいない言葉だった。こらえきれず、隼人の顔を睨む。

「お兄ちゃん!」

「その呼び方、久しぶりに聞いたな」

 すまし顔の隼人が横目で蒼依を見るが、この期に及んで「フーリガン」などと呼べるはずがない。

「隼人くんに代理出産は無理だろう」士郎は言った。「でも、今の君は通常の人間より身体能力が高い。それもいいかもね。できれば兄妹ともに来てくれるとありがたい」

「欲深なやつだ」

 アリスが吐き捨てる一方で、蒼依は士郎の言葉を聞き逃さなかった。「通常の人間より身体能力が高い」とは何を意味するのか。だが、今はそれを追及する状況ではない。

「そうさ」士郎はアリスを見た。「欲深なんだよぼくは。条件がもう一つあるんだし」

「ばかか? 誰が聞くものか」

 そう返してアリスはまたしても前に出かかるが、今回も隼人の左腕によって遮られる。

「もう一つとは?」

 左腕を水平に上げたまま、隼人は尋ねた。

 士郎はアリスを見る。

「コードネーム、アリス……本名、エトウサキさん。君が持っている破邪の剣、あやかし切丸をこちらに渡してもらいたい」

 もはや士郎が何を知っていても驚くことはない。しかし蒼依は、アリスの剣を欲する士郎に違和感を覚えた。

「おまえもこれがほしいとはな」隼人は笑みを浮かべた。「言うことを聞かない幼生を、これで脅すか?」

 士郎も笑みを浮かべる。

「それもいいね。でもその剣は名匠うえまつかつあきの作で、しかも対幼生弾丸と同じ金属……特殊な隕鉄によって作られたんだ。その金属で出きているというだけでも貴重なんだよ。そういえば、昔は深きものどもが海底からその隕鉄を採取していたっけ。塩沢さん、そうでしょう?」

 問いつつ、士郎は塩沢に目を向けた。

「聞いたことはあるが、よくはわからんな」

 興味がなさそうな返答だった。

「なるほど」士郎は肩をすくめた。「あやかし切丸は三振りある破邪の剣のうちの一振りだ。所持しているだけで優越感に浸れる。あとの二振りは……そうそう、今のあやかし切丸と似たような状況だ。こことはまた別の世界に運ばれてしまった。現時点では現実世界に一振りも存在しないことになるね」

 蒼依にとってはどうでもいい話だった。しかし、あやかし切丸はこちらにとっての強力な武器なのである。やすやすと手放すわけにはいかないはずだ。

「いいだろう。あやかし切丸をおまえに渡そう」

 意表を突かれ、蒼依は目を丸くして隼人の顔を見た。

「おいフーリガン、いい加減にしろよ」

 アリスの怒りはもっともだろう。

 そんな彼女に、隼人のライフルのグリップが突き出された。

「これを持て」

 隼人は指示した。

「本気か?」

 愕然とした表情をアリスは呈した。

「命令だ。早くしろ」

 淡々とした口調だった。

「どうなっても知らないぞ」

 反駁しつつ、アリスはライフルを左手で受け取り、あやかし切丸の柄の先を隼人に差し出した。

「蒼依」あやかし切丸を右手に持った隼人が、横目で蒼依を見た。「鞘をよこせ」

 言いつけられた蒼依は、隼人ではなくアリスを見た。

 無言のまま、アリスは隼人を顎でしゃくる。

 あらがえず、蒼依は鞘を隼人に差し出した。

 左手で鞘を受け取った隼人は、その鯉口にあやかし切丸の刃を差し入れた。

「約束だぞ」隼人は士郎を睨んだ。「これを手にしたら、まずは全員を現実世界に返す。いいな?」

「もちろんだ」

 そう答えてほくそ笑んだ士郎に、ロックとアリス、榎本のそれぞれが、無言で銃口を向けた。

 隼人があやかし切丸の収まった鞘を左手で前に突き出し、五歩、前に出た。

「聞き分けがよければ、結果もよくなるものさ」

 そう告げた士郎が、ゆっくりと隼人に近づいた。

 つぶやく声が聞こえた。隼人の声だ。

 ふと、士郎の足が止まった。隼人までは五メートルほどの距離がある。

 つぶやきを止めた隼人が、突然、助走もなしに大きく跳躍した。

 あやかし切丸の鞘が、隼人の立っていた位置に音を立てて落ちた。

 隼人は五メートルほどの高さで自らの頭を下にして半ひねりを入れた。床運動の前方伸身宙返りだ。そして、動きを止めた士郎の背後に着地した隼人は、士郎の背中に正面を向けていた。その間、士郎は身動き一つ取らなかった。

