第4話 霧を越えて ②

 真紀と陸上幕僚長との通話が済んで三十分以上が過ぎた。進展はなく、管制室に重い空気が沈殿していた。

 陸上自衛隊特務連隊特殊潜行第三小隊の隊員全員が二日前にFA0833で消息を絶った――真紀が陸上幕僚長から伝えられた状況だ。陸上自衛隊としてはその事件を公表しておらず、また、当面は捜索もおこなわないらしい。

 十五人からなる特殊潜行第三小隊は、外殻部隊である。腕利きを集めたエリート部隊であるはずだが、「正体不明の敵との交戦中」という通信が特務連隊本部に入ってすぐに、連絡が途絶えたのだ。三週間の予定での演習に入ってわずか二日目の出来事だった。

 数分前には三上らの操る特機隊専用ドローンからの空撮の映像が送られてきたが、電波の状況が悪いらしく、すぐに画面は乱れてしまった。三上から連絡が入り、機器の調整をしてから捜索を再開するという。

 小野田はさすがに立ち疲れ、部屋の隅で椅子に腰を下ろしていた。セキュリティシステムが一新される以前の立哨では、この程度の時間は立ちっぱなしだったはずだ。日々鍛えているはずだが、肉体の衰えを感じてしまう。

「会長」

 佐川の向かいの席に着く恵美が、うなだれたまま腰かけている真紀に声をかけた。

「え……」と真紀が顔を上げた。

「本宅でお休みなられてはいかがですか? ゆうべから一睡もしていないのでは?」

「大丈夫……横になったところで、眠れるわけなんてないし」

 真紀はそう答えるが、どう見ても、彼女がこの中で最も疲労の色を浮かばせていた。

「なら、隣の会議室で休まれては?」小野田は提案した。「そこなら何かあればすぐに声をかけられるし、それに当分はそこを使う予定はありません」

 考える様子を呈した真紀が、すぐに小さく頷いた。

「そうね……そうさせていただきます」

「わたしが毛布を取ってきます」

 言って恵美は立ち上がった。

 小野田も立ち上がる。

「おまえは負傷している。座っていろ。おれがやる」

「いいえ、わたしが行きます。隊長が席を外してどうするんですか」

 落ち着いた口調だが、諫められたほうとしては立つ瀬がない。

「二人ともいいから」真紀が苦笑しつつ立ち上がった。「自分でできます」

「毛布の場所、わからないと思いますが」

 恵美はそう返した。

「言ってもらえれば、自分で……」

「一緒に行きましょう」

 言うが早いか、恵美はドアに向かって歩き出していた。

「わかりました」答えた真紀は、小野田に顔を向ける。「小野田さんはここでの指揮を」

「会長にも尾崎にも逆らえません」

 小野田が肩をすくめた直後、彼のスーツの内ポケットで着信音が鳴った。すぐに内ポケットからスマートフォンを取り出し、画面を確認すると、三上からだった。

 恵美と真紀は立ったまま、佐川は席に着いた状態で、それぞれが小野田に視線を向けた。

「どうだ?」

 通話状態にするなり、小野田は問うた。

「ドローンが落とされました」

 三上は告げた。

「なんだと」

「センサーグラスには一体の幼生の反応がありました」

「現在の幼生の動きは?」

「今は反応がありません」

「池田は?」

 たたみかけるように小野田は質問した。

「フェンスのほうに行っています。連絡をしましたが、無事でした。それから、池田はフェンスの裂け目を見つけたそうです」

「裂け目……蒼依ちゃんたちはそこから入ったのか。……とにかく三上と池田が無事で何よりだ。それにしても、こちらの動きを把握されているようだな。池田を呼び戻し、すぐにそこから離れろ」

