第3話 FA0833 ⑦

 蒼依と泰輝が並んで先頭を歩いた。榎本はそのあとを歩き、塩沢は最後尾だ。

 日差しが東の山並みの上から四人を照らしていた。気温は上がる一方であり、榎本の額に汗がにじんだ。

 榎本が歩きながら振り向けば、塩沢は五メートル以上の距離を置いていた。古き印を嫌ってのことのようだが、自分の体臭のひどさを気にしている、という理由もあるかもしれない。とはいえ、塩沢の体臭は十分に届いていた。

 それにしても――と榎本は思う。塩沢の歩き方だ。やはり裸足だからか、もしくはけがが癒えていないのか、片足を引きずるのだ。しかも、引きずる足が不規則に左右のいずれかに入れ替わるのである。歩行時に腕を小さく振る、というのも異様だった。

 ひどい体臭と異様な歩き方に気が滅入りそうになり、榎本は正面に顔を向けた。それでも全身に力が入らないのは、哀惜の念が抑えられないからだ。

 折れそうな心に活を入れ、どうにか足を前に進めた。見得を切ったが、救い出すべき友人はもうこの世にいないのだ。現状では、塩沢が虚言を口にした、とは思えない。だが、泰輝と塩沢という人外のものはさておき、蒼依をほうって引き返すのも気が引けて当然だろう。危険であるのはここに来る前から承知している。フリージャーナリストにしては人がよすぎるかもしれないが、この娘の心意気を、榎本は無視できなかった。

 ――この仕事に向いていないのかもな。そろそろ潮時か。

 やはり弱気になっていた。今の仕事を否定的にとらえるからこそ、こうやってなんの徳にもならないことに手を貸しているのではないか――否、と榎本はかぶりを振る。無貌教の実体を突き止める、という意気込みは偽りではない。

 ――筋合いがある、っていうことだな。

 小さく頷き、再度、歩きながら振り向いた。

 塩沢は距離を保っていた。視線がどこを向いているのかはわからないが、顔は正面に向けられている。かぶりを振ったり頷いたり、といった所作を見られたに違いないが、笑いたければ笑うがよい――そんな気分だった。

 榎本は正面に向き直った。

「無貌教も意外な行動に出るものだ」後ろで塩沢が言った。「わざわざ陸自の演習場に潜伏するんだからな」

「ここが陸自の演習場であることを、塩沢さんは知っていたんですか?」

 背中で尋ねた。

「下調べはしてあるさ」

 答えを聞いて「なるほど」とつぶやいた榎本は、生臭さが強くなったことに気づいた。

 振り向こうとすると、自分のすぐ左に魚もどきの横顔があった。

 榎本が息を吞むのと同時に、その魚もどき――塩沢が口を開いた。

「蒼依さんの様子が変だ」

「え?」

 生臭さに耐えながら先の二人に目をやった。

 蒼依が歩きながら、肩をすくめたり、頭に手を当てたりしている。彼女の右を歩く泰輝は、そんな様子を気にするふうでもなかった。

「声をかけてやったほうがいいんじゃないのか?」

 榎本に託す、という意味だろう。自分の体臭を気にしての言葉らしい。

 一方で榎本は、やはり自分も塩沢に観察されていたに違いない、と得心した。

「そうします」

 答えた榎本は、蒼依の元へと走り寄った。


 この暑さの中で不意に寒気を感じ、夏風邪でも引いたのか、と勘ぐった。しかしその症状はすぐに引いてしまい、蒼依は歩みを止めずにすんだ。

「大丈夫か?」

 左から声をかけられた。榎本がすぐ横を歩いていた。

「え……ええ、大丈夫です」

 少なくとも今は、問題ない。

「いろいろあったから、疲れているんじゃないのかな……まあ、疲れさせる要因の一つが、おれではあるんだろうけど」

「榎本さんには感謝しているんです。昨日の朝だって榎本さんに助けられたし、今日だってここに連れてきてもらいました」

 事実ではある。そう思えるようになった自分に、感心さえした。

「蒼依さんにねぎらってもらえるのはうれしいんだが……」

 榎本は言葉を濁した。

「それに、立花さんを救い出すことがかなわない、とわかったのに、榎本さんはあたしたちに同行してくれました」

「そうか」榎本は言った。「とにかく無理はしないでくれ。残された目的は、瑠奈さんを救い出すことだ。しかしそのためにも、自分たちがへたってしまっては意味がない。慎重にやろう」

「わかりました」

 榎本の言うとおりだ。ここまでの苦労を台なしにするわけにはいかない。なんとしても瑠奈を救い出すのである。

 榎本が再度、蒼依らの背後へと下がった。それを目で追うと、塩沢がやや遅れぎみに歩いているのが、視界に入った。塩沢は足を引きずるような歩き方だが、それも成体に近づいている証し、という可能性がある。真紀から聞いた話によれば、深きものどもは跳ねるようにして進むらしい。

