第4話 霧を越えて ⑦
前方に雑木林が迫っていた。鬼のような姿の幼生はこの辺りで倒れたはずだが、すでにその死骸は跡形も残っていなかった。
アリスの後ろ姿を見つめつつ、榎本は不審に感じていたことを口にする。
「サブアームは携帯しているようだが、メインアームはその日本刀なのか?」
「そうだ。……特機隊や無貌教を知っているんなら、幼生っていうのも知っているんだろう?」
問い返されて、榎本は答える。
「知っているさ。さっきの鬼みたいなやつも、そうだと思う」
「なら、そいつらが並の武器では斃せないのも、わかるよな?」
「ああ。蒼依さんに教えてもらった」
榎本が答えると、アリスは小さく失笑した。
「うちらの小隊に限らず、特務連隊のメインの武器は、M4カービンをベースにしたカスタムライフルだ。あの鬼もどきを葬ったのも、そのライフルさ。撃ったのはあたしの仲間だけどね。……特機隊が使う拳銃やライフルは特殊な弾丸を充填しているけど、うちらの銃にもまったく同じ弾丸が採用されている。あたしも配属された当初は、そのライフルを装備していた。でも、あたしに剣術の心得がある、と知った隊長が、ある日、これを渡してくれたんだ」
言ってアリスは、左手に持つ日本刀――鞘に収まったそれを、かるく掲げた。
しかし、榎本は得心がいかない。
「それで幼生を斃せるのか?」
「これを実戦で使ったのは、つい数時間前……こっちの世界に来てからだが、これで一体の幼生を葬った。これもな、対幼生弾丸に使用されているのと同じ金属で、できているんだ」
「幼生を斃すための剣、ということか?」
「破邪の剣、というらしい。破邪の剣は三振りが存在し、これはそのうちの一振り……アヤカシキリマル」
さらにアリスは、アヤカシキリマルの表記が「あやかし切丸」であることを説いた。
「あやかし切丸……その剣自体もすごいが、それを使って幼生を斃すあんたも、常人の域を超えているな」
心強くもあるが、絵空事にも思えた。
「使いこなすしかないだろう。でなければ、こっちがやられるだけだ」
泰然とした口調だった。榎本はため息さえ出ない。
「蒼依ちゃん」
少女を背負ったままアリスの後ろに続く泰輝が、蒼依を呼んだ。
榎本の右を歩いていた蒼依が、小走りで泰輝に追いつく。
「この子、嫌がっているよ」
泰輝は言った。彼が「この子」と呼ぶくらいなのだから、この少女が瑠奈ではないのは確かなようだ。
「何を嫌がっているの?」
蒼依は少女ではなく、泰輝に問いかけていた。
確かに、少女は泰輝の背中でしきりに首を横に振っている。
「この先へ行くこと……みたいだよ」
泰輝の答えを耳にして、榎本は思う。少女はこの先の雑木林から、何かから逃げるかのごとく飛び出してきたのだ。ならばそちらへと戻るのは、歓迎できないに違いない。
「我慢してもらうしかないな。この先に行かなければ、元の世界には戻れない」
アリスが口を挟んだ。
「はい」
蒼依は答えた。
「でもね、この先にはお友達が隠れているよ」
泰輝の言葉にアリスは歩きながら横顔を向けた。
「どういう意味なんだ?」
「はっ」と蒼依が声を立てるのを聞いて、榎本は自分の鼓動が高まるのを悟った。
「幼生か?」
問いつつ、榎本は立ち止まった。自分が真っ先におののきを呈したそのことに、わずかな恥辱を覚える。
「幼生?」アリスが歩を止めて、振り向いた。「蒼依、あんたには……というか、泰輝にも、それがわかるのか?」
蒼依と泰輝も足を止めた。
「わかります」
アリスに顔を向けて、蒼依は答えた。
「もしかして、見鬼か?」
アリスに問われて蒼依は「はい」と頷いた。
「なら泰輝も見鬼なんだな?」
「いえ……あの……たいくんは……」
声が小さくなっていた。泰輝の正体を口にしづらいのは、当然である。
「まあ、いい」アリスは言った。「迂回するか、最悪の場合、あたしが戦うしかないな」
「可能なら、迂回しよう」
榎本は意見した。これ以上の犠牲は出てほしくない。
「当然だ」アリスは蒼依を見た。「幼生は、どの辺りにいる?」
「この林の奥で、やや左寄りです。距離は……よくわかりませんが、百メートルから二百メートルくらいかな」
蒼依の言葉を聞いて、アリスは雑木林に正面を向けた。そして彼女は、サングラスの右のテンプルに右手を当てる。
「確かに、センサーの圏外だな」