「離れるんですか?」

 拒否をにおわせる語勢だった。

「幼生は何体いるかわからない。それに敵に目をつけられているんだ。上君畑の集落で待機してくれ。特機隊本部に応援を要請してみる」

「わかりました」

「急げ」と伝えて、小野田は通話を切った。

 三人ぶんの視線は沈黙を守っていた。通話の内容を知りたいのだろうが、急を要するゆえに、説明は持ち越すことにした。

 小野田はスマートフォンのアドレス帳を開いた。


 榎本が首なしから距離を置きたいのは、蒼依にも理解できた。だが、道案内の背中は霧に隠れてしまいそうである。見失えば、この集落から永遠に抜け出せないかもしれない。

「榎本さん、もうちょっと距離を詰めたほうがいいんじゃないんですか?」

 控えめに促した――つもりだった。

「だったら、君がこのポジションにつけばいい」

 完全なる逆ギレだった。

 それでも蒼依はこらえる。

「見失わなければ、それでいいんですけど」

 塩沢の体臭、かびのにおい、血のにおい――この渾然一体となった臭気だけでも正気を失いかけているのだ。可能な限り穏便に済ませたかった。

 ふと、最後尾の塩沢が早歩きで蒼依と泰輝を追い抜いた。異様な歩き方のままでの早歩きだ。

「いい加減にしろ」

 声を荒らげた塩沢が、榎本のシャツの襟をつかみ、いとも簡単に彼を道端に放り出した。

 地面を転がった榎本が、すぐに立ち上がった。

「何をするんだ!」

 怒鳴りつつ、榎本は塩沢に詰め寄った。

「おれがあれのあとに続く」

 榎本に一瞥もくれず、塩沢は異様な歩き方のまま、首なしの背中に続いた。

「あんたなあ!」

 声を張り上げた榎本は、塩沢の背後でこぶしを振り上げた。その右腕に、蒼依はすがりついた。

「やめてください。こんなことをしている場合ですか?」

「そういうことだ」

 振り向きもせずに、塩沢は言い放った。

「ああ、そうですね!」

 捨て鉢ぎみに言い放った榎本は、右腕を下ろすと蒼依の手を振り払い、歩調を落として最後尾についた。

「あたしが悪かったんです。榎本さん、ごめんなさい」

 歩きながら振り向き、蒼依は榎本に詫びた。

「いや」うつむき加減に榎本は言った。「おれが大人げなかったんだ。かえってすまなかったよ」

 榎本が口を閉ざすと、蒼依もそれ以上は言葉にせず、進行方向に顔を向けた。

 こんな悶着があったにもかかわらず、泰輝は動揺のかけらさえ見せなかった。歩調も首なしに合わせている。

 不意に、左の家屋の陰から一体の首なしが歩み出た。状態を反らせたそれは、やはり全身を震わせながら、塩沢の後ろをかすめて右のほうへと歩いていった。

 塩沢にも見えたに違いないが、彼に動じた様子はなく、それは泰輝も同じだった。とはいえ、蒼依としてはいきなり目の前に現れたのだから、当然だが、心臓が止まる思いだった。それでも声を立てなければ歩みを止めることさえなかったのは、精神に疲弊している、という証しなのだろう。

 首なしに導かれてどれほどの距離を歩いただろうか。距離感だけでなく、時間の感覚さえ失いかけていた。腕時計を見ると午前六時五十八分だった。この集落に入ってから時間を確認するのは初めてである。時間計測の起点を設定しておかなかったことを、蒼依は悔やんだ。

「蒼依ちゃん」

 右を歩く泰輝が口を開いた。

「どうしたの?」

「もうすぐこの霧から出られるよ」

 泰輝の言葉を耳にした蒼依は、前方に目を凝らした。

 霧が薄らいでいた。左右の家並みが途切れているのが、見て取れる。

「やっと出られるな」

 後ろで榎本がつぶやいた。

 草地が見えた。その先には雑木林や山並みがある。

 霧が晴れた。

 道案内のあとに続いてきたが、ほぼ直線上を移動したにすぎない。脇道には入らず、大通りらしい道をひたすら歩いたのだ。道案内など必要なかったのでは――蒼依がそれを口にしようとしたとき、「お疲れさん」とカイトの声がした。

 土が剝き出しの一角だった。

 足を止めた塩沢が右に正面を向けた。

 蒼依も立ち止まり、右を見る。

 泰輝と榎本も歩を止めた。

 右の草むらの中に、カイトが立っていた。彼は右手に何かを提げていた。

「その前に、道案内をねぎらわないとな」

 カイトの言葉を受けて、蒼依は首なしのほうに顔を向けた。

 首なしは目標を見失ったのか、狭い範囲で何度も向きを変えては行ったり来たりを繰り返していた。

「ほら」

 カイトは右手に提げていたものを前に掲げた。

 男の生首だった。それは目を見開き、口を半開きにしていた。そのざんばら髪を、カイトの右手がつかんでいるのだ。

 蒼依は何も言えず、ただ立ちすくみ、震えた。

「かわいそうだよなあ」カイトは言った。「体は自分の頭を永遠に探し続け、頭も自分の体を永遠に求め続ける。でも体には、判断する頭がなければ見るための目もないから、自分の頭がそこに落ちていても気づかない。一方の頭は、自分の体がそこで動いているのを目にして判断できるが、追いかけることもつかまえることもできない。だから、自分の頭を欲する体に、頭がここにある、とささやいてやったのさ。体の中にも記憶があるんだよ。それに直接訴えたのさ。さあ、長い苦しみから解放してあげよう」

