第4話 霧を越えて ④

 鬼が現れた場所から十分ほど歩いた。

「この辺だったと思うが……いずれにしても、少し休もう」

 先頭を歩いていた榎本が、そう言って足を止めた。

「そうですね」

 蒼依も足を止めた。榎本に賛同したわけは、ほかにもあった。前方の土が剝き出しの一角に、散らばる灰色のものを見たのである。

「闇雲に歩いてもしょうがないからな。適当に腰を下ろそう」

 榎本は灰色の残骸に気づいていないようだ。

「はい」

 そう返して、蒼依は泰輝に近づいた。

 泰輝は瑠奈を背負っていた。蒼依を神宮司邸から運んだときと同様に、彼は今回も、尋常でない力を発揮したのだった。

「たいくん、瑠奈を降ろすよ」

 一声かけた蒼依は、瑠奈を降ろすのを手伝った。そして、降り立った瑠奈を促し、彼女とそろってその場に腰を下ろした。その際に草にふれてみるが、表面の質感や湿った感じがあり、さらにはにおいを漂わせており、生きた草にしか思えなかった。土や小石にもふれてみるが、やはり、現実世界のものと何が違うのか、判別ができない。

 続いて榎本が雑草の上にあぐらをかくと、泰輝がそれをまねた。

「瑠奈、足、痛いよね? もう少し我慢してね」

 もう少しであるはずがない。先は長いのだ。しかし瑠奈はうつむいたまま嗚咽を繰り返しており、返事をしなかった。よほどの恐怖を味わったのだろうか。PTSDを経験している蒼依だからこそ理解できるのだが、それにしても、今の瑠奈から受ける違和感は拭いきれない。

「集落が現れてくれたら、いいんだがな」榎本は言った。「ただ、気になることがある」

「なんですか?」

 蒼依は話の先を催促した。

「集落がちょうどここに現れたとして」榎本は自分の目の前の地面を指さした。「その場合、ここにいるおれたちはどうなるんだろうか……と思ったわけさ」

「どうなる……って、どういうことですか?」

「あの集落には実体があった。なら、たとえば、おれが座っているこの場所に建物が現れたら、おれの体はその建物と融合してしまうのか、それとも入れ替わりにおれの体は別の次元に移されるのか……ということさ」

「ああ……」蒼依は頷いた。「現実世界でもこっちの世界でも、あの集落が現れた場所では雑草とか小石とか、なんらかの影響を受けそうですよね。だとすると、こちらの世界で集落が現れた場所には、なんらかの跡が残っているかもしれません」

 蒼依が言うと、榎本は周囲を見渡した。

「少なくとも、見える範囲には変わった形跡はないな。集落の現れた場所がここではないのか、もしくは、そこにあったものには影響を及ぼさないのか」

 表情を変えないところからすると、榎本には例の残骸が見えなかったらしい。

 それはさておき、蒼依は話を続ける。

「榎本さんが言ったもう一つの可能性、っていうのもありえるんじゃないんですか?」

「そこにあったものが、集落……というか集落の建物などと入れ替わりに別次元に移される……っていうやつ?」

「はい」蒼依は頷いた。「物質というか、空間ごと入れ替わるんです。それなら、融合するとか、ないですよね。そして集落が消えると、もともとそこにあったものが、また戻っている、という具合です」

 しかし榎本は首を傾げる。

「自分で口にした説だが、そう言われてみるとそうかもしれないし……実のところ、よくわからない」

「でも、融合する説もありえそうだから、それを考えるとなんとなく怖いです」

 本音を吐露した。朽ちかけた家屋と一体化するなど、想像するだけで背筋が寒くなる。

「万が一に備えて、もう少し下がろうか?」

 この期に及んで榎本は慎重になったようだ。

「ここは、集落が現れた場所よりも……というか集落の外れよりも、さらに外れていそうですよ」

 そして蒼依は前方を指さした。土が剝き出しの辺りだ。

「何かあるのか? やっぱり、集落が現れた痕跡がある……とか?」

「立てば見える、と思います」

 蒼依の言葉を受けて榎本は立ち上がり、そちらに目を向けた。そしてすぐに腰を下ろす。

「あれは、首なしの死体が崩れた跡だ」

「ですね」

 蒼依は頷いた。前進する必要が生じた場合は、あれを迂回するべきだろう。

「集落の現れた場所はあの向こうだった」榎本は言った。「ここで休んでいて差し支えない、という理由ができたわけだな。しかし、あの集落がまったく同じ位置に現れる、とは限らないぞ」

