第5話 探索 ①
草地を走る蒼依たちの左に、雑木林が途切れることなくどこまでも続いていた。その雑木林の中を疾走する幼生がこちらとの距離を詰めているのを、蒼依は感じ取る。樹林の中を高速で移動できる常軌を逸した能力にも増して、このまままっすぐに走っても逃げきれない、という歴然とした事実が、蒼依の心臓を縮み上がらせた。
ふと、幼生の気配が増えた。泰輝が放つ気配とは別に、もう一体ぶんの気配がある。悪意ある気配が蒼依の意識をじわじわと侵食した。
「蒼依、待て!」
最後尾のアリスが叫んだ。センサーグラスに反応があったに違いない。
はるか前方に立つ半透明の何かが、蒼依の目に映った。外観は把握できないが、内容物までが半透明の状態で見て取れた。
「みんな、止まって!」
蒼依も叫び、すぐに立ち止まった。
泰輝と榎本が蒼依の左に並んだ。
「いや、右に走れ。雑木林から離れるんだ」
蒼依の右で立ち止まったアリスが、そう告げた。
現状をすぐに把握した蒼依は、「たいくん、榎本さん」と声をかけ、草地の奥へと走り出した。
少女を背負う泰輝がすぐに続き、榎本も走り出した。
「あっち……おれたちが向かっていたその先にも、何かいるのか?」
そう尋ねた榎本には、見えていないのだ。
「不可視状態の幼生が一体、待ち構えています」
「透明なのかよ」
愕然とした様子で、榎本はつぶやいた。
糞尿のにおいがあった。
走りながら振り向けば、最後尾を走るアリスが、左手に持つ鞘からあやかし切丸を引き抜いたところだった。
蒼依は右後方を見た。
半透明――すなわち不可視状態の何かに、色がついていく過程だった。それがこちらに向かって走り出す。
枝の折れる音が連続した。
そちら――左後方に目を向ければ、雑木林から何かが飛び出したところだった。それは可視状態だった。
「蒼依、振り向かないで走れ!」
アリスが怒鳴った。
正面に向き直り、蒼依は草地を走り続けた。
「蒼依!」
またしてもアリスに怒鳴られた。しかし、明確な指示は出されていない。
何かが蒼依の頭上を背後から飛び越えた。
蒼依の十メートルほど前方で、草や土が飛び散る。
前のめりになって立ち止まった蒼依は、それを見た。
進路を塞いだのは、雑木林から飛び出した個体だった。人の姿に似ており、大きさも人の大人ほどだが、四肢が異常に長い。それらの四肢を横に広げて四つん這いの姿勢を取っているのだ。さらには、四肢のそれぞれに五本のかぎ爪を備えており、全身が灰色のうろこに覆われている。そんな異形であるが、いずれにも増して異様なのは、二十センチほど飛び出した両目だった。まるでカタツムリのごとくだ。
悪臭のなかで、泰輝と榎本も立ち止まった。
化け物が甲高い雄叫びを上げながら顔を上げた。飛び出している二つの眼球が、蒼依に向けられる。大きく開いた口には鋸歯が並んでいた。
――もう、だめ。
死を覚悟したそのとき、アリスが蒼依の左から飛び出した。
化け物の口から舌らしきものが、五メートルほど、一直線に伸びた。
鞘を放り出したアリスが、体をコマのように回転させてその攻撃を躱しつつ、化け物に最接近した。重装備であるにもかかわらず、彼女の動きはバレエダンサーの舞いのように優雅だった。
舌らしきものが化け物の口に戻った瞬間、あやかし切丸が化け物の首を寸断した。
紫色の体液が飛び散り、化け物の頭部が地面に落ちると、長い四肢は力を失い、胴体も地面に突っ伏した。
そしてアリスは、化け物の頭部に顔を向け、飛び出した両目の付け根――その中央にあやかし切丸を突き刺した。脳を破壊したらしい。
すぐに刃を引き抜いたアリスが、蒼依に顔を向けた。
「何をぼーっと突っ立ているんだ! 早く逃げ――」
