第4話 霧を越えて ⑥

「アリス」は英語圏やフランス語圏では高貴なイメージの名前だ。第一印象にそぐわないコードネームだが、命名の由来を訊いても、険のある声であしらわれるに違いない。榎本にその話題を持ちかければ、アリスの耳にも届いてしまうだろう。蒼依はその話題にはふれることを避けた。

「あの集落が現れたのは塩沢さんのおかげ、だと思いますか?」

 左を歩く榎本に、蒼依は尋ねた。

「どうかな……」

 首をひねった榎本とともに、蒼依は振り向いた。

 この位置から集落の家屋は確認できないが、霧はまだ消えていなかった。

「塩沢……あの半魚人もどきのことだな」

 アリスの声が割って入った。

 正面に顔を向けると、アリスが歩きながら顔を半分だけ向けていた。

「塩沢さんを知っているのか?」

 榎本が尋ねた。

「ああ」アリスは進行方向に顔を向けた。「さっき、メイスンにやられそうになっていたところを、あたしたちが助けた」

「塩沢さんは無事なんですね?」

 蒼依の質問にアリスは前を向いたまま頷く。

「あたしの仲間の二人とともに先行しているはずだ。で、塩沢のおかげで集落が現れた、というのは……どういう意味だ?」

「塩沢さんは」蒼依は答える。「あのメイスンという魔道士を締め上げて、集落を出現させる……そう言っていました」

「それはどうかな。ならばあたしの仲間も塩沢と一緒にメイスンを締め上げているはずだが……そもそもあたしたちは、魔道士など心得のあるやつしかあの集落を通り抜けられない、ということを知っている」

「じゃあ、あの集落が現れたのは、無貌教の罠ということですか?」

「やっぱり、無貌教のことも知っているんだな?」

「ええ……まあ」

 蒼依は曖昧に答えた。無貌教についての情報をアリスと共有してよいのか悪いのか、まだわからない。

「そして特機隊のことも知っている」

 それさえも持ち出されると、もう否定はできなかった。蒼依は「はい」と答えた。

「まあいいや。手間が省ける」アリスは言った。「罠として現れたのなら、あんたらをそこで永遠に迷わせるつもりだったのかもしれない。でも、勝手に現れたとも考えられる」

「勝手に現れる、ってどういうことなんです?」

「無貌教が手を下さなくても、あの集落はときどき……現実世界での神津山演習場のど真ん中に現れていたのさ。……演習場ができる前からだな。こっちの世界ではどうなっていたのか、知らないけどね」

「神津山についてはさんざん調べたんだがな」榎本が言った。「赤首に幻の集落が現れるだなんて、そんな噂は見当たらなかったぞ。立花が集めた情報にも、そんなのはなかったはずだ」

「榎本、あんたは確か、フリーのジャーナリストだったな?」

 アリスは背中で訊いた。そして彼女が榎本を本当に呼び捨てで呼んだことに、蒼依は動揺した。自分が呼び捨てにされるのはかまわないが、榎本はこの中では年かさに違いなく、さすがに同情を禁じえない。

「そのとおりだ。自己紹介の必要がなくて、助かる」

 蒼依の意に反して、榎本は平然と返した。

「塩沢から聞いておいた。あんたがその二人……空閑蒼依と神宮司泰輝とともに、神宮司瑠奈を救出するつもりでいる、ということだけはわかっている」

 こちらの名前を教えたのは塩沢だった、ということらしい。

「だが」榎本は言った。「取り戻したつもりでいた瑠奈さんが、本人ではないかもしれないんだ。……というより、蒼依さんによれば、似ているが別人らしい」

「塩沢はその着物の少女については一言もふれていなかったが……神宮司瑠奈とは別人かもしれない、というのはその子のことだな?」

 蒼依は塩沢の前で少女を「瑠奈」と呼んだ。それなのにあえて着物の少女について口にしなかった塩沢には、なんらかの意図があるのかもしれない。

「そうだ」榎本は答えた。「どこの誰かはわからないが、この子は足をけがしている。この子を連れていては、これ以上の危険は冒せない。だから……可能ならばこの世界から脱出して、特機隊に救いを求めるのが無難……と判断したわけだ」