「そこまで考えたら切りがないです」

 などと返しつつも、その懸念は蒼依にもあった。

「確かにな」榎本は苦笑すると、瑠奈が飛び出してきた雑木林に顔を向けた。「あの幼生を斃した彼らのことも気になるな」

「そうですね。特機隊かどうかわからないですが、あの人たちはどこへ行ったのか……」

「同行してもらえれば心強いが、そもそも、おれたちの味方かどうかがわからない。塩沢さんの仲間、という線もありうるからな」

「考えてみれば、特機隊はFA0833に立ち入ることができない、ということですから、榎本さんの言うとおり、塩沢さんの仲間かもしれません。塩沢さんも姿をくらましてしまったし」

 いずれにしても、しばらくはここで休んでいたかった。瑠奈を落ち着かせる意味もある。

 蒼依は泰輝に目を向けた。彼は黙したまま遠くを眺めている。瑠奈を取り戻したのにこの冷めた態度はいかなるものか。

「ねえ、たいくん」

 蒼依は泰輝に声をかけた。

「なあに?」

 顔を蒼依に向けた泰輝だが、その口調には締まりがなかった。

「瑠奈がいるんだよ。うれしくないの?」

「うーん」小さくうなった泰輝が、蒼依の左に座る瑠奈を見た。「わかんない」

「何それ……」

 呆れたというよりは、恐れだった。

 蒼依は膝立ちで瑠奈の正面に移動した。

 うつむいたままの瑠奈は、嗚咽を繰り返している。

「瑠奈、顔を上げて」と告げ、蒼依は瑠奈の両頬に自分の両手を添えた。そしてその顔を上げさせる。

 涙ぐむ瑠奈が、蒼依を見つめた。日焼けしていない色白の肌は、間違いなく瑠奈のものだ。眉も目も鼻も口も、美しく整ったそれらは、ほかの誰でもない瑠奈の証しである。しかし――。

