第6話 シンギュラー・ポイント ①

 まぶしくもなく暗くもなく、また暑くもなく寒くもなく、けだるい空白の中に、その静寂はあった。

 瑠奈は椅子に腰かけていた。両肘を左右の肘かけに載せ、背中は背もたれに預け、まどろみを楽しむ。

「お母さん」

 泰輝の声だ。

 閉じかけていた目をなんとか開くと、瑠奈の正面――手を伸ばせば届きそうな位置に、泰輝が立っていた。瑠奈がよく知っている泰輝だ。無邪気すぎるくらいに無邪気な、あの小さな泰輝である。とはいえ、彼が身に着けているTシャツに五分丈ジーンズ、トレッキングシューズは、瑠奈には見覚えがないものだ。

「ねえ、泰輝。その服とジーンズと靴は、誰に買ってもらったの?」

 椅子に腰かけたまま、瑠奈は尋ねた。

「うちにあったんだよ」

 泰輝は笑みを浮かべてそう答えた。

「そうだったっけ?」

 首を傾げて、瑠奈は問い返した。

「そうだよ」

「そうか……そうなんだ。そうだったね」

 泰輝が言うのなら間違いないのだろう。真紀が買ったのかもしれない。そういうことにしておけばよいのだ。問題にするほどではない。

「あのね、お母さん」泰輝は瑠奈を見つめた。「ぼくね、だめなほうのお母さんを殺しちゃったんだ」

「だめなほうのお母さん?」

「そうだよ。もう一人のお母さん」

 自分以外にも泰輝の母がいるなど、瑠奈にとっては衝撃であり、その存在さえ許せるはずがない。激しい嫉妬が込み上げてきた。

「殺しちゃったのなら、その人、もういないんだよね?」

「もういないよ」

 泰輝は言いきった。

「よかった。あなたのお母さんはわたしだけだよ」

 安堵した瑠奈は、そう吐露した。

「そうだよ。だからお母さん、もう遠くへ行かないでね」

 笑みを浮かべたまま、泰輝は甘えるような声を出した。

「そうだね。もう行かないよ。泰輝とずっと一緒にいるよ」

 どこへも行く必要はない。泰輝と一緒にいればそれで幸せなのだ。泰輝と一緒に過ごせるのならこのまどろみを犠牲にしてもかまわない――そうとさえ感じられた。

「やったあ」

 泰輝は飛び跳ねて喜んだ。

「泰輝は、わたしのことが好き?」

 訊くまでもないが、それを泰輝に言わせたかった。

「大好きだよ」

 その一言を耳にして、瑠奈の心は弾んだ。

「わたしも泰輝が大好きだよ」

「うれしいな」

 泰輝はそう言うと、瑠奈の元に進んだ。そして膝立ちとなり、瑠奈の膝に頭を載せる。

「お母さん、いいにおい」

 顔を横にして、泰輝は言った。

 瑠奈は泰輝の頭を右手で優しくなでた。

 満ち足りた気持ちになれたのは久しぶりではないだろうか――そんな感慨に、瑠奈は浸っていた。

「ねえ、お母さん」

 泰輝が顔を上げた。愛らしい目を輝かせている。

「なあに?」

「あのねえ……ぼくにいっぱい命令してよ」

「命令?」

「うん」泰輝は頷いた。「命令だよ」

 日常の生活の一つ一つを指示しろ、ということなのだろうか。それとも、命令のとおりに動いたりする――そんな遊びなのだろうか。

「わたしが泰輝に命令するの?」

「そう」

「どんな命令をすればいいの?」

 その内容を命令される側に尋ねるのも奇矯だが、やはり訊かなければわからない。おそらくは、遊びなのだ。

「今から教えるよ」

 泰輝はそう告げた。

「うん、教えて」

 瑠奈は頷いた。

 大いなる安らぎが、そこにあった。


 二棟目の建物は平屋であり、一棟目よりも小ぶりだった。とはいえここも出入り口のドアは施錠されておらず、先と同じようにアリスがドアを開け、隼人が警戒しながら先頭となって入り、塩沢とロックが外の見張りについた。そして隼人とアリスが内部の捜索を進める中、蒼依ら三人は、やはり出入り口の内側での待機となった。二棟目は倉庫として用いられているらしく、全面に設置されたいくつものラックに資材や生活用品、食料、銃器、弾薬などが並べてあり、「ここならば秘薬が保管されているかもしれない」と蒼依は思った。しかし備品の量が多く、それを捜し出すのはやはり後回しにされた。