「なるほど。それにしても」アリスは首を傾げた。「空閑と神宮司……か」

 アリスのその言いようが気になり、蒼依は問う。

「何か?」

「いや、なんでもない」

 はぐらかしている――と悟るが、蒼依は追及しなかった。かえってあの集落について聞けるかもしれない。今の話題から距離を置くのなら、アリスは口を軽くする可能性がある。

「アリスさん」

 蒼依は声をかけた。

「呼び捨てにしろと言ったはずだ」

 背中で諭された。

「ごめんなさい。……えっと、アリス」

 呼びづらいが、慣れるしかなさそうだ。

「なんだ?」

「さっきの集落についてです」

「うん」

 話を続けろ――という意味のようだ。そう解釈し、蒼依は口を開く。

「あなたたちは、あの集落がたまに赤首に現れる、ということを把握していたようですが、榎本さんも言ったとおり、あたしも、赤首に集落が現れる、という噂を聞いていません。あれって、本当はなんなんですか?」

「見たとおりだよ。昭和に無人と化して、やがて跡形もなくなった集落……なんだけど、最後のときの姿でよみがえった。そんなところさ」

 そうなのかもしれない。しかし、蒼依が知りたいのは、それではない。

 榎本が振り向いたのにつられて、蒼依も振り向いた。

 霧が晴れており、集落は消えていた。

 狼狽しつつも、蒼依は正面に向き直った。

「というか、あの集落がどうして現れるのか……それと、どうして、特機隊のことや無貌教のこと、あの集落が現れること、それらを陸自が知っているのか、あたしはそれを知りたいんです」

「いやあ……質問が続くねえ」

 振り向かないが、苦笑しているのはわかった。

「ごめんなさい」

 蒼依は恐縮した。

「謝ってばかりだな」

「はい、すみません」としつこく詫びたうえで、蒼依は自分が知っている範囲で赤首の噂を語った。そして、自分の知っている範囲は狭い、ということを強調し、それ以上の情報を要求した。

「わかったよ。答えるよ」アリスは白旗を揚げた。「まずは、あの集落がどうして現れるのか……それははっきり言ってわからない。だが、あの集落の建物は、どう見ても昭和の時代の民家だ。それも貧困層の建物だよ。貧困層であるかどうかは別として……そこをうろつき回っている首なしの服装は、近世以前の感じだよな。建物は集落の最後の様子を再現しているけど、生ける死人たちは時代劇さながらの格好ということだ。釣り合いが取れていない。その辺りに謎を解く鍵はありそうだが。……ああ、そういや」

 言いかけて、アリスは押し黙った。

「どうしたんです?」

「まあ、言っても問題ないか」

 アリスは独りごちた。

「問題がないんなら、お願いします」

「じゃあ、続けよう」アリスは話を繫いだ。「赤首という集落では、昔から高三土山の神を信仰していたらしいんだ。さっき蒼依が赤首の山賊について言っていたけど、そいつらがいた時代からだよ」

「高三土山の神って、まさか、飯綱権現……」

 蒼依の祖父が興した信仰だったはずだが、それ以前から赤首ではその信仰があった、ということになる。

「それはおれも知らなかったな」

 榎本がつぶやいた。

「そう、飯綱権現だ」アリスは言った。「天狗だな。数年前まで存在していた高三土神社でもその神を奉っていたし、無貌教もその神を崇拝している。飯綱権現は神仏習合の神として長野県や関東のあちこちで奉られているけど、高三土山の飯綱権現は淫祠邪教の神だったようだ。そんな神を崇拝していたから、さらし首にされたやつらは恨みを募らせてさまよい続けているのかもしれない……飯綱権現の霊力によってな。なら、集落自体に飯綱権現の力が作用している可能性も、あるかもしれない」