「違う」

 蒼依は言うと、瑠奈から静かに両手を離した。

 それでも瑠奈は、蒼依を見つめている。

「どうしたんだ?」

 榎本が問うた。

「この子、瑠奈じゃない」

 首を横に振った蒼依は、瑠奈から榎本に視線を移した。

 榎本は不審そうな色を呈している。

「これ以前におれが瑠奈さんを近くで見たのは昨日の朝だけだが、画像や動画で見たあの子と、変わらないようだぞ」

 画像や動画は、特機隊を調べている中で撮影したに違いない。それはそれで厳しく諭さねばならないが、今の問題は、この瑠奈なのだ。

 蒼依は瑠奈に視線を戻した。

 悲しみと恐怖で占められた視線を正面から浴びながら、蒼依は言う。

「瑠奈はポニーテールにしていました」

「ポニーテールをほどいたんだろう」

 榎本の口調は、当然である、と訴えていた。

「いいえ」蒼依は否定した。「ポニーテールにするために、髪を以前より少し短めにしていたんです。この髪は、以前の長さです」

「え……」

 榎本は言葉を詰まらせた。

「それに、この顔は若いんです。高校生のころの瑠奈……というより、まるで中学生のころの瑠奈なんです」

 榎本どころか、言われている本人さえ反応はなかった。泰輝も、じっとこちらを見ているだけである。

「あなた、誰なの?」

 蒼依は目の前の瑠奈――否、瑠奈とうり二つの少女に、そう問いかけた。

「あ……」少女がわずかに口を開いた。「あ……あ……」

「言葉が話せないの?」

 再度、問いかけた。

 しかし少女は、「あ……あ……」と繰り返すばかりだ。

「たいくん」蒼依は泰輝に顔を向けた。「この子、瑠奈じゃないの? あなたのお母さんじゃないの?」

「お母さんかもしれないし……お母さんじゃないかもしれないし……でも、お母さんのにおいはするよ」

「どういうこと?」

 疑問を呈して、蒼依は少女に顔を向けた。

 少女は声を出すのをやめたが、表情に変化はなかった。相変わらず涙を浮かべている。

「あたしの言葉が理解できたら、頷いてみて。あたしの言葉、わかる?」

 蒼依は少女に詰め寄った。

 しかし少女は、わずかに首を傾げ、ついには涙をこぼしてしまった。

 蒼依は思わず少女を抱き締めた。

「ごめん、もういいよ。もういいからね。ごめん」

 少女は泣くばかりで、やはり言葉を口にしない。

 瑠奈にそっくりの別人なのか、もしくは瑠奈が若返ったのか。いずれにせよ、真相は何もわからない。わからない――のだが、この少女をほうっておくなど、蒼依にはできなかった。もっとも、この少女が瑠奈とは別人であるとすれば、大きな問題がある。

「現実世界に戻れない……そう考えているんだろう?」

 そう問われ、少女を抱き締めたまま、蒼依は榎本に顔を向けた。

「榎本さん……」

「その子が瑠奈さんでなければ、本物の瑠奈さんはとらわれたまま、という可能性があるわけだ」

 自分の気持ちを代弁された蒼依は、榎本に告げる。

「榎本さん、お願いがあります」

「その子を連れて逃げてくれ、ってか?」

 そこまでお見通しとは思わなかった。

 少女を抱き締めたまま蒼依が目を丸くすると、榎本は肩をすくめた。

「その子の安全を確保する、という意味では理解できるが、君を置いていくわけにはいかない。それに、あの集落が現れないと意味がないしな」

「集落が現れたら、この子を連れて帰ってくれますか?」

「そのときは君も一緒だ」

「あたしは瑠奈を助けに行かないと……だって、このまま帰ったら、ここまで来た意味がないじゃないですか」

「意味はあるさ」榎本は言った。「特機隊にこれまでのことを報告するんだよ。そして、特機隊にこの世界に入ってもらう。おれも証言する。特機隊と直接に会ってもかまわないさ」

「ここはFA0833なんですよ。特機隊が立ち入ることのできない土地であることは、榎本さんも知っているじゃないですか」

 蒼依は訴えた。

「だがここには、無貌教のやつらがいる。ならば、さすがの特機隊も禁忌破りができるかもしれない」

 可能性の問題ということだろう。今でさえ、赤首の集落が現れるか否か――などというあるかどうかわからないチャンスに賭けているのだ。そのうえで、さらなる不確実な可能性に賭けるのは、気が遠くなるほどの決意が必要である。

 しかし今の蒼依には、それよりも気になることがあった。

「榎本さん、どうしてそこまでしてくれるんですか? 立花さんの意趣返しなら、特機隊と接触した時点でかなわなくなりますよ。それどころか、特機隊が榎本さんに何をするかわからないし」

「特機隊に対しては担保がある……というか、そもそも、捨てたも同然の命だからな」

「そんなこと、言わないでください」

 もう赤の他人ではないのだ。志をともにしているのだから、そんな捨て鉢な態度は見過ごせない。

「それに……」榎本の表情が穏やかになっていた。「立花の無念を晴らしたい気持ちは、ここに来て……あいつの最期を塩沢さんから聞いてさらに強まったけど、死んだ人間の恨みを晴らすより、生きている人間を救うほうが大事なんだと、たった今、気づいたんだ。気づいた……というか、目が覚めた」

 何がきっかけがあるのだろう。蒼依はそれが知りたかった。

「たった今?」

「君は、その子が本物の瑠奈さんじゃない、と気づいても、ずっと優しく接しているじゃないか。おれはこれまで、そういうことを知らずに生きてきた。特にこの仕事に就いてからは、目の前で死にそうな命があれば、救うよりも記事のネタにする……そんなつもりでいたからな。こんな追い詰められた状況でなければ気づけないなんて、情けない」

 少女は少しだけ落ちついたようだ。少なくとも嗚咽はやんでいる。

 蒼依は少女から体を離し、彼女の涙を片手で優しくぬぐった。

「たぶん」蒼依は榎本に向き直った。「榎本さんはずっと前から、生きている人を大事に思っていたんです。でなければ、たとえ目的が別にあろうとも、昨日の朝、あんな状況下であたしたちを幼生から救い出したりしません」

「そう……なのかな」

 つぶやいた榎本は、わずかに顔を赤くしていた。

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