第3話 FA0833 ⑥

 自分ははたして見鬼として覚醒したのだろうか――そんな疑念が蒼依をさいなんだ。見鬼であること自体はうれしくも誇らしくもないが、覚醒したのならば誰かの役に立てるはずだ。それなのに何も感じないのだから、歯がゆくて当然である。

 瑠奈は不可視状態の幼生を視認することができる。しかし彼女は、気配を感じる能力を開花させていない。もしかすると自分も瑠奈と同じレベルの見鬼かもしれない――と蒼依は思った。または、覚醒していないかだ。

 泰輝は左の藪に顔を向けたまま動かなかった。自分の状態に鬱屈している場合ではない。

「幼生がいるの? ハイブリッド? 純血?」

 蒼依は尋ねた。幼生ならば、一刻も早くここから離れるべきだ。先を急いだほうがよいだろう。だが、とらわれている者――瑠奈がいるのであれば、そちらに向かう必要がある。

「ううん」泰輝は蒼依に顔を向け、首を横に振った。「お友達でも兄弟でもない」

 それが事実であれば、蒼依が覚醒している可能性はまだ残っている、ということだ。

「お友達とか兄弟、って?」

 口を挟んだ榎本を、蒼依は見る。

「お友達というのはハイブリッド幼生のことで、兄弟は純血の幼生のことです」

「ああ……なんとなく理解できたよ。じゃあ、幼生じゃない何かがいる、ということなのか?」

「ですね」答えた蒼依は、泰輝の顔を見つめる。「ねえ、たいくん。何がいるのか、わかるの?」

 泰輝は再び藪に顔を向け、首を傾げた。

「うーん……人間かもしれないし、人間じゃないかもしれないし」

 全身から力が抜けそうだった。それでも蒼依は気を取り直し、対応策を考える。

「そっちへ行ってみよう」

 唐突に榎本が口にした。

「何がいるのか、わからないんですよ」

 正当なる意見だと自負した。しかし、道の先に行くことを提案されても、蒼依はそれに意見しただろう。

「泰輝くんの感覚を当てにするなら、幼生ではなさそうだ。それに人間である可能性があるんだろう? 立花や瑠奈さんかもしれない。当然だが、無貌教のやつらだということもありうるわけだが」

「仮に敵だとしても、人間相手ならどうにかなるかもしれません……よね」

 少なくともその心構えはできていたのだ。だからこそ、蒼依はそれを榎本に伝えた。

「そのとおりだ」

 言って榎本は、バッグから一本の大きめのスパナを取り出した。そのスパナを右手に提げた榎本が、藪を押し分ける。

「いざとなった場合に泰輝くんが戦えるかどうか、わからない。おれが先に行く」

「おじちゃんが負けそうなときは、ぼくが戦うよ」

 そう宣言しつつ、泰輝が榎本の背中に続いた。

「負けそうになる前に戦ってくれると、助かるんだがな」

 榎本は苦笑しているらしい。

「たいくん、戦いになっても、相手が人間だったら、殺してはだめなんだよ」

 泰輝に続く蒼依は、念のために忠告した。敵との戦闘を遊びと思っている泰輝なのだが、その攻撃には手加減がないのだ。

 泰輝からの返答はなかったが、先を行く榎本が、理解できない、とばかりにかぶりを振った。

 藪をかき分けて進んだのは一分弱だった。

 雑木林の手前の切り開かれた狭隘な場所であり、その一角に、雑木林を背にして一棟の小屋がある。

 三人は小屋の五メートルほど手前で立ち止まった。

「この中に何か、いるのか?」

 小屋を見ながら榎本が尋ねた。無論、それは泰輝に向けられた問いだろう。蒼依は泰輝の言葉を待った。

 小屋は木造であり、高さが五メートル弱、幅と奥行きは六、七メートルだ。こちらに向いた開口部は縦も横も二メートル強であり、扉はない。とはいえ、小屋の中は暗く、この位置からでは様子を窺うことは困難だ。

 わずかに生臭かった。

「いるよ」

 そう答えて、泰輝は前へと歩き出した。

「たいくん」

 蒼依は止めようと手を伸ばしたが、それが届くよりも泰輝が離れるほうが早かった。

 開口部で足を止めた泰輝が、中を覗いた。

「やっぱりいた」

 そう言って、泰輝は振り向いた。けだるそうな表情に変化はない。

「蒼依さんはここにいていくれ」

 榎本が歩き出した。彼の右手にあるスパナは先端が上を向いている。

「あたしも行きます」

 反駁した蒼依は、榎本に並んだ。

 認めるでもなく拒むでもなく、榎本は黙して歩いた。

 蒼依は歩きながら周囲の地面に目を走らせた。武器になるようなものを探すが、簡単に折れそうな細い枝が何本か落ちているだけだった。

 榎本ともに開口部で足を止めた蒼依は、さらに強くなった生臭さに耐えながら、小屋内の暗闇に目を凝らした。

 床はなく、一面が土間だった。何もない空間――と思いきや、正面の奥に目をやると、壁に背中を当てて両足を投げ出す、という姿勢で座り込んでいる男がいた。両目を閉じており、息をしているかどうかもわからない。身に着けているのはスラックスだけであり、上半身と足先は剝き出しだ。筋骨隆々とした体型である。それだけなら、問題はなかった。

