第4話 霧を越えて ③
榎本の前には、左に蒼依、右に泰輝がつき、さらにその二人の前――先頭はカイトだった。塩沢はまたしても最後尾である。
夏の暑さが感じられないのは不自然だが、当たり前のように太陽が輝き、当たり前のように息ができ、当たり前のように草と土を踏み締めながら歩いているのだ。そんな「当たり前」を不自然に感じ、榎本はカイトに声を投げかける。
「ここにあるものは全部、本物なのか?」
歩きながら蒼依が振り向くが、すぐに前に向き直った。
「ここにあるもの……って?」
歩調を崩すことなく、カイトは背中で問い返した。
「おれたちを取り巻く環境のすべてだ」
榎本は説いた。
「ここの世界を構成する要素としては本物だが、現実世界から見れば偽物かもな」
答えになっているようだが、榎本には理解できなかった。
「よくわからないな」
「つまりだ」カイトは言った。「ここの太陽も紫外線を放っているし、重力は一Gだし、空気の成分は知ってのとおりだし……でもまあ、大地を構成する土や石ころ、群生している植物も、まがいものだよ。虫や蛇や鳥や犬や猫など、動物は存在していないし。まあ、微生物や細菌とかは、おれたちやあんたたちが持ち込んでいるはずだけどな」
歩きながら、榎本は自分の足元を見下ろした。土も雑草も、踏み締めた感触や見た目は、現実世界のものと変わったところはない。
顔を上げた榎本は、またしても問う。
「太陽やこの大地など、天体は本物だということなのか?」
「違うな。例えば、ここの太陽はここの昼間を作る元となっているが、恒星ではなく、どちらかといいえば象徴として、天空の中央に固定されている。その輝きは十二時間ごとに強くなったり消えたりするんだ。消えたら消えたで星空も見えるしね。それらも、本物とは呼べないけどさ」
「なら、偽物じゃん」
蒼依が吐き捨てた。
「それでもこの世界では、太陽であり、星々なんだよ」
じれったそうに、カイトは返した。
「方角なんてなさそうだな」
塩沢が割って入った。
「確かに、方位磁石なんて持ち出しても、針はぐるぐると回るだけだよ。でも便宜上の方角は設定してある。今、おれたちが向かっている方角は、北、ということにしてある」
「じゃあ、重力は?」蒼依が問うた。「ていうか、別の世界なんだから、地球とは別の惑星、ということなの?」
「太陽や星々が象徴ならば、この大地も惑星じゃなということだ。非常に広い世界だけど、現実の世界と違って限りはある」
「ファンタジーものの異世界みたいだ」
榎本は憫笑をこらえた。
「そんな感じかもな」カイトは平然と返した。「重力も空気も植物も大地も、ここのものは神が作り上げたんだ。そしてそれらを維持するのも、神の偉大なる力なんだよ」
ならばファンタジーというよりは神話だろう。榎本はそう思いつつも口に出さずにおいた。
「この世界の出入り口として、さっきの集落を用意したんだな?」
塩沢だった。
「用意したんじゃなくて、利用させてもらったのさ」
「どういうことだ?」
塩沢はその問題に執着するが、カイトは「あそこを通れば、あんたらでもこっち側に入ることができるわけだ。それだけのこと」とあしらった。
不意に蒼依がリュックを前に待ち換え、何かを取り出した。彼女がリュックを抱えながら左手に持ったのは、スマートフォンだった。
彼女が何を試みようとしているのか、榎本にはわかった。そしてそれが無駄な行為であることも、予測できた。
スマートフォンの画面を操作し始めた蒼依だが、しばらくするとそれをリュックに入れ、そのリュックを背中に背負った。
「蒼依さん、どうした?」
予測はできたが、念のため、榎本は蒼依の背中に尋ねた。
「圏外でした。ネットも繫がりません」
榎本も気になり、ボディバッグを正面に回してスマートフォンを取り出した。圏外であるのはすぐにわかった。自分の足元にレンズを向けてボタンをタップすると、撮影は問題なくできた。スマートフォンと入れ替えにデジタルカメラを出し、同じように試してみるが、結果は変わらなかった。
「とりあえず、通信は不可能ということだな」
デジタルカメラをボディバッグに戻しつつ、榎本はそう告げた。言い換えれば「撮影は可能、取材も可能」となるわけだが、欲を出せばろくな目に遭わないような気がした。それよりも、この期に及んでの仕事など蒼依に対して面目が立たない、という気持ちのほうが大きい。
