第5話 探索 ⑧

「諦めたか。往生際がいいな」

 カイトが塩沢に向かって口元をゆがめた。

「ばかを言え」塩沢はカイトに顔を向けた。「この傷では、もう耐えられないだけだ」

「だから、観念したんだろう?」

 顔が引きつったように見えたが、どうやら笑みを浮かべているらしい。

「成長を止めていたが、もう解放する」

 言って塩沢は、立ち上がった。

 何かを悟ったらしく、ナイフをシースに収めた隼人が、ライフルを拾った。

「みんな、もっと下がるんだ! 急げ!」

 指示を飛ばしながら、隼人はさらにあとずさった。

「下がろう」

 ロックがそう言うと、アリスが蒼依たちに左手で、下がれ、と合図を出した。蒼依は泰輝の左腕を引きつつあとずさり、榎本も銃口を下に向けて後退した。

 皆が距離を取ったところで、塩沢は胸を張った。それに伴い、二つの傷口から鮮血が流れ出る。

「ばかか? 血を失えば、インスマスづらといえども命を落とすぞ」

 吐き捨てたカイトが短剣の切っ先を塩沢に向け、足を動かすことなく、地面の上をわずかに浮いた状態で、滑るように走った。

「ははは!」

 塩沢が声を上げて笑った。そして彼の体が瞬時に膨れ上がり、身に着けていたスラックスが弾け飛ぶ。

 つんのめるように止まったカイトが、スラックスの破片を避けたのだろう――左手で顔をかばった。そして彼は、塩沢を見て目を丸くした。

 驚いたのはカイトだけではない。蒼依も榎本もアリスもロックも、路地の奥に立つ隼人も、誰もが動きを忘れ、塩沢を凝視している。驚いた様子はないが、泰輝も呆然と塩沢を見ていた、

 塩沢は全裸となっていた。もっとも、人としての体ではない。

「深きもの……」

 つぶやいたカイトが一歩ずつあとずさるが、背中が建物の壁に当たってしまい、動きを止めた。

 塩沢の体はうろこに覆われていた。筋肉質の体がさらにたくましくなり、先に受けた二つの傷は失せている。生殖器は露出しておらず、その有無が確認できない。縦に一層薄くなった頭部、鼻梁のない鼻、まぶたのない離れた双眼、えら――それらは以前にも増して魚類の特徴が際立っていた。加えて、手足の指の間の水かきは広くなり、すべての指がかぎ爪を有していた。紛う方なき半魚人、すなわち「深きもの」だ。

