第4話 霧を越えて ①

 戸数は二十から三十だろうか――霧の中にたたずむ集落は、異様なまでに静まり返っていた。

 榎本が先頭を歩いた。その後ろを蒼依と泰輝が横に並んで続き、塩沢は最後尾だ。四人はその集落の端へと差しかかった。

「なんだこの家々は……」

 足を止めた榎本が、言葉を詰まらせた。

 榎本以外の三人も立ち止まる。

 どの家屋も平屋で板葺きの屋根であり、外壁も板壁だった。玄関らしき引き戸は概ねがガラス戸だが、ひびが入っているか割れているかだ。しかも、そのほとんどが朽ちかけているといった状態だ。傾いていたり、穴だらけだったり、中には完全に倒壊している家屋もあった。昭和という時代のなれの果て――そんな趣だった。

「幻ではないと思いますが……」

 答えを求めて、蒼依は建物以外にも目を配った。

 目の前に延びている通りは未舗装であり、一部には砂利が敷いてあった。車のタイヤの跡らしき轍が目立つが、かなり古いらしく、溝のパターンが確認できない。一方で、人の足跡は見当たらなかった。道幅は十メートル近くもあり、この集落の大通りと思われた。

 かび臭かった。その異臭が塩沢の体臭と混交し、蒼依は目がくらみそうだった。

「幼生の気配は?」

 榎本が蒼依に尋ねた。

「えっと……」

 意識を集中するまでもなく、泰輝以外の幼生の気配は後方の三方に位置していた。三体とも、こちらとの距離を少しずつ縮めている。

 蒼依がそれを説くと、塩沢が「選択肢は一つだな」と告げた。

 黙して頷いた榎本が、集落の中へと進み出した。四人は隊列をそのままに、左右に廃屋が並ぶ通りを進む。

 幼生の気配は相変わらずだが、自分たち四人以外に人の姿はなかった。聞こえるのは、土を踏み締める四人ぶんの足音だけだ。

 榎本は前後左右を確認しながら、ゆっくりと歩いていた。それに続く蒼依も、同じように周囲を警戒した。

 視界を狭める霧が、さらには肌に湿気を与えており、気温はわずかに下がったものの、不快指数は確実に上がっていた。

 歩きながら小石を拾った榎本が、それを右に放り投げた。小石は家屋の板壁に辺り、乾いた音を立てた。

「ちょっと、榎本さん」

 蒼依は焦燥の声を上げるが、榎本は前を向いたまま肩をすくめた。

「地面の小石もぼろい建物も、虚像ではないね」

「確かにそうみたですが……」言いかけて、蒼依は眉を寄せた。「もしかして、これが赤首の集落?」

 生かじりの知識だが、そうと結びつけるのが妥当のように思えた。

「そういえば、君はそんなことを言っていたな」

 歩きながら、榎本は言葉を挟んだ。

「江戸時代の赤首には山賊が潜伏していた、という話があります」蒼依は続けた。「でも、ついに山賊の一味は役人たちによってとらえられ、とらえられた全員が打ち首の刑に処されました。そしてそれらの首は、山賊たちの里でさらされたんです。首がさらされた土地だから赤首と呼ばれるようになった、と言われています。赤首には老人や女子供ばかりが残され、おかげで彼らの子孫は絶えることがなかったんですが、時代が移り変わるとともに住民は減っていき、三十数年前には無人の集落となりました。これはあたしが高校生時代に聞いた話で、都市伝説の一つです。だからどこまでが事実なのかはわかりませんし、これにまつわることはもっとあったような気がするんですが、あたしが知っているのは、これだけです」