「はい」と蒼依が答え、短い会話はそれで終わった。
それを聞いていたのだろう、カイトが失笑した。
雑木林が目の前に迫っていた。クヌギやナラだろうか――榎本には見極められないが、そういった木々が生い茂っていた。無論、偽りの木々である。
「うん?」と漏らしてカイトが立ち止まった。続く四人も足を止める。
「ここでいいのか?」
上から目線で榎本が問うと、カイトが顔を半分だけ向けた。
「イレギュラーだ」
その答えを聞いて榎本は息を殺した。
カイトにとってのイレギュラーがこちらにとっては吉なのか凶なのか――それが判然とせず、安易な期待はできなかった。
何がイレギュラーなのか、理解できないでいるのは蒼依だけではないはずだ。とはいえ、カイトは雑木林のほうを見て立ち止まったのである。蒼依はその雑木林に目を向けた。
程なくして、雑木林の暗がりから何かが飛び出した。
一人の少女だった。白い着物をまとっており、長い黒髪を振り乱している――が、彼女はカイトや蒼依たちを見るなり、目を見開いてその場で立ち止まった。
「瑠奈!」
蒼依は声を上げた。救い出さなければならない当人が、今、目の前に立っているのだ。
見れば、瑠奈は裸足だった。その足は傷だらけであり、血が流れていた。
「瑠奈を返してもらう!」
カイトを一瞥した蒼依は、瑠奈に近寄ろうとした。
しかし、瑠奈は「ひっ」と声を漏らして蒼依たちから見て右のほうへと走り出してしまう。
「待って!」
蒼依は追いかけようとするが、そうするまでもなく、瑠奈は足をもつれさせてうつ伏せに転倒した。
すぐに追いつき、蒼依はしゃがんで瑠奈の上半身を抱き起こした。
「瑠奈、あたしだよ。蒼依。ね、たいくんも一緒。もう大丈夫だよ」
声をかけるが、瑠奈は驚愕の表情で首を横に振るばかりだ。
「大丈夫……ね。大丈夫かどうかわからないが、とにかくあんたたちには、この先へ行ってもらう」
カイトは淡々と述べた。
「行くもんか。瑠奈を連れて帰るんだ」
蒼依はカイトに言い放った。
「いいのかなあ。その子を連れて帰ったって意味はないんだぜ。ていうか、あんたたちを帰すわけないじゃん」
不敵な笑みを浮かべたカイトが、蒼依と瑠奈に近づこうとした。
「おまえと同行するのはおれだけだ」
言いつつ、塩沢がカイトの前に立ちはだかった。
「へえ……なんのまね?」
立ち止まったカイトが、首を傾げる。
「榎本さん、二人の女の子とその少年を連れて、さっきの場所へ走ってくれ」
カイトと対峙したまま、塩沢は言った。
「しかし」榎本が塩沢を見た。「あの集落がなければ外へは出られない」
「偶然にも現れるかもしれない。いや、こいつを締め上げて、あの集落を出させるさ」
そう告げる塩沢に向かって、カイトが肩をすくめる。
「無謀だねえ。おれにかなわないこと、もうわかっているじゃん」
「そのとおりかもな。だが、おれはそれほど実直なやつじゃないんだよ」
言うが早いか、塩沢は口から大量の液体を吐き飛ばした。口内からというよりは、喉の奥からあふれ出させたようだった。
「うぐっ」と声を漏らしたカイトが、両手で顔を覆い、五メートルほど後方へと飛び退いた。そして、両手で顔を覆ったまま片膝をつく。どうやらその液体が顔にかかったらしい。
「急げ!」
塩沢が振り向いて怒鳴った。
「はい」と答えた榎本が、右手で泰輝の左手を取った。
蒼依も同様に瑠奈の左手を取り、強引に立ち上がらせる。瑠奈は裸足のままだが、選択の余地はない。
走り出す直前に、蒼依は塩沢を見た。
筋骨隆々とした彼が、左手でカイトの胸ぐらをつかみ上げ、右手でその顔を殴るところだった。
「榎本さん、草ばかりですが、さっきの場所、わかりますか?」
瑠奈の右手を引きながら、蒼依は尋ねた。
「なんとなくだけどな。でも集落が現れたら、すぐにわかるはずだ」
泰輝の右手を引く榎本が、そう答えた。
蒼依は懸念を口にする。
「でも、集落が現れなかったら」
「そのときは、行けるところまで行くさ」
榎本の言うとおりだろう。とにかく、敵から離れることだけを考えなければならない。