「塩沢さんが……いったい、どうなっているんだ?」

 驚愕の声を漏らしたのは榎本だ。

「魚野郎め」

 吐き捨てたカイトが、再度、大地を滑って短剣を突き出した。

 しかし塩沢は、それを真正面から受け止める。

 カイトの右前腕が塩沢の左手によって握られていた。刃は標的の体に届いていない。

「おれの剣を躱したな」

 愕然とした表情で、カイトは塩沢を見た。

「躱しただけじゃない」

 たんが絡んだような声で言った塩沢が、右手でカイトの右手首の辺りをつかみ、瞬時にしてその右前腕をへし折った。

「うがあああ!」

 叫んだカイトは左手に短剣を持ち替えると、その左手で塩沢の両手を振りほどき、後方へ高く跳躍した。

 すかさず、隼人がライフルの銃口を上に向けた。ロックも同様にライフルを構える。

 二階建ての屋根にもかかわらず、カイトの姿はその陰に隠れてしまった。陸屋根であるため、そこから反撃があることも考えられる。

 不意に、塩沢がカイトを追って大きく跳躍した。

「塩沢さん、よせ!」

 隼人が声を上げたが、すでに塩沢の姿も屋根の陰に入ってしまった。

 寸刻の間があり、塩沢が背中から落ちてきた。元の位置に背中を打ちつけた塩沢だが、すぐに跳ね起きた。

 気遣って声をかけようとした蒼依だが、塩沢が平然としているのを悟り、出しかけた言葉を詰まらせた。

「さっきの……あの子供が……」

 屋根を見上げる異形が、やはりたんが絡んだような声で言いよどんだ。姿が変わったとともに声も変わってしまったらしい。

 泰輝も含めて、皆が見上げた。

 屋根より高い空間に、それは浮かんでいた。泰輝にそっくりのあの男児だ。黒い泰輝である。彼は自分より大きなカイトを左脇に抱えていた。

「士郎が待っているよ。みんな、早くおいでよ」

 無邪気な笑顔で、黒い泰輝は言った。

 その彼に抱きかかえられているカイトは、意識がないのか、ぐったりとしている。

「撃て!」

 隼人の号令があった。

 二丁のライフルが火を噴く。

 数発の弾丸が宙を走ったが、その先に敵の姿はなかった。

「もっと上だ」

 アリスの声を聞いて、蒼依はさらなる高みを見上げた。

 虹色のマーブルがうごめく球体――門が浮かんでいた。

 カイトを抱える黒い泰輝はその真下に浮かんでいた。この距離では表情は窺えないが、笑い声は聞こえた。

 ロックのライフルの銃口がさらに上を向いた。

「やめろ。無駄だ」

 隼人が言うと、ロックは素直に銃口を下に向けた。

 指図した本人は、それより先にライフルを下に向けている。

 上空の二人が門に吸い込まれ、そして門は消滅した。

 蒼依が冷気を感じたのはその数秒後だった。

「山野辺士郎が待っているのか?」

 榎本だった。

「これら建物のどれか……もしくは、そう遠くない位置にいそうだ」

 答えた隼人が、ライフルの弾倉を交換しながら周囲を見回した。

「手分けして、建物の一軒一軒を調べるか?」

 提案したのはアリスだった。

「戦力を分散することになる」

 弾倉の交換を済ませた隼人が、そう言った。

 隼人の作業が完了するのを見やったロックが、ライフルの弾倉の交換を始めた。隙を作らないためのタイムラグなのだろう。

「じゃあ、どうしろと?」

 不服そうに問いつつ、アリスは首を傾げた。

「建物は全部で五棟だ。一番大きいのが、そっち」奥に向かって左の二階建て建造物を、隼人は顎で指した。「二階建てはこの左右の二棟、あとの三棟は平屋だ。それだけなら、全員がまとまって回ったほうが、結果的によいと思う」

「なるほど……わかった」

 アリスがそう答えるのとほぼ同時に、ロックが弾倉の交換を終えた。

「みんな」隼人は皆に目を配った。「元の隊列で移動する」

「待て」

 ごぼごぼとした声を挟んだ深きもの――塩沢は、皆から距離を取っていた。

「何か?」

 隼人は尋ねた。

「おれは最後尾がいい。体臭もきついだろうし……それに……」

 確かに塩沢の体臭はひどさを増していた。

「それに?」

 隼人は塩沢を促した。

「この姿になったら、蒼依さんと榎本さんが一つずつ持っている古き印が、そこにあるだけで、堪えるんだ」

 その言葉を聞いて、隼人は蒼依と榎本を交互に見た。

「それを持っているのか?」

 尋ねた隼人は、蒼依に視線を定めていた。

「うん」と蒼依は答えた。

「捨てようか?」

 榎本が提案すると、塩沢が魚面を横に振った。

「もしかすると、おれ以外の何かにも効力を示すかもしれない。持っておけ」

 明らかに人の声ではないが、言葉は問題なく聞き取れた。

「塩沢さんの言うとおりだな」隼人は言った。「二人とも、必要と判断したときは、古き印を使ってくれ」

「ああ、わかった」

 榎本が了承したのに合わせて、蒼依も首肯する。

「それにしても」榎本は続けた。「塩沢さん、あなたは何者なんです?」

「話すと長くなる。いずれにしても、もう人の姿には戻れない。目障りかもしれないが、こらえてほしい」

 そう説いた塩沢に、榎本は「はい」と首肯するだけだった。

「じゃあ、塩沢さん、しんがりを頼む」

 隼人の言葉に塩沢は頷いた。

「アリスは二番手だ」

 続いての指示に、アリスが「了解」と答えた。

 先頭の隼人が路地の先に向かって歩き出し、それにアリスが続いた。三番手は泰輝であり、蒼依、榎本、ロック、塩沢と続く。先ほどと同じく、腰をかがめて進んだ。

 蒼依は泰輝の後ろを歩きながら、左手に持つ鞘を見下ろした。

 ――これって、武器になるのかな?