アリスは言葉を切った。センサーグラスをかけた顔を蒼依に向けてたまま、固まっている。
幼生の気配は、強く残っていた。雌の気配だ。蒼依に対して、先の雄よりも激しい敵愾心を抱いている。雌として同性の蒼依を競合者として見なしているのかもしれない。
悪臭も強くなっていた。
蒼依が振り向くと、泰輝と榎本も振り向いた。
可視化したそれが、すぐそばに立っていた。
長い黒髪と大きめの乳房が目についた。裸の女だ。しかし下半身は、黒い体毛に覆われた太い胴体であり、八本の関節肢を備えている。身の丈は二メートル前後だろう。
「蜘蛛女……」と榎本がつぶやいた。
その化け物――蜘蛛女が、両肘を外側に向けてわずかに曲げた。瞬時に、左右の肘から手先に向かって一対の剣が突き出す。それぞれの剣の長さは、あやかし切丸と同等だった。
「あたしと張り合おうっていうのか!」
声を上げたアリスが、再度、蒼依の前に出た。
「しかし」榎本が言った。「あのメイスンってやつが言っていた。蒼依さんは瑠奈さんに言うことを聞かせるための人質であり、泰輝くんやおれ、塩沢さんには使い道がある、ってな。なら、こいつは襲ってこないはずだ」
だが、少なくともこちらに対する敵意を放っているのは事実なのだ。蒼依はその幼生を睨みながら固唾を吞んだ。
一方の幼生は、つり上がった双眼でアリスを睨む。
「あたしに対しては、違うだろうな」
そう口にして、アリスはあやかし切丸の柄に左手を添え、刃を自分の右横に立てた。
「きゃっきゃっきゃっきゃっきゃっきゃっ!」
悲鳴のようでもあり笑い声のようでもある声を上げた蜘蛛女が、左右の腕を交互に振り回しつつ、アリスに近づいた。糞尿のにおいがほとばしる。
「下がっていろ!」
アリスは振り向かずに怒鳴った。蒼依や泰輝、榎本に訴えたらしい。
素早い剣さばきで敵の攻撃を次々と弾き返すアリス――を見ながら、蒼依たちはあとずさった。
不意に飛び退いた蜘蛛女が、三メートルほどの間合いを取り、右の剣を水平に、左の剣を垂直に、それぞれ構えた。
蒼依たちは十メートルほども後退し、そこで足を止めた。
「くっ」と声を立てて、アリスが敵に向かって走った。
蜘蛛女の右腕が水平に振られた。
ほぼ同時にアリスは身を低くして前転し、蜘蛛女の足元で片膝の姿勢を取った。そしてあやかし切丸を横に振り、敵の左右の第一脚を切断する。
「ぎゃああああああ!」
鋭い悲鳴を上げた蜘蛛女が、左の剣を振り下ろした。
それよりわずかに早く、アリスはその姿勢から後方宙返りで飛び退く。その際に彼女は、あやかし切丸で蜘蛛女の額を切り裂いた。
紫色の体液がほとばしった。
蜘蛛女の二メートルほど手前に着地したアリスが、剣を構える両手を目の高さに上げ、剣の切っ先を蜘蛛女に向けた。
額から体液を吹き上げつつ、蜘蛛女がうつ伏せに倒れた。上半身と下半身とを繫ぐ関節が伸び、臀部は地面についている。長い髪と残った六本の足も地面にへたり込んでいた。
アリスはあやかし切丸の切っ先を下ろした。
「蒼依たちは無貌教のいいように利用され、あたしら陸自の特殊部隊隊員は葬り去られる。どっちにしても迷惑な話だ」
背中でそう言ったアリスが、こちらに向いて歩き出した。そして、落ちている鞘を拾うと、刃に付着した紫色の液体を振り払い、静かにその刃を鞘に収めた。
二体の死骸が湯気を立て始めた。
「行こう」と蒼依たちに諭したアリスが、背中を向け、歩き出した。
少女を背負う泰輝が、アリスを追うと、蒼依と榎本がそれに続いた。
今さらながら、蒼依は自分が疲れていることに気づいた。
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