第6話 シンギュラー・ポイント ②
七人は階段をゆっくりと下りていった。その狭い空間は階段も壁も天井もすべてが打ちっぱなしのコンクリートだ。下から届く弱い光が、それらをぼんやりと照らしている。
いつでも射撃できるよう、榎本は右手の拳銃でハイレディポジションを取っていた。地下へと向かっているせいか外の風の音が小さくなったが、その勢い自体は変わっていないようだ。あの風の中でうごめく化け物どもが、今にもこの建物の中に飛び込んでくるのではないか――そんな不安にさいなまれつつ、榎本は蒼依のリュックのあとを追った。
先頭の隼人が警戒しつつ一段一段を下りているのが、榎本の位置からも窺えた。考えてみれば、敵はこの先にもいるらしいのだ。最後尾を担う者には勇気が必要と思えるが、先頭を担当する者には勇気に加えて判断力も必要とされるだろう。
約一階ぶんの高低差を下りた辺りに踊り場があったが、折り返しはなく、狭い空間は一直線に延びていた。そこからさらに同程度の高低差を下りたところが、階段の終点だった。
下りた先は六メートル四方ほどの狭いホールだった。そこも床や壁、天井が、打ちっぱなしのコンクリートで占められていた。正面に金属製とおぼしき観音開きのドアがある。
見上げれば、円盤状のカバーに覆われた照明器具がひとつだけ据えられていた。弱い光を放っているが、スイッチらしきものはどこにもない。階段に届いている明かりの源は、この照明器具らしい。
ホールの隅――階段の手前で、塩沢が一階のほうを警戒していた。皆から距離を置く目的もあるらしい。それは榎本や蒼依が持っている「古き印」を厭う理由もあるだろう。
「このドアの先……しかないな」
アリスが声を潜めた。
「ああ」ドアを見ながら頷いた隼人が、ロックに顔を向けた。「階段を警戒してくれ」
「了解」と答えたロックが、塩沢に並び、階段に正面を向けてライフルを構えた。
「たいくん、このドアの向こうに瑠奈はいるの? 何か、感じない?」
蒼依が泰輝に尋ねた。
「いないと思う」
ドアを見つめつつ、泰輝は答えた。彼が左肩にかけているロープはまさしく自分たちの命綱である。これに繫がれて異次元空間とやらを意識のない状態で運ばれる――そんな光景が榎本にはどうしても想像できない。
「じゃあ」蒼依は階段のほうに顔を向けた。「まさか建物の外?」
「外にもいないよ」
泰輝がそう言うと、蒼依は彼に視線を変えた。
「何を言っているのかわからないよ。じゃあ、どこにいるの?」
「こっちの世界にはいない、ということだよ」
そう答えて、泰輝は蒼依を見た。
「なら、この先へ行っても意味なんてないじゃん」
絶望したのだろう。蒼依は泣きそうな顔を呈した。
「泰輝の言うとおりなら、なおのこと、この先へ行くべきだな」
隼人が言った。
即座に蒼依は隼人を睨む。
「どうして?」
「泰輝の話は、瑠奈ちゃんは現実世界にいる、という意味だろう。そのうえで、この先には現実世界に通じる出入り口があるかもしれないんだから、選択肢はほかにない、ということだ」
得心したのか、蒼依は黙して頷いた。
「でも」泰輝は言う。「お母さんではない誰かは、いるよ」
「山野辺士郎か?」
アリスの問いに泰輝は「そうかもしれない」と答えた。
「行くぞ」
隼人のその言葉を受けて、アリスが左手で左のドアノブを握ろうとした。
それより先に、左右のドアが奥へと開き始めた。ゆっくりと開いていく開口部の先は、こちら側よりも明るい。
「重そうなドアだし、開ける手間が省けて、喜ぶべきかな?」
隼人のそんな言葉に、アリスが「ああ、うれしいね」と抑揚のない声で返した。
左手をライフルのハンドガードに添えた隼人が、ドアの先を警戒しつつ歩き出した。それに続き、アリス、泰輝、蒼依の順に隊列は進む。
銃の構えを維持したまま、榎本も歩き出した。振り向けば、塩沢とロックが階段のほうを警戒しながら、並んで前進を開始した。無論、塩沢は飛び跳ねての移動だ。
そこは直径が五十メートルを超える巨大な空間だった。穹窿天井で、中央の高さは十メートルにも達しているようだ。内壁の二メートルほどの高さには等間隔に数十本の電灯が設けられ、禁断の間を皓々と照らしている。