 そんな状況下で、隼人が一巻きのロープをそこから失敬した。門を使ってこの世界から脱出する場合に、これで全員の体を繫げば何往復もする必要はないのだという。蒼依の意見でそれは泰輝が持つことになった。コイル巻きのロープを素直に受け取った泰輝は、それを左腕に通して肩にかけた。泰輝が今でも役に立つということを、蒼依は皆に示したかったのだ。

 三棟目と四棟目も平屋であり、やはり出入り口のドアは施錠されていなかった。どちらも二棟目と同じく倉庫のような作りだが、何本かの柱が天井を支えている以外は何もなかった。


 太陽の移動や風など自然界の動きがまったくなく、CGで作られたゲームの世界のように思え、四棟目の捜索が済んだときには、何もしていないにもかかわらず、蒼依は目まいがしそうだった。ゲームのしすぎで目が疲れる――あの感覚に似ていた。

 蒼依のそんな疲弊をよそに、一行は最後の建物の前へと至った。

 この建物が五棟の中では最も規模が大きい。最初の建物とは路地を挟んで背中合わせであり、出入り口は一棟目のそれに対して反対側だ。

 蒼依は鞘を左手に持ったままだった。すなわち、アリスの手にするあやかし切丸はずっと抜き身である、ということだ。それが蒼依には心強くもあり、また切っ先の光が物騒にも思えてしまう。見れば、そのアリスがあやかし切丸の切っ先を下に向けた状態で隼人の次の指示を待っていた。

 隼人が左手でハンドサインを出した。これまでの戸口で出したサインと同じだった。ここでも塩沢とロックが外の見張りであり、ほかの五人が建屋内に入るのである。

 アリスがドアノブに手をかけた、そのとき――。

「暗くなったな」とだみ声でそうつぶやいた塩沢が、空を見上げた。

 蒼依も見上げた。

 太陽の光が徐々に弱くなっていく。

 腕時計を見ると午前十一時二十八分だった。夕刻にも届いていない。しかし太陽の光はさらに弱くなり、ついには満月のような状態になってしまう。雲一つない晴天が、わずか数秒で夜空と化したのだ。しかもその空には、星々が浮かんでいた。

 特殊部隊の三人が周囲を警戒した。

「メイスンの話では、太陽の強弱は十二時間ごとだそうだが、それが起こるのは真昼と夜中なのか?」

 隼人に顔を向けた榎本が、小声で尋ねた。

「いや」隼人が横目で榎本を見る。「この世界に来て二晩を明かしたが、太陽の光が変わるのは、午前六時と午後六時……どちらもちょうどその時間だ。つまり、この現象は想定外、ということだな」

 そして隼人は「指示だ」と小声で告げた。ロックとアリスの注目を受けたところで、隼人は左手でハンドサインを出す。

「全員で中に入る」とアリスが蒼依の横でささやいた。

 ドアノブを握ったアリスが、静かにそのドアを開いた。先の四棟と同じく、やはりここも施錠されていなかったわけだ。

 中の様子を窺った隼人が、左手のハンドサインを出して戸口をくぐった。蒼依に目で合図したアリスが、それに続く。蒼依は泰輝を促し、彼とともに建物の中へと足を踏み入れた。

 吹き抜けのホールやリノリウムの床、階段の位置など、一棟目と似た作りだった。しかし一階ホールには、正面の中央に大きな観音開きの大扉が一つあるだけだ。もっとも、太陽から変化した満月が脆弱であるため、窓から入る明かりは少ない。ホールの隅々は闇に覆われており、確認できる範囲はわずかだ。

 榎本と塩沢が戸口をくぐると、外を警戒しながら最後に入ったロックが、そっとドアを閉じた。

 塩沢の体臭が強くなった。それを意識したのか、塩沢は階段とは反対――向かって左へと、飛び跳ねながら皆からわずかに距離を置いた。

 左手でハンドサインを出した隼人が、ライフルを構え、一棟目と同じように右の階段を上った。それと同時に、ロックが正面の観音開きの大扉へと近づく。アリスは蒼依の前で待機した。

「全員で入ったのは、屋外は危険だ、と判断したからですか?」

 声を押し殺して、蒼依はアリスに尋ねた。

「幼生相手に夜戦は不利だからな」

 アリスも声を押し殺した。

 特機隊のものと同じ機能を有するセンサーグラスなら、赤外線機能が使えるはずだ。しかしアリスの言葉どおり、特殊部隊隊員でもそれを駆使したところで昼間のように立ち回るのは困難だろう。しかも、榎本は闇を見とおせるわけではない。蒼依に至っては幼生の気配を感じたり不可視状態の幼生を視認することはできるが、可視化した幼生が闇に紛れてしまえば、榎本と同じくそれを目視することはかなわず、ゆえに気配だけを頼ることとなるのだ。