それにしても――と蒼依は別の懸念があることを悟った。瑠奈の様子である。走りながら、瑠奈の顔を見た。
息を荒らげる瑠奈は、つらそうな表情を浮かべていた。その顔を見ているうちに、蒼依は違和感を覚えた。
地面の凹凸が蒼依の足をもつれさせた。
「あっ」と声を上げたときには、蒼依は瑠奈とともに転倒していた。
「大丈夫か?」
泰輝の手を取ったまま、榎本が腰をかがめて蒼依を覗いていた。
「あたしは大丈夫です」
答えて上半身を起こした蒼依は、瑠奈の手を離してしまったことに気づき、彼女を見た。
瑠奈は立ち上がったところだった。しかし彼女は、蒼依には一瞥もくれず、周囲を見渡すと、赤首の集落があったと思われる方向へと、走り出した。
「待って」
声をかけながら立ち上がった蒼依は、雄の幼生の気配を感じた。欲情と敵愾心が蒼依の脳を揺さぶる。
糞尿のにおいがほとばしった。
次の瞬間――。
走る瑠奈の正面に、巨大な何かが空から降り立った。
地響きが伝わり、土砂が飛び散る。
巨大な何かを目の前にして、
鬼に見えた。少なくともその巨軀の上半身は鬼である。もっとも、蒼依が以前に目にした鬼――初めて目にしたハイブリッド幼生は、前頭部に二本の角を生やしていたが、この鬼の角は前頭部の中央に一本だけだった。しかも下半身は大蛇の胴ではないか。
「あの化け物も幼生なのか?」
榎本がつぶやいた。
へたり込んでいる瑠奈は、青っぽい灰色の巨軀を見上げたまま動かない。
鬼の右のこぶしが振り上げられた。
「瑠奈あああ!」
叫けんだ蒼依は、気づけば走っていた。躊躇などしていられなかった。
振り下ろされるこぶしの下で瑠奈がへたり込んでいる。
銃声が鳴った。機関銃なのか、連続した銃声だ。しかも、減音処置は施されていないらしく、かなり大きな音だった。
こぶしが振り下ろされる途中で、鬼の頭が後方に砕け散った。
頭部を失った巨軀がゆっくりと横に倒れていく。
蒼依が瑠奈の元にたどり着いた直後に、鬼の体が横倒しになった。
「瑠奈」
声をかけると、瑠奈は蒼依に顔を向けた。大きく見開いた目に涙が浮かんでいる。
「もう大丈夫だよ」
蒼依は瑠奈の正面で膝をつくと、彼女を抱き締めた。
嗚咽を漏らす瑠奈も、蒼依の背中を抱き締める。
瑠奈を抱き締めたまま、蒼依は見た。雑木林の中を右から左へと走り抜けるいくつかの人影があった。さらにその流れで視線を移し、塩沢とカイトの姿がないことも知った。
「この化け物は銃で撃たれたらしいな」
榎本が歩いてきた。彼の後ろには泰輝が続いている。
「状況からすると」蒼依は榎本を見上げた。「銃弾はあの林のほうから放たれたようです。それに、塩沢さんとあのメイスンとかいう男がいません」
蒼依の横で立ち止まった榎本が、振り向いた。
「あの二人、どこへ消えたんだ」
「林の中には、ほかに人がいました。複数、いたみたいですが」
「そいつらが銃を撃ったのかもしれないな。ということは、少なくとも無謀教ではない、ということらしいが……いずれにしても、神の子供をやっつけられるとはな」
「純血は不死身ですが、ハイブリッドは脳を破壊されると絶命します。でも、並大抵の銃弾ではハイブリッドの肉体は破壊できません」
「人間の血が混じっているぶん不死身ではないが、特殊な銃弾が必要とされる、ということか。まさか、特機隊か?」
「そうかもしれません」
早計であると知りつつも、特機隊が救援に来てくれた、と蒼依は思いたかった。
「それにしても、ひどいにおいだ」
榎本は顔をしかめた。一方、この悪臭の中で、泰輝は平然としている。むしろ、彼としては当たり前の反応なのだが。
「幼生の体から湯気が立っている」
榎本は言った。
見れば、確かに鬼の体から湯気が立っていた。
「この幼生の体が崩壊しているんです。もう少し立つと、跡形もなくなります」
「その過程は見たくないな。このにおいもあるし、先へ進もう」
促した榎本は、草地の彼方に目をやった。
頷いた蒼依も、そちらに顔を向ける。
その方角の彼方には、雑木林と山並みが小さく見え、集落らしきものは見当たらない。
それでも蒼依は立ち上がり、そして、泣きじゃくる瑠奈を立ち上がらせた。
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