この空間の中央付近に、直径がおよそ五メートル、高さがおよそ十センチのテーブル状の壇があった。さらにその中央には、直径が三メートルほどの円状の何かが立てられており、淡く白っぽい光を放っていた。円状のその何か以外は、壇も含めて、この空間もすべてが打ちっぱなしのコンクリートだ。
榎本はドアを開けた者の姿を確認すべく振り向くが、二枚のドアのそばには誰もいなかった。
蒼依は歩きながらその空間を見渡した。屋外に感じる幼生の気配と相まって、受ける威圧感は倍増する。
隼人が立ち止まった。
横に広がった皆も、倣って足を止めた。
いつの間に姿を現したのか、壇の向かって左に長身の青年がこちらに正面を向けて立っていた。黒いシャツに黒いスラックス、長めの髪に整った顔立ちだ。間違いなく、その男が山野辺士郎である。
「死んだとばかり思っていた隼人くんとこんなところで再会できるとは、いやはや、僥倖だね。しかも、蒼依ちゃんまでいる」
士郎は笑顔で言った。
「山野辺士郎!」蒼依は声を上げた。「瑠奈はどこにいるの!」
「あれが山野辺士郎か……」
つぶやいたのは榎本だ。
「そんなに牙を剝くなよ。いとこ同士じゃないか」
砕けた様子で士郎は言った。
「いとこ同士だなんてそんなの関係ない! あたしの両親は、あんたに殺されたんだ!」
怒りのままに蒼依は叫んだ。たとえ血が繫がっていても、士郎は憎むべき相手なのだ。
「確かにぼくは、君の母親に手をかけた。しかし、君の父親を殺したのはハイブリッド幼生だった。しかもぼくが指図したわけじゃない」
「同じことだよ!」
「仮にそうだとしても、君の母親が先にぼくの父親を殺したんだよ。そのことは、君の父親……
そう切り返され、蒼依は言葉を詰まらせた。士郎の父――
「それら事件に関しておれは門外漢だが」榎本が言った。「山野辺さんよ、少なくとも、あんたら無貌教は社会を崩壊させようとしている。蒼依さんを責める立場でないことは確かだな」
蒼依は榎本を見た。拳銃の銃口は下に向けられているが、彼の目は士郎にまっすぐ向けられていた。もっとも、隼人のライフルは士郎に向けられている。
「そのとおり」士郎は頷いた。「榎本さんでしたね。フリージャーナリストとしては穏健派のようですが……いや……フリージャーナリストだからこそ、相容れない関係、というものを見極めていらっしゃる」
そうたたえられた榎本は怒りの形相を呈していた。彼も無貌教によって友人の命を奪われたのだから、当然の反応だろう。
「さて、本題に戻ろう」士郎は隼人を見た。「君たちがいるこの地下室は、この不連続時空間における中心だ。厳密に言えば、この光の円の中心が、この世界の中心だ。それをぼくたちは、特異点、と呼んでいる」
「特異点?」
隼人は眉を寄せた。
「現実世界に設定した起点も特異点だ。現実世界とこちらの世界、それぞれに一つずつの特異点……つまり特異点が二つ存在する、と考えてしまいそうだが、実は一つだけだ」
そんな説明を蒼依は漠然と理解する。
一方、隼人はライフルを構えたまま、得心したように頷いた。
「つまり、二つの世界はその特異点で繫がっている……いや、不連続時空間と呼ぶくらいだから、かろうじて接している、そんな感じだな?」
隼人の言葉に士郎は頷いた。
「そう。そんな感じだよ」
「ならば」隼人は続けた。「その円が時空の出入り口だ」
壇の上に立てられた円を、蒼依は注視した。
壇の中央に、直径約三十センチ、長さも約三十センチの円柱が立っており、その上に直径が五メートルほどの輪が立っていた。輪の枠はその下の円柱とほぼ同じ太さであり、輪と円柱はなめらかに繫がっていた。下の円柱を柄とすれば、巨大なラケットのようでもある。もっとも、輪の内側にあるのはネットではなく、光の膜だ。
「門、なのか?」
榎本が問うた。
「門の一種だけどね」士郎は答える。「しかしこれは、異次元空間を介さないで、直接、あちら側の空間へと行けるんだ。便宜上、玄関、と呼んでいるよ。FA0833のほぼ中央にも、ぼくたちの地下施設がある。その中にも玄関があるんだ。そことの往来をこれで可能としているわけさ」
「門」に対しての「玄関」なのだろう。ネーミングのセンスの悪さを口に出そうとして、蒼依は思いとどまった。
「無貌教のやつらはこの玄関とやらを使って出入りしていたわけか」
アリスが独りごちた。