「まあ、屋内なら有利、ということでもないけどな」

 アリスは付け加えた。

「スマホのライトとか、点けたらだめ……ですよね?」

 そう訊いた蒼依を、アリスは横目で見た。

「状況次第だな。とにかく今は、我慢しろ」

 光が恋しいのではなかった。万が一の事態に陥った場合、広範囲の状況を確認する必要に迫られても、この暗さではそれがかなわないのだ。

 ふと、榎本が窓に顔を向けた。

 風の音がしていた。少なくとも蒼依には、風の音に聞こえる。加えて、窓が小さな音を立てていた。

 自分の位置からは外は見えず、蒼依は窓に近づこうとした。

「えっ」と小さな声を漏らしたアリスが、左手でセンサーグラスを外し、眉を寄せて窓を睨んだ。

 大扉の前のロックも、センサーグラスを外す。

 階段を上りきった隼人が、不審そうにアリスを見た。

 アリスは顔を隼人に向けると、左手のセンサーグラスを掲げて、それを左右に振り、さらに自分の首も横に振った。そしてそのセンサーグラスを防弾ベストの右胸ポケットに入れる。センサーグラスに異常があったようだ。

 続けて、アリスはロックにハンドサインを出し、そして隼人にもハンドサインを出した。

 階段を下りた隼人が、ロックと合流して戸口のほうへと戻ってきた。

「センサーグラスがただのサングラスになってしまった」アリスは小声で訴えた。「ノイズだらけになって、すぐに表示が消えた」

「おれのもだ」

 小声で言ったロックが、左手に持つセンサーグラスをウエストポーチに入れ、右胸ポケットからもう一つのセンサーグラスを取り出した。それを装着し、すぐに外す。

「これもだめなままだ」

 そう吐き捨て、ロックはそれを右胸ポケットに戻した。

「赤首の集落でもセンサーは使えなかった」アリスが肩をすくめた。「無線もだった」

「赤首の集落が存在する空間は、こことはまた違うようだ。センサーや無線が使えないという現象は、それぞれで理由が違うかもしれない」

 隼人は意見した。

「なあ」榎本のささやきが割って入った。「風が吹いているんだが」

 榎本に並んで蒼依も窓の外を窺った。宵闇でよく見えないが、枯れ草らしき物体が転がっていくのは、どうにか確認できた。

 隣の窓から外を見る隼人が、神妙な表情を浮かべた。

「センサーグラスが使えなくなったのは、この風が原因なのか?」

 そう問いつつ、榎本が隼人に顔を向けた。

「わからない」隼人は榎本に視線を移した。「しかし、だとすれば、やつらが意図的に起こした風だろう。太陽が急に暗くなったのは、間違いなくやつらのせいだろうけど」

「屋外にいるのが不利だ、と知らしめるようなやり方だな」

 アリスが言った。

 太陽の輝きが失せたことやにわかに吹き始めた風は、七人をこの建物に閉じ込める手段なのかもしれない。ならば、このまま何も起こらないわけはないだろう。蒼依にもそれくらいは推測できた。

 板を割るようなけたたましい音がした。

 全員の目が大扉のほうへと向けられる。

 大扉が開き始めた――ように蒼依には見えた。しかし、それが常軌を逸する動きであることを、彼女はすぐに悟る。

 確かに観音開きの左右が手前にせり出しているが、紙を筒状にするかのごとく、巻かれながら開いていくのだ。しかも、大扉の上部の壁も左右に裂かれ、大扉と連動して左右に巻かれていくではないか。一階部分だけではない。二階ホールも一階の現象に連動し、左右に巻かれていく。まるで、見えない巨大な手が、吹き抜けホール側とその奥と仕切る壁を力ずくで巻き取っているかのようだった。大扉も壁も決して柔らかいわけではなく、折れたり割れたりしながら筒状に巻かれており、それが、けたたましい音の発生源だった。

 ふと、喧騒が鎮まった。

 ホールの左右の端に、巨大な筒が一本ずつ立っていた。よく見れば、右の階段は巨大な筒に押し潰されている。一階の床と二階の天井――それぞれの壁と接していた箇所に、壁や柱など、割れて剝がれた破片が取り残されていた。

 壁が巻き取られて生じた巨大な開口部――その向こうに見えるのは、こちら側と同じく、二階ぶんの高さがある吹き抜けの空間だった。もっとも、そちら側の奥行きはこちら側の倍以上だ。