「十分に気味の悪い話だよ」

 周囲を見回しながら榎本は告げた。一つの集落が突然現れた、という状況も加味しての言葉だろう。

「その集落は現在でも家屋が残っている、という話はないのか?」

 問うたのは塩沢だった。

「廃屋でも残っていればそれなりの噂話が出てきそうでが、そんな話は耳にしたことがありません」

 後ろの塩沢に、蒼依は前を向いたまま答えた。

 ふと気づき、蒼依は足を止めた。

 泰輝も立ち止まった。もとより彼は、蒼依に合わせただけらしい。

「どうした?」

 塩沢のその言葉で、先頭の榎本も足を止め、そして振り向いた。

「幼生の気配が、ありません」

 厳密には、泰輝が放っている気配だけは残っている。

「見逃してもらったとは思えないが」

 眉を寄せた榎本が、そう言った。

 蒼依は振り向き、周囲に目を走らせている塩沢の背後――通り過ぎた道を見る。

「あれを見てください」

 蒼依が訴えると、塩沢もそのほうに顔を向けた。

 深い霧のために程度は計り知れないが、道の両脇に並ぶ家屋の数が明らかに増えているのだ。どこまでも遠く連なっている――。

「追い立てる幼生はいなくなったが、戻る道もこんなありさまだ」塩沢はそう言って、こちらに向き直った。「あちらさんのご指定の位置に着いたのかもしれない」

「塩沢さんの言うとおり、ってなわけだ」

 声がした。男の声だ。

「誰だ?」

 塩沢がやや強めに声を上げた。

 蒼依と榎本も周囲に目を走らせた。泰輝だけが、所在なげに足元を見下ろしている。

「ここだ」

 呆れたような声は、高い位置から聞こえた。

 最初に見上げたのは泰輝だった。

「蒼依ちゃん、そこ」

 泰輝の視線を追って、蒼依も見上げた。

 進行方向に向かって右――すぐ目の前の家屋だった。その屋根の上で一人の若い男が腰を下ろしている。

「無貌教の者か?」

 そう問うた榎本も、男を見上げていた。

 男は二十代だろうか――パーマのかかった髪は金色であり、顔の掘りは深い。日本人なのか外国人なのか、蒼依には見極められないが、両耳に派手なピアスが下がっているのは見て取れた。

「カイト・ウォーカー・メイスン」

 塩沢が男を見上げながら口にした。

「知っているんですか?」

 疑惑の目で塩沢を一瞥した榎本は、すぐに男に視線を戻した。

「こいつは、おれの仲間を何人も殺した男だ」

「そんな紹介の仕方ってないぜ」

 顔をしかめたその男――カイトが立ち上がった。灰色のタンクトップに迷彩柄のカーゴパンツという出で立ちだった。

「確かに、おれはカイト・ウォーカー・メイスン」カイトは言った。「お察しのとおり、無貌教の者だ」

 そしてカイトは、不敵な笑みを浮かべた。

「瑠奈を返して!」

 思わず、蒼依は叫んだ。

「ぶっ」とカイトは噴き出した。

 そのふてぶてしい態度が許せず、蒼依はカイトを睨む。

「何がおかしいの!」

「だってよう、せっかくさらったのに、返せ、って言われたって返すわけないじゃん。えーと、なんていうやつだったかな……そうそう、矢作だ。あの矢作隊員の死を無駄にしてはいけないな」

 言ってカイトは、神妙な面持ちを呈し、矢作の死を悼むかのごとく静かに目を閉じた。

「殺しておいて何を言うのよ!」

 蒼依が怒りをぶつけると、不意にカイトは目を開けた。

「あっはっはっはっはっはっ!」

 高笑いが霧の中に響いた。

 蒼依の肩が震えた。小石を投げた榎本を諫めたばかりの蒼依だが、今は自分がカイトに石を投げつけてやりたい気持ちだった。

「本当にこいつが塩沢さんの仲間たちを殺したんですか?」

 そう尋ねた榎本が、カイトに顔を向けたまま塩沢を横目で見た。

「本当だ」塩沢は答えた。「こんなチャラそうな男だが、山野辺士郎に次ぐ魔道士であり、しかも見鬼だ。おれたちの仲間が束になってかかっても、かなわなかった。おれたちの隠れ家を奇襲したのは数人だったが、実際に手を下したのは、こいつ一人だった」