「それに小さなものの運搬なら、この玄関でこと足りる。でもこのサイズを超える建築資材などは、大型の門を使って運んだけどね。とにかくこの玄関は、素人が四六時中使っているのさ」
「玄関に枠がついているのは、素人が誤って手足を寸断しないための配慮か?」
隼人の問いに士郎は頷いた。
「この枠がガードするから、この空間と次元の出入り口との境に手足を切り取られることはない。我ながらいいアイデアだよ」そして士郎は、地下空間を見渡した。「そうまでして作り上げた実験施設、そして不連続時空間だけど、これでおしまいか」
「どういうことだ?」
隼人は問うた。
「この空間を消す、ということさ。そろそろ潮時とは思っていたんだが、君たちが来て暴れてくれたし、予定を早めることにしたわけさ」
「実験場、と言っていたが、実験は済んだということか?」
次に質問を口にしたのは、榎本だった。
「完全ではありませんが、概ねは済みました。残りは現実世界でやっても問題ないはず」
「なんの実験かはわからないが、陸自の演習場に地下施設なんて、よく作れたものだな」
嘲笑するかのようにアリスが吐き捨てた。
「勘違いをしているようだね」
同じように、士郎も嘲笑を浮かべた。
「勘違いだあ?」
アリスは声をとがらせた。
「ぼくたちが陸自の演習場を利用させてもらったんじゃないよ。ぼくたちが地下施設を作ったあとに、陸自が演習場を作ったんだ」
士郎がそう告げると、隼人は呆れたように肩をすくめた。
「なるほど。陸上幕僚長など上層部は、無貌教が赤首で何かを企てていると、最初から知っていたわけだ。それで、その一帯を買い上げて演習場とし、様子を窺った。だから実際には、神津山演習場内での演習はまだ一度もおこなわれていない。そしてタイミングを見計らい、表向きには演習という名目で、おれたち特殊潜行第三小隊を送り込んだ」
「ちょっと待てよ」アリスが声を上げた。「それじゃ、あたしたちは上層部にだまされていた……というか、利用されていたのか?」
「だろうな」
隼人は簡潔に返した。
「冗談じゃない。何人もの仲間が殺されたんだ」
アリスは隼人に向かってがなるが、間違いなく、彼女の怒りは陸上自衛隊上層部に向けられている。
「だから言っているじゃないか。ぼくたちはこの世界を変えるんだ、とね。ぼくらの願いがかなえば、誰かが権力の犠牲になることなんて、なくなるんだ」
得意げにそう告げる士郎を見て、蒼依はいきり立つ。
「テロ組織の口にしそうな身勝手な台詞だ。結局は一部の者が権力を握り、多くの者が何もかもを搾取される」
不意に士郎は笑みを消し、左手を軽く横に振った。
背後で大きな音がした。
振り返れば、観音開きのドアが閉じられている。
「蒼依ちゃん、外に幼生の気配はあるかい?」
真顔の士郎に尋ねられ、蒼依はそれに気づいた。
「幼生が……」
「いなくなったな」
隼人が繫いだ。
「外にいた彼らは、門を使って現実世界へと戻ったよ。今、この世界にいるのは、君たち七人と、ぼくだけだ」
落ち着いた声で、士郎は告げた。
「ここにいる無貌教は一人、ということか?」
アリスが訊いた。
「そう、もうぼくだけだよ」
その答えを受けて、アリスはあやかし切丸の刃を立て、柄に左手を添えた。
「いい度胸だ」
そう言ったアリスの前に、隼人の左腕が水平に伸びる。手のひらを広げたそれは、「待て」の合図だ。
「止めるな」アリスは隼人を睨んだ。「あいつを仕留めて、この玄関とやらでさっさと現実世界へ戻るんだ」
「だめだ。あっちの世界へ戻っても、敵陣のど真ん中だ。山野辺士郎との交渉を進める」
隼人は言明した。
「フーリガン!」
声を上げてアリスは前に出ようとするが、隼人は左腕をどけない。
「それに」隼人は言った。「山野辺士郎はあのメイスンでさえ足元にも及ばない大魔道士だ。やつが一人でここにいるということは、それなりの策がある、と見て間違いない。へたをすればおれたちはここに閉じ込められたまま、この世界と運命を共にしなければならなくなる」
そうなれば、瑠奈を救うという目的も果たされない。蒼依も隼人と同じ考えだ。アリスには分別を持ってほしかった。
「懸命な判断だ」
士郎は笑みを浮かべた。
あやかし切丸の切っ先が下がり、隼人も左腕を下ろした。
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