「これも、無貌教が意図的に起こしたのか?」

 榎本のその問いが誰に向けられたのか、蒼依には知る由もない。

 風の音がまだ聞こえていた。その音に導かれるように、蒼依の意識は屋外へと向けられる。

 いくつもの悪意を感じた。

「幼生」

 蒼依は口走った。

「ああ」隼人が頷いた。「取り囲まれたな」

「この建物に入らないほうがよかった、ということか?」

 尋ねたのは榎本だ。

「外にいたらとっくにやられていた、っていうことだよ」

 アリスが説いた。

「なら、そっちへ進め、ということだろうな」

 榎本が言うと、隼人は頷いた。

「おれとアリスで先頭を行く。塩沢さんとロックは後ろを頼む。榎本さんと泰輝は、中列の脇を固めてくれ。蒼依は中列の真ん中だ」

 隼人の指示を泰輝が理解したか否か蒼依は把握できず、とりあえず「あたしの右について」と泰輝に伝えた。泰輝が蒼依の右につくのと同時に、拳銃を両手で構えた榎本が、蒼依の左につく。そして、先頭は右に隼人、左にアリス、後尾は右にロック、左に塩沢、とおのおのがついた。

 陣形がゆっくりと動き出した。

 壁が巻き取られたのが原因なのか、埃が舞っていた。思わず、蒼依は呼吸を浅くしてしまう。

 大扉があった位置を、先頭が通過した。榎本と泰輝とに挟まれた蒼依も、そちら側へと足を踏み入れる。

 だだっ広い床は、一面がフローリングだった。左右の窓から入る明かりはわずかだが、平らな床につやがあるのを、埃が舞う中で蒼依は認識した。

 左右の壁を見れば、二階の床に相当する高さに手すりつきのギャラリーがあった。隼人が進もうとしていた二階の先は、この左右のギャラリーに繫がっていたらしい。

 このだだっ広い床といい、左右のギャラリーといい、まるで体育館である。

 中央まで進んで、隼人は「止まれ」と命じた。

 蒼依を中心にして、泰輝を除く五人が周囲を警戒した。

 幼生の気配は相変わらず建物の外にあった。十を超える数らしい。どの方向にもそれらの気配は感じられた。

 不意に、漂う無数の埃が床に落ちた。

 突然の出来事に、蒼依は息を吞んだ。

「何が起きたんだ?」

 榎本がささやいた。

「ようこそ、我が実験場へ」

 声がした。聞き違えるはずがない。あの声だ。

「山野辺士郎」

 蒼依はその名を口にした。もっとも、どこを見ても彼の姿はない。

「この声が、山野辺士郎なのか?」

 問うたのはアリスだ。

 蒼依は迷わずに「間違いないです」と答えた。

「そうだよ。蒼依ちゃんの言うとおり、ぼくが山野辺士郎だ」

 やはり姿は見えなかった。声がどこから届いているのかもわからない。

「山野辺士郎、出てきたらどうだ。おれたちを恐れているとは思えないけどな」

 挑発するかのごとく、隼人が声を上げた。

「すぐに会えるさ」士郎は言った。「すまないが、もう少し足を運んでもらいたい。ほら、そこに階段があるだろう」

 その「階段」とは先ほどの怪異で押し潰されたあれななのか――と蒼依が考えていると、ロックが「そこか?」と声を漏らした。

 蒼依は振り向き、ロックの視線を追った。

 先ほどのホールの手前、だだっ広い床の左端に、長方形の穴が一つ、あった。横に二メートル、縦に三メートルほどだろう。ホール側からこちら側に向かって階段が下っているのが、垣間見えた。

「あんなもの、さっきはなかったぞ」

 アリスが言うと、塩沢が「ああ、確かに」と繫いだ。

 外の風が強くなっていた。

「見ろ」とロックが言った。

 左右の壁に並ぶ窓の外に、いくつもの影がうごめいていた。天空の明かりが脆弱なために確認しづらいが、可視化した幼生らしい。

「君たちがこちらの指示に従えば、彼らは入ってこないよ」

 士郎は笑いをこらえているかのようだった。

「やつの指示に従うほかに選択肢はないな」

 言って隼人は、元の隊列で行くことを皆に伝えた。

 父は士郎の使役するハイブリッド幼生によって殺害され、母に至っては直接士郎の手にかかったのだ。その士郎と対面するかもしれないが、それよりも、瑠奈がそこにいるか否かが重要なのである。

 鞘を握る左手に力を入れ、蒼依は隊列の中に入って歩き出した。

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