 口述を終えると、カイトは生首をほうった。

 生首は首なしの胸に当たって地面に落ちた。とたんに首なしは歩くのをやめ、這いつくばり、手探りで生首を見つけると地面にひざまずいたまま、それを両手で持ち上げた。

 蒼依は見た。逆さにもたれた生首が、両目を見開いたまま笑うのを。

 そして首なしと生首は、一瞬で灰色のちりと化し、土の上に崩れ落ちた。

 蒼依だけでなく、塩沢も泰輝も榎本も、その一部始終を見ていた。

「どうせ低俗な手品だろう」

 言った榎本は、カイトのほうに向き直り、自分の言葉に得心がいかないかのごとく首を横に振った。

「どう思うと勝手だが、少なくともさっきの建物は実体だっただろう。それらが、ほら」

 カイトに諭されて、四人は集落のほうに顔を向けた。

 そこには霧も家並みも砂利道もなかった。とてつもなく広い草地と、その向こうに雑木林や山並みがあるだけだ。

「集落や霧が消えただけじゃないな?」

 塩沢がカイトに問うた。

「太陽が真上にある!」

 異変に気づいた蒼依は口にした。腕時計を見ると午前七時一分だった。時間が飛んだわけではなさそうだ。加えて、暑くも寒くもないという体感温度であることも知る。

「二人ともさすがだ」と短い拍手をし、カイトは続ける。「特機隊で言うところのFA0833……ここはそのとある一点に起点を置いて作られた不連続時空間だ。士郎様が神の力を借りて作った世界だよ。……あんたらがさっきまで存在していた現実世界からは不可視の空間であり、逆にこちらからあちらをみることも不可能だ。同じように世界を隔てれば、見鬼や魔道士が、もう一方の世界にいる幼生を感じるのだって不可能なんだ」

「違う世界ということは、霧に包まれることなくあのまま歩いていたら、ここにはたどり着けなかった……ということなのか?」

 尋ねたのは榎本だ。

「理解力があるねえ」カイトは感心したように頷いた。「よく見なよ。似たような景色だけど、ちょっと違うだろう。太陽が真上にあるだけじゃないんだぜ。高三土山も黒田山もない。それにどこまで進んでも、山や野原ばかりで、街なんてないんだ。違う世界なんだからな」

 その言葉を聞いた蒼依は、東――と思えるほうに目をやった。しかし黒田山の位置を把握していなかっため、黒田山がないのが事実なのか、確認はできなかった。

「現実世界なら、この辺りから高三土山や黒田山……どちらの頂上も窺えるんだけどな」

 蒼依の様子に気づいたらしく、カイトはそう付け加えた。

「空間が重なっているんだ」

 どうにかつかんだ印象を、蒼依はつぶやいた。

「ほう」

 感心したようにカイトは頷いた。

 蒼依はカイトに向かって眉を寄せる。

「結界とは違って、あたしたちが住んでいる世界とはまったくの別世界であるわけね」

「大学生ともなると洞察力があるね。それとも、もともと物理とかに興味あり?」

 にやつくカイトを、蒼依は睨んだ。実際には物理が不得手、というわけもある。

「あんたに褒められてもうれしくない」

「勇ましいね。女にしておくのがもったいない」

「性差別だ」

「そんなことはないさ。おれはただ、女を愛せないだけだ」

「あ、そう」

 この話題を続けるつもりはなく、蒼依はカイトから目を逸らした。

「まあ、いいか」カイトは肩をすくめると、自分の背後を振り向いた。「向こうに見える林の中に、目的地がある」

 その雑木林までは、この位置から四、五百メートルはありそうだった。

「まだ歩くのか」

 榎本がそうこぼすと、カイトがこちらに向き直った。

「そういうこと。目的地に着けば、蒼依ちゃんが会いたがっている瑠奈ちゃんがいるよ」

 一番知りたいのはそれなのだ。思わずカイトに顔を向けてしまう。

「瑠奈は無事なの?」

「もちろんさ。彼女にはこれから大事な仕事をしてもらわなければならない」

 大事な仕事というのが代理出産ならば、まだ何もされていないということだ。しかし、気になる件がもう一つあった。

「この四人全員で行ってもいいんだよね?」

「もちろんだ」カイトは言った。「蒼依ちゃんは瑠奈ちゃんにその気になってもらうための人質だ。あとの三人は、それぞれ使い道がある。だからこそ、塩沢さんにはあそこでおとなしくしていてもらったんだよ。手が空いたらこっちへ連れてくるはずだったんだが、塩沢さんのほうから来てくれて、助かったぜ」

 理由は気に入らないが、少なくとも、あとしばらくは四人で行動することができそうだ。

「なら、立花は使い道がなかったから殺された、っていうことか?」

 榎本がカイトに食ってかかった。

「そんなこと、訊かなくてもわかるじゃん」カイトは呆れたように返した。「あんたは確か、立花さんと同じフリージャーナリストの……榎本さんだったな」

「おまえたちにも名前が知られていたわけか」

 榎本はそう吐き捨てた。

「ということは、特機隊にも知られていたのかい?」

 問われたが、榎本は悔しそうに顔を背けた。

「まあ、いいや」不敵な笑みを浮かべたカイトが、背中を向け、歩き出した。「ほら、行くぞ」

 握りこぶしを上げかけた榎本だが、その手を下ろし、塩沢を見た。

「仲間を殺された気持ち……塩沢さんの気持ちが、わかりましたよ」

「そうか。……お互いに、こらえよう」

 塩沢は静かに告げた。

「行きましょう」

 皆を促して、蒼依はカイトの背中に続いた。

 泰輝がすぐに蒼依の右についた。

 榎本と塩沢もあとに続いているのが、足音で認識できた。

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