 差し迫った状況では、使わざるをえないかもしれない。何もないよりはマシ、ということだ。

 この路地に面している双方の壁には、ドアも窓もなかった。路地に入って五十メートルほどで右の壁が途切れており、五、六メートルの間を置いてその先からまた壁が続いている。左の壁が途切れるのは、そのさらに先だ。

 右の壁が途切れる手前――すなわち、丁字路の手前に差しかかった隼人が、足を止め、左手で、待て、と合図を出した。そしてさらにその手を背中に回して、右の壁に寄るよう、指示する。

 全員がそれに従った。

 隼人は右の建物の角から顔を出し、右の奥を確認した。そして彼は振り向き、左手でなんらかのハンドサインを出した。

 すぐにロックが前進し、丁字路を直進して右の壁――右列の二棟目の角に立った。そして彼は、辻の一帯の警戒に就く。

 左手で、前進、の合図を出した隼人が、角を右に回り込んだ。

 二番手のアリスが続いて角を曲がり、三番手の泰輝に続いて、蒼依も右の通りへと入った。

 同じような路地だった。前を見れば、五十メートルほど先で草地へと繫がっている。

 左右の建物はどちらも窓が並んでいるが、少しかがめば頭がかからない程度だ。

 振り向けば、榎本が蒼依に続いていた。ロックは辻で警戒している。しかし、塩沢はなかなか角を曲がってこない。この期に及んでの遁走など考えられずにいると、移動を開始したロックからかなりの距離を置いて、塩沢が姿を現した。

 改めて見ると、塩沢の今の姿は以前にも増して醜怪だった。しかもその前進方法に至っては、足を引きずるのでもなく、蛙のように飛び跳ねる、というありさまなのだ。とはいえ、以前の姿や歩き方が異様だったのが幸いしているのかもしれない、と蒼依は思う。あの姿を間近で見ていたからこそ、そこそこの耐性ができた可能性がある、ということだ。彼が後ろにいるだけで鳥肌が立ちそうなのは、事実であるが。

「ちゃんと前を見て歩いたほうがいいぞ」

 榎本に小声でたしなめられ、蒼依は正面に向き直った。

 先頭の隼人が建物の端で足を止めた。順次、その場で立ち止まる。

 静寂に包まれていた。敵がどこで息を潜めているかわからないが、少なくとも、泰輝以外の幼生の気配はない。

 路地の外の様子を窺っていた隼人が、前進の合図を出した。

 全体が動き出す。

 蒼依は胸の鼓動を抑えて足を進めた。


 右手に持つ拳銃が二度目以降の活躍をしないことを、榎本は祈っていた。射撃という行動そのものより、そんな事態に陥るのを忌避しているのである。人を撃ち殺した、という罪悪感もあった。もちろん、仲間を守るという決意に揺らぎはない。

 前を進む蒼依が立ち止まり、それに合わせて榎本も立ち止まった。

 見れば、先頭が建物の入り口にたどり着いていた。

 出入り口である片開きのドアは、草地に面していた。隼人がライフルを構えたままドアの横に立ち、そして頷くと、アリスがドアノブを左手で握った。鍵はかかっていなかったらしく、ドアは静か開いた。アリスが横にのき、中の様子を確認した隼人が、左手でハンドサインを出した。

 ロックが塩沢に何かをささやいた。隼人のハンドサインの意味を伝えたらしい。

 隼人が左手で前進の合図を出すと、塩沢が戸口の手前、ロックが戸口の先に立ち、ほかの者は隼人に続いて建物の中へと、順次、足を踏み入れた。見張りを命じられたらしい塩沢とロックは、戸口の外に残った。