「あのね、蒼依ちゃん」

 歩きながら、泰輝が口を開いた。

「何?」

 蒼依は泰輝に顔を向けた。

「お友達が近づいているよ」

 その言葉を耳にして、蒼依は思わず足を止めた。

 泰輝も立ち止まる。

 振り向くと、こちらの様子に気づいたらしく、榎本も立ち止まった。その榎本の隣で、塩沢が立ち止まる。

 またしても、寒気が蒼依を襲った。泰輝の言葉におののいたのではない。遠くから届く気配に、蒼依の体が反応しているのだ。

 蒼依は榎本と塩沢――その背後に視線を飛ばした。

 今度の寒気もすぐに治まったが、気配は強くなっていた。殺気をほとばしらせる一体の何かだ。泰輝が放つ気配とは異なる、悪意のある気配だ。

「榎本さん、塩沢さん、後ろのほうから幼生が近づいています。先を急ぎましょう」

 言って蒼依は、泰輝の左手を引くなり走り出した。

「ぼくは戦わなくていいの?」

 手を引かれながら、泰輝は問うた。

「まだ……だめ」

 今の泰輝にそんな力が発揮できるのか、蒼依は懐疑的だった。相手がハイブリッド幼生であれば泰輝が斃される心配はないが、善戦するとは思えない。

 走りながら振り向けば、榎本と塩沢が同じペースであとに続いていた。榎本が塩沢の少し前に位置している。

 はるか後方から迫り来る悪意は、体をくねらせ、塩沢の体臭など比べものにならない悪臭を放っている――そんなイメージが蒼依の脳裏にへばりついていた。

 左右の藪と雑木林がさらに遠のいた。

 広漠とした草地だった。大人の背丈ほどもある雑草が一帯を覆っている。

 草むらの間に道は続いており、顔に当たりそうにな雑草があればそれを左手で払いながら、蒼依は泰輝の右手を引いて走り続けた。後方から二人ぶんの足音が途絶えずについてきているが、あの気配もさらなる後方から追ってくる。

 息が上がりそうだった。額の汗が目に入り、視界がにじみ始めた。

 悪意に満ちた巨軀が、距離を詰めていた。ゆえに、立ち止まることはおろか、速度を落とすことさえできない。

 ――もう無理。

 蒼依が足を止めようとした、そのとき。

 不意に気配が消えた。

 立ち止まった蒼依は、泰輝の左手を離し、前屈みになって深呼吸を繰り返した。

「蒼依さん」

 追いついた榎本が、蒼依に声をかけた。

 見れば、その後方で塩沢も立ち止まっている。

 どうにか息が落ち着いたところで、蒼依は上半身を起こして泰輝に顔を向けた。

「たいくん、お友達は?」

「いなくなっちゃった」

 周囲を見渡しながら、泰輝は答えた。もっとも、背の高い雑草のおかげで、見晴らしは悪い。山並みと雑木林が遠くに見えるだけだ。

 蒼依は榎本と塩沢に正面を向けた。

「あたしも、たいくんと同じように感じました。迫っていた気配が消えたんです」

「君は見鬼だったが、覚醒はしていなかったはずだ」塩沢が口を開いた。「つまり、覚醒した、ということなのか?」

「覚醒したとすれば、塩沢さんに出会うちょっと前……FA0833に入ってからです」

 蒼依が答えると、塩沢はわずかに首を傾げた。

「ここに来てからの覚醒なんて、できすぎていやしないか?」

「山野辺士郎の魔術による覚醒、と思います。彼の声が聞こえましたから」

「やつの仕業か」塩沢は得心したように言った。「とすると、この草原に誘い込むために蒼依さんを覚醒させたのかもしれないな」

「幼生に追い立てさせたわけか。だから、やつにとって都合のいい場所におれたちが着いた時点で、気配が消えた」

 榎本が話を繫いだ。

「なら、ここで何が起こるんでしょうか?」

 誰に尋ねるでなく、蒼依は言葉にした。

「おれたちを殺すだけなら、とっくにしていたはずだ」

 答えたのは榎本だ。

「おれの境遇も同じだ」塩沢が言った。「痛めつけられ、古き印で拘束されたが、殺されはしなかった」

「やつらは何を企んでいるんだ?」

 疑問を吐き捨てながら、榎本は周囲に目を走らせた。

 日差しが照りつける中、蒼依は次の行動をどうするべきか、策していた。先へと進むか、引き返すか、この場にとどまって敵の出方を見るか――。

「おい」

 榎本が声を漏らした。

「あんまりいい感じじゃないな」

 そう言って、塩沢が辺りを見渡している。

 蒼依も気づいた。周囲の山並みの麓――雑木林がかすんでいるのだ。

「霧だ」と告げたとたんに、蒼依は再び悪意を感じた。自分たちが来たほうと、東と西、すなわち、三方を囲まれてるらしい。

 泰輝がそれらの方向に視線を走らせている。

「やっぱり、お友達?」

 蒼依の問いに泰輝は「うん」と答えた。

「南と東と西……三体います」

 蒼依は榎本と塩沢に言った。

「先に進んだほうがいいみたいだな」

 そう返した榎本が、道の先を見やるなり、顔をこわばらせた。

「あれは……」

 声を潜めた塩沢が、道の先を呆然と見ている。

 そちらに顔を向けた蒼依は、目を見開いた。

 広がりつつある霧の中に、いくつかの建物があった。

「何……どういうこと?」

 蒼依は自分の膝が震えているのを知った。

 先ほどまで雑草しかなかったそこに、何軒もの家が並んでいるのだ。

 三方の気配が同時に距離を詰め始めた。

「三体の幼生が、近づいています」

 蒼依は報告した。意見を聞きたいわけではない。行動を促しているのだ。

 榎本と塩沢が頷いた。

「行きます」

 そう告げて蒼依が歩き出すと、泰輝がすぐに右に並んだ。

 榎本と塩沢も続いて歩き出す。

 日差しが弱まった。

 見上げれば、空も霧に覆われていた。

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