 何が起きたのか、蒼依は理解できなかった。アリスの舞うような戦いぶりを凌駕する動きに、ただ圧倒されるばかりだった。

 あやかし切丸の刃が、士郎の喉に当てられた。士郎の左腕は自分自身の背中と隼人の胸との間に織り込まれ、隼人の左腕がそれを固定している。痛みがあるのだろう、士郎は顔をゆがめていた。

 この光景は、蒼依がカイトにナイフを突きつけられた状況と酷似していた。形勢が逆転したにもかかわらず、蒼依はわずかな不快感を覚えた。

「アリス、泰輝のロープを」

 隼人が指示を出した。

 頷いたアリスが、右腕をライフルのベルトに通して銃の本体を背中に固定し、泰輝からロープをひったくった。そして彼女は、隼人の元へと走り、隼人の指示なしで士郎を手早く拘束する。士郎は両腕ごと上半身をロープによって何重にも巻かれていた。

 再び隼人は士郎の背後につき、あやかし切丸の刃を士郎の喉に突き当てた。続いて、ライフルを構え直したアリスが、その銃口を士郎に定める。ロックと榎本はも先ほどから銃口を逸らしておらず、少なくとも蒼依には、隙があるようには見えなかった。

「身体能力が向上しただけじゃなかったね」痛みからは解放されたのか、士郎は苦笑していた。「まさか神の力を借りるとは」

 神の力――さきほどのつぶやきで士郎の体を一時的に行動不能にしたのが、その力なのだろう。隼人が魔道士まがいの技を使えることに、蒼依は喫驚せずにいられなかった。

「口が利けるのなら、術はもう解けたんだな。おれの使う術なんて、こんな程度だ。このロープがなかったら、今頃はおまえの反撃を食らっている」

 隼人はそう返すと、蒼依に目を向けた。

「蒼依、鞘を拾うんだ」

 隼人にそう言われて、蒼依はあやかし切丸の鞘を拾った。我を忘れて呆然としていたが、それを恥じる余裕などない。

「現実世界へ戻るぞ」

 皆に向かって隼人は告げた。

「フーリガン」ロックが言った。「おれが先に玄関を通ってみる。人質を連れての先導はきついが、おれなら身軽だ。問題がなければ、またこっちに来るか、手だけでもそこから突き出して合図する」

「向こうは敵だらけかもしれないんだぞ」

 隼人のその懸念は蒼依も抱いていた。むしろそう予測して当然だろう。

「山野辺士郎に訊いたところで、実際の状況なんて教えてくれるわけがないしな」

 そうこぼしたのはアリスだった。

「向こうの状況は向こうにいる仲間次第だからね」士郎が苦笑した。「ぼくにはなんとも言えないよ」

「山野辺士郎、おまえなんて最初から当てにしていないさ」

 ロックは言った。

「だがな」隼人はロックを見た。「この玄関とやらも得体の知れないものなんだ。万が一にも異次元空間に繫がっていれば、おれはなんとかなるが、通常の人間なら即死だぞ。人質はロックかアリスに任せるよ。おれが先に行く」

「いや、任せてくれ――」

「おれがやろう」

 ロックの言葉にだみ声をかぶせた塩沢が、先ほどの隼人並みの跳躍で、一気に玄関の前へと移動した。そして彼は、隼人に魚面を向ける。

「おれもここまで成長すれば、異次元空間でも死なずに済む。おそらくはその空間での移動もできるだろう。それにフーリガン、あんたは身体能力が高いようだが、おれも堅牢さなら人間以上だ。こう言っては悪いが、ロックよりも丈夫、ということだよ。向こうで敵に囲まれたとしても、生き残る確率はロックよりは高いだろうな」

 それだけではなく、塩沢はアリス以上の身体能力を有しているだろう。むしろ、隼人にも引けを取らない可能性がある。蒼依にはそう見えた。

「だがな」ロックは塩沢を睨んだ。「その確率とやらは、わずかな差だと思うけどな」

「これはある意味、頑丈なだけが取り柄なやつが適任の仕事だ。ロックにはもっと程度の高い任務が向くはずだ」

 人のものとは思えない声ではあるが、塩沢にしてはかなり相手を気遣った言葉に違いない。

「そうだな……なら、塩沢さんに任せよう」

 隼人が決断を口にした。

 頷いた塩沢が、光の円――玄関へと向かって跳ねながら進んだ。

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