「そうだ」カイトは不敵な笑みを浮かべた。「塩沢さんはおれを恐れて当然だ。あんな光景を見せつけられたんだからな。あ……いや、恐れるというよりは絶望か。そうそう、絶望だ」

 そしてカイトは、またしても噴き出した。

「言わせておけば」

 表情の変化を確認するのは難儀だが、塩沢が憤りを呈しているのは明らかだった。

「でもな」カイトは言った。「もう絶望せずに済むかもな。これからおれが言うことに、あんたらは従えばいいだけだ。そうすれば、絶望が希望に変わ――」

 その言葉が終わらないうちに、塩沢が飛び跳ねた。人間業とは思えないほどの――そして、足を引きずるような歩き方をしていたとは思えないほどの、大跳躍である。そのひとっ飛びで、塩沢はカイトの真正面へと躍り出た。

 塩沢の右手のこぶしがカイトの胸を突く――はずだった。

 そこにカイトの姿はなく、屋根に着地した塩沢は右の鉄拳と両足によって屋根板をぶち抜いてしまう。

 塩沢は腰の辺りまで屋根板にはまり込むが、両手を屋根板につけてそこを抜け出そうともがき始めた。

「あんな行動は、いただけないよなあ」

 蒼依の耳元で声がした。

 振り向くと、目の前にカイトが立っていた。

「きゃっ」と声を上げる間もなく、蒼依は左腕を後ろ手にとらえられ、首にナイフを突きつけられた。空いている右手でカイトの右手をとらえるが、ナイフを遠ざけることはかなわない。

「あんたは覚えていないかもしれないけど」カイトはささやいた。「前にも士郎様によってこんなふうにされたんだってな。高三土山の頂上でね」

 カイトの言うとおり、蒼依にその記憶は残っていない。しかし瑠奈の話によれば、確かに山野辺士郎によって取り押さえられ、ナイフを突きつけられたらしい。

「あなたたちのやることは同じ、ということだね」

 恐怖よりも屈辱のほうが大きかった。ゆえに命乞いなどできるはずがない。

 榎本も悔しそうだが、何よりこの状況では手出しができないのは当然だろう。泰輝に至っては、状況を把握しているのかしていないのか呆然とこちらを見ているだけだ。

「希望を与えてやる、って言っているんだから、憎まれ口はよせよ」

「矢作さんを殺して、瑠奈を誘拐して、憎まれて当然じゃん」

「それがおれたちのやり方なんだから、しょうがないさ。それより」カイトは自分の顔を蒼依の顔に近づけた。「あんた、いいにおいがするな。香水か? それとも、これが女の子の体臭なのかな?」

「ふざけんな!」

 一声浴びせて、蒼依は顔を背けた。

 カイトは失笑し、顔を離した。

「怖がらなくても大丈夫さ。あいにくとおれは女子には興味がないんだ。おれの恋人は士郎様だけだからな」

 その言葉で蒼依の背中に冷たいものが走った。

「蒼依さん、よけろ!」

 叫んだのは榎本だった。

 だが、何が起きたのか把握できなければ、どうすればよいのか即座には思いつかい。

 そんな蒼依を、カイトは突き飛ばした。

 転倒した蒼依が上半身を起こすと、蒼依とカイトが立っていた位置で、塩沢が片膝を突いていた。彼の右手のこぶしが地面にめり込んでいる。

「塩沢さん、蒼依さんを巻き込む気か?」

 しかし塩沢は、榎本の言葉を無視して立ち上がった。

「若造が消えた」

 そうこぼしつつ、塩沢は周囲を見回した。

「悪あがきはよすんだな」

 カイトの声がした。もっとも、姿は見えない。

「どこだ!」

 声を上げた塩沢が、戦いの構えを取った。

「それに蒼依ちゃんを傷つけるわけにはいかないんだ。塩沢さんよ、むやみやたらに暴れないでくれよな」

 霧の中から聞こえているらしいが、どの方向からなのか、見当もつかない。同時に、気安く「ちゃん」づけで呼ばれたことに、蒼依はいら立った。

「ふん」鼻を鳴らした塩沢が、構えを解いて蒼依に顔を向けた。「すまなかった。あんたを傷つけるつもりはないんだが、理性を失ってしまった」

「いえ……けがはしていないし、問題ないです」

 答えて蒼依は立ち上がった。とはいえ、動揺は禁じえない。この塩沢というナリカケは、理性を失えば見境がなくなるのだ。しかもこの強靱な肉体である。おそらく、あのフェンスの穴は彼が作ったのだろう。