 戸口の中は吹き抜けのホールになっていた。床はリノリウムであるらしい。正面の壁の中央から一本の通路が奥に延びており、それを中心にして、正面の壁の左右に二つずつ、ドアが並んでいた。一階ホールの右には階段があり、それが二階ホールへと続いている。当然だが二階ホールには手すりがあり、その奥の様子が確認しずらいが、概ね、ドアや通路の配置は一階と似ているようだ。

 榎本と蒼依、泰輝の三人は戸口のすぐ内側に待機するよう、隼人が小声で伝えた。

 左手でハンドサインを出した隼人が階段を静かにかつ素早く上った。

 同時に、アリスが一階の向かって右端のドアへと走り寄る。

 右手にあやかし切丸を持つアリスは、左手でそっとドアを開け、その場で中の様子を探った。その間に、隼人は二階ホールに至り、やはり右端のドアへと向かう。

 安全を確認したらしいアリスが部屋へと入った。二階の隼人がどうしているかは、榎本の位置からではドアが開かれたこと以外は窺えない。

 三十秒ほど経過し、アリスが部屋から出てきた。そのドアを開けたまま、左隣のドアの前に立ち、そっとドアを開けた。

 二階でも右から二番目のドアが開くのが見えた。

 一階では二番目の部屋に入ったアリスが、やはり三十秒ほどで出てきた。そのドアを開けたまま、今度は中央の通路へと進む。通路に面した左右の壁にもいくつかのドアがあり、アリスはその一つずつを開け、先の二つのドアと同じように中に入った。そして通路から戻ってきたアリスは、残りの二つのドアとその中も、同じく確認する。

 二階でも同じく確認していたらしく、アリスが榎本らの元に戻る頃には、隼人が階段を下り始めていた。

「宿泊施設のようだが、誰もいない」

 四人の前に立った隼人が、そう告げた。

「そうだな」アリスが頷いた。「誰もいないうえに、ベッドといくつかの生活用品以外は何もなかった。ベッドの下も確認したけど、着替えや個人の所持品もないんだ」

「二階も同じだ」

「一階にはキッチンとトイレがあったけど、食器とかトイレットペーパーとか、最低限の備品があるだけだ」

「二階のトイレもそんな感じだ。まるでおれたちが来るのを予測していたみたいだな」

 言って隼人は、忌々しそうにホールを見回した。

「あたしたちも手伝って、四人でもう一度、部屋をじっくりと調べてみる……とかは?」

 そう提案した蒼依が、榎本を一顧した。賛同を求めているらしい。その「四人」に泰輝が勘定されていないのは明らかだ。

「いいと思うが」

 実際には判断がつかなかったが、榎本は蒼依の意見に同意を示した。

「もう一度調べるんなら」隼人は蒼依に顔を向けた。「残りの建物を確認してからだ。秘薬を見つけるのは大事だが、もし敵がどこかに潜んでいるのなら、まずはそれを一掃しなければならない。秘薬を探すことに没頭しているところを奇襲される、なんてことになりかねないからな。なんせ敵は、おれたちがこの拠点にたどり着いた、ということを把握しているんだ。しかもここの建物はどれもが密集している」

「そっか」

 頷いた蒼依だが、理解しかねている様子だった。

「つまり」榎本は口を開いた。「ラスボスを斃すまでは、捜し物はとりあえずというレベル。そういうことか?」

「わかりやすくまとまっているね。榎本さんは物書きなのか?」

 アリスに皮肉っぽく尋ねられ、榎本は苦笑する。

「まあ……その中に入るのかな。生き延びることができたら、説明するよ」

「承知した」肩をすくめたアリスが、隼人に顔を向けた。「そういうことで、捜し物はとりあえず、だよな?」

「そうだ。次は、戸口を出て左の建物が捜索対象だ。そして、反時計回りにそれぞれの建物を巡る。……急いだほうがいい。出るぞ」

 ホール内を警戒する隼人に促され、アリスを先頭にして五人は建物の外に出た。

 外で警戒していた二人が合流し、一行は先の隊列で次の建物へと向かった。

 この世界での太陽である光点の位置は変わっていない。

 榎本は腕時計を見た。

 午前十一時三分だった。

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