「それって……」蒼依はアリスの顔を凝視した。「センサーグラスですか?」
「そうだ。デザインこそ違うが、特機隊のものと機能は同じだ」
会話を耳にした榎本は、そのサングラスが対幼生センサーである、と推察した。加えて、アリスの言う「特機隊のもの」は尾崎恵美が所持していたサングラスもしれない、と推し量る。いずれにせよ、レンズの内側に情報が表示されるなど、スマートグラスと同じような仕組みなのだろう。
「もう少し右に進んでから林に入ろう。走ったほうがいいな」そしてアリスは泰輝に視線を移した。「その子を背負ったまま、走れるか?」
「うん。走れるし、飛ぶこともできるよ」
泰輝が答えたとたんに、蒼依が落胆の色を呈した。
「何それ?」
アリスが眉を寄せた。
「いや、飛んでおれたちより先に行ってもらったほうが、この女の子の安全性は高くなると思うが」
榎本は言った。
「泰輝って、飛べるのか? どういうことなんだ?」
問い詰めるアリスに、榎本は答える。
「泰輝くんは幼生なんだ」
蒼依が榎本にさげすみの表情を向けた。裏切った――と受け取られたかもしれない。
「幼生だ?」
声を上げるとともに、アリスは鞘を持つ左手――その親指で鍔を押し上げた。
そんな反応を予測していた榎本は、落ち着いて言う。
「泰輝くんはおれたちの味方だ。蒼依さんに懐いている。それはアリス、あんたにもわかるはずだ」
説かれたアリスが、泰輝を見つめた。そして榎本に視線を戻す。彼女の左の親指は、鍔から離れていた。
「わかった。信じよう。しかし、飛ぶのはだめだ」
「どうしてだ?」
「飛んだからって安全とは限らない。それに、そのままはぐれてしまえば、二度と会えなくなるかもしれないんだ」
「確かに……そうだな」
そしてアリスは「行くぞ」と告げ、先頭を切って走り出した。雑木林に向かって右の方向だ。
少女を背負った泰輝がそれに続き、榎本は蒼依とともに最後尾についた。全速力ではない。走る速度にはまだ余裕がある。
「四、五百メートルは走るぞ」
走りながらアリスが言った。
「蒼依さん、すまなかった」
自分の右を走る蒼依に、榎本は詫びた。
「気にしないでください」蒼依は言った。「考えてみれば、アリスにも知っておいてもらったほうがいいんです。この先、何が起こるかわからないし」
こちらを見つめる瞳に偽りはなさそうだ。
こんな緊迫した状況で得られた、大きな安堵だった。
「ありがとう」
榎本はそう告げて、正面に目を向けた。
走りながらも幼生の気配は感じていた。雄であることがわかったが、それ以外の状態は把握できない。雰囲気からすると、自分自身の気配を消そうとしているようだった。つまり、見鬼が――もしくは泰輝がいるとわかっていて、できる限り悟られないよう、息を殺して待ち伏せしている――と蒼依は推測した。
今のところ、雑木林の中の幼生に動きはない。この機会にできるだけ距離を取るべきだろう。ゆえに蒼依は、遅れを取らないように走った。
自分の左を走る榎本を、蒼依は一瞥した。彼に対するやましさは、しばらくは消えそうにない。皆が無事にここから脱出するために、彼は取りなそうとしていたのだ。それなのに自分は早合点してしまった。
――謝らなければならないのは、あたしのほうなのに。
だが今は、この世界から脱出することだけを考えなくてはならない。それに意識を集中するのだ。そうしなければ、結果的に瑠奈を救い出せなくなる。
不意に、蒼依の背筋を冷たいものが走った。
「林の中の幼生が動き出しました!」
走りながら、蒼依は叫んだ。
「来るのか?」
先頭を行くアリスが尋ねた。
「はい。こっちに向かっています」
蒼依が答えると、アリスが速度を落として泰輝を先に行かせた。
「蒼依、あんたが先頭を走れ」
蒼依と榎本との間に入ったアリスが、そう告げた。
「あたしがですか?」
「そうだ。あたしが、もういい、と言うまで走り続けろ」
そしてアリスは、最後尾についた。
榎本が蒼依に顔を向けて頷いた。
頷き返し、蒼依は泰輝を追い抜いた。
「たいくん、あたしについてくるんだよ」
先頭についた蒼依は、背中で言った。
「うん」
返事はすぐにあった。
背中のリュックが揺れるのを感じつつ、蒼依は走り続けた。
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