 手の汚れとジーンズの汚れとを払いつつ、蒼依も周囲に目を走らせた。

 榎本も警戒を続けている。

「じゃあ、本題に入るとする」霧の中から声がした。「ここはまだ目的地じゃないぜ。もう少しだけ、歩いてもらう」

「どこへ行けと言うんだ?」

 榎本が霧に向かって尋ねた。

「道案内はいるさ」

 答えが返された。

「なんかいるね」

 あちこちに目を配りながら、泰輝が言った。

 蒼依は「幼生なの?」と問いつつも、泰輝以外に幼生の気配が感じられず、すぐに「違うね」と首を横に振った。

「泰輝くんの言うとおりだな。何かがいる」

 そう言ったのは榎本だった。彼は自分たちが歩いてきたほうを窺っている。

 蒼依と塩沢もそちらに目をやった。

 霧の中にいくつかの影がうごめいていた。人の姿のように見えた。

「こっちにも」

 今度の言葉は泰輝だ。彼は道の左右に目を走らせている。

 見れば、家屋と家屋との間――狭い路地に、やはりいくつかの姿があった。

「出口を知らないやつらだが、動かすのは簡単だ」

 カイトの声だ。

 来た道の先――霧の中から、その一体がゆっくりと近づいてきた。

 人であるには違いないだろう。しかしその姿を目にして、蒼依は「ひっ」と声を上げてしまった。

 それは半臂と股引を身に着けていた。装いは上下とも浅葱色だ。体型を見れば男のようだが、首がないのだ。

「死人を操っているのか?」

 声を落とした塩沢が、さすがに狼狽したのか、一歩、脇へと退いた。

 全身をわずかに震わせる首なしは、足を引きずりながら塩沢の前を通り過ぎた。

「死人じゃないさ」カイトの声が返ってきた。「あんな姿なのに、死ねないのさ」

 言葉の意味が理解できないまま、蒼依も横へとのいた。そして、泰輝の腕を引く。

「たいくん、あれに近づいちゃだめだよ」

 この首なしによって泰輝が痛めつけられる、という事態はないだろうが、泰輝がこれと接するのが、蒼依にとってはただただ不快なだけなのである。

「うん」

 力のない返事だった。

 先の三人と同じように道を空けた榎本は、自分の前を通り過ぎる異形を、見開いた目で見送った。

 首なしの頸部は鋭利な刃物で切断されたらしく、切り口には脊柱や食道が見えた。そこから鮮血がにじみ出ている。

 塩沢の体臭、かびのにおい、血のにおい――蒼依は吐き気をこらえるので精一杯だった。

「さあ、彼についていくんだ」

 有無を言わせない調子で、カイトが指示した。

「冗談だろう?」

 榎本が顔をしかめた。

「早くしないと、あれの仲間に取り囲まれちゃうぜ」

 そしてカイトは笑った。

 見れば、霧の奥にうごめいていたそれぞれが、こちらとの距離を詰めていた。それらのどれにも首がないのが、はっきりと確認できた。

 迷っている余裕はない。蒼依は榎本を促す。

「行きましょう」

「あ……ああ」

 答えた榎本は、塩沢に顔を向けて頷いた。

 塩沢も頷き、「行こう」と告げた。

 首なしは自分のペースを維持していた。速くはないが、こちらを待っている様子でもない。

 四人は元の隊列で道案内のあとに続いた。

 朽ちかけた集落は、霧の中でどこまでも続いていた。

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