「そんな話を、陸自の特殊部隊隊員のあなたが、信じているんですか?」

 蒼依が問うと、アリスは失笑した。

「だってさ、赤首の集落や首なしのリビングデッドを実際に目にしているんだから、信じないほうがどうかしているだろう。そう言う蒼依は、信じていないのか?」

 背中で問い返され、蒼依は眉を寄せた。

「あたしだって、ずっと以前から、不気味なものを嫌と言うほど見てきました。今さら疑うなんて、そんなつもりは微塵もないです」

「それ、いいね」アリスは満足げに言った。「なら、もう一つの質問に答えよう。あの集落が現れるのをどうして陸自が知っているのか……」

「はい」

「あたしが所属しているのは、陸上自衛隊特務連隊特殊潜行第三小隊だ。でもその特殊潜行第三小隊がそれらの情報を突き止めたわけじゃない。陸自の諜報部が突き止めたんだよ。それも、極秘に進められた任務だ。特に赤首の事情については、特機隊よりも詳細な情報を入手しているかもね。それら集められた情報を元に、あたしたちは任務を遂行するんだ。無貌教を壊滅させるために」

「つまりあんたらは、対無貌教の特殊部隊、ということなのか?」

 榎本が尋ねた。

「そんなところだ。だから、無貌教の存在はもちろん、特機隊という警察の特殊部隊のことも知っているのさ。とはいえ、警察と自衛隊の関係なんて、あたしにはわからないけどね。とにかく、あたしたちは陸自の外郭部隊なんだよ」

「独立愚連隊みたいなものか?」

 榎本が重ねて問うと、アリスは肩をすくめた。

「どういうんだかわからないが、戦いのプロの集団であることは自負できる」

「エリートを集めたんですね」

 こびるつもりはないが、思ったままを、蒼依は口にした。

「陸自のほかの部隊から抜擢された隊員が多いけど、あたしはフランスの外人部隊にいたんだ。そこから引っこ抜かれた」

「もしかして、コードネームのアリスって、そのときに?」

 この機を逃すことなく、蒼依は尋ねた。

「そう」アリスは首肯した。「まあ、フランスの外人部隊時代につけられたニックネームなんだけどな。荒っぽい性格だから、逆説的につけられたんだ」

 そう答えてアリスは笑った。

 蒼依はコードネームの由来に得心すると同時に、一筋の光明が見えた気がした。戦いのプロ――それが本当ならば、瑠奈を救ってもらえるかもしれない。

「あなたたちは、このままこの世界から脱出するんですか?」

「そうらしいが」

「……らしい?」

「副隊長が決めることだからな」

 なぜ副隊長が決めるのか、それが釈然としないが、蒼依は話を先に進める。

「アリスが言ったとおり、あたしは友人の神宮司瑠奈を助け出すためにここに来ました。だから、ここを出て特機隊に救いを求める、という手立ても考えられるんですが……」

 たとえ戦闘のプロだとしても、危険な仕事を請うのは臆してしまう。

「救ってやりたいさ」

 こちらの思いを察したのか、アリスはそう言った。

 蒼依はアリスの次の言葉を待つ。

「でも、今も言ったとおりだ。副隊長が決めることなんだ」

「隊長はこの世界に来ていないのか?」

 榎本が尋ねた。

「一緒に来たんだが、化け物にやられた」

「なんてこと……」

 ほかにも犠牲者が出ていたのだ。蒼依は胸の痛みを感じた。

「隊長だけじゃない」アリスは続けた。「うちの小隊は十五人いたんだが、この世界に入ってから十二人が殺された。あたしのほかに、あと二人いるだけさ」

 蒼依は言葉を失った。そんな状況なら、無理強いなどできるはずがない。

 榎本も沈黙を守っている。

 空気を読んだのか、アリスも口をつぐんでしまった。

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