 榎本が「人間なのか?」とつぶやいた。

 男の容貌はまるで魚であり、禿頭ということに加えて眉までもが存在せず、年齢を推測することが困難だった。こちらに向けられた両足の裏を見れば、指と指との間に水かきのようなものが備わっていた。地面にだらりと置かれた両手にも、同様に水かきが備わっている。

「ナリカケ……」

 蒼依もつぶやいた。

「ナリカケ……って?」

 横目で蒼依を見た榎本が、そう尋ねた。

「深きものども……というか、半魚人のようなその種族と人間との混血です」

 奥でぐったりとしている男に聞こえないよう、蒼依は声を落とした。

「混血……またハイブリッドかよ」

 呆れたような言葉が返ってきた。

「でも、やがては完全な深きものに成長するらしいです」

「その深きものは、幼生とは違うのか? 君はこの男に何も感じなかったようだが……」

「見鬼の能力が最大限に使えるとしても、それ以外の種族……蕃神の配下とか、そういったものの気配を感じ取ることはできないようです。もっとも、あたしが覚醒したかどうかもわからないし、覚醒したとしても能力が弱い、という可能性はありますが」

「そうか」榎本は頷いた。「いずれにしても、この男の姿はこれでもまともなほう、ということらしいな」

 榎本の声は通常の音量に戻っていた。

「聞こえたらどうするんですか」

 焦燥を隠せず、蒼依は小声でたしなめた。

「聞こえているよ」

 小屋の中から声がした。

 見れば、男の体勢は変わっていないが、中央から左右に離れた両目が、開いていた。

「あの……ごめんなさい」

 思わず、蒼依は謝罪を口にした。

「気にすることはない」分厚い唇で、男は言った。「おれだって、初めてこの姿を鏡で見たときは、愕然としたからな。しかしだ……ナリカケという呼び方は気に入らないな」

「だったら、なんと呼ぶ?」

 榎本が割って入った。

「深きものとか、インスマスづらとかさ」

「インス……なんだそりゃ」

 榎本には理解できなくて当然だ。

「アメリカのマサチューセッツ州にある漁村です」

 蒼依は注釈をつけた。

 それで得心がいくはずがない。榎本は何も返せずにいた。

「もしくは本名で呼んでくれ」と前置きした男は、塩沢直治なおはると名乗った。

「塩沢……さん?」

 榎本が声を詰まらせた。

「知っているんですか?」

 蒼依は榎本に顔を向けて尋ねた。

「立花からの最後のメッセージにあったんだ。塩沢直治という人が無貌教のアジトを知っている、とな」

「そうか、あんたが榎本さんか。立花さんから名前だけは聞いていたよ」

 インスマス面の男――塩沢が言った。

「その立花が一緒だったはずです。立花清文という男ですよ。彼はどこに?」

「死んだよ」

 即答だった。

「死んだ……そんなばかな……」

 すぐにでも崩れてしまいそうな、そんな声だった。立花を救い出すことが目的だったのだから、榎本の衝撃を蒼依は理解できた。

「死んだというより、殺されたんだ」

「誰に殺されたというんです? まさか、あなたに?」

 尋ねつつ、榎本は小屋の中に一歩、足を踏み入れた。

「彼とおれは情報を提供し合っていた」塩沢は言った。「おかげでここ……FA0833まで来ることができた。このあとも協力し合ってて、彼は無貌教の実体を暴き、おれは無貌教を壊滅させる……そういう計画だったんだ。だから、おれが彼を殺すはずがない」

「じゃあ、立花は無貌教に……」

「そういうことだ。実際には怪物に食われたんだが……幼生という化け物にな」

「幼生に……食われたんですね?」

 榎本の左右のこぶしが震えていた。

「幼生を知っていたか。立花さんからいろいろと聞いたようだな」

「立花からは大切な情報を預かっています。ほかの仲間が保管していて、いつでも公開できるよう、待機しています。でも、無貌教のことや幼生のなんたるかは、この女性や彼女の仲間から聞きました」

 そう言って、榎本は蒼依を一瞥した。

 蒼依は姿勢を正し、塩沢に向き直るが、言葉は何も出ない。

「そうだな。立花さんは無貌教についてこれから詳しく調べるはずだったからな。……ということは、そこの彼女は特機隊なのか? さっきの話では見鬼らしいが」

 尋ねた塩沢は蒼依を見ているらしい。だが、彼の双眼は左右のそれぞれに向けられている。

「いえ、彼女は特機隊隊員ではありません」

 否定した榎本は、どうにか落ち着きを取り戻したらしい。

「思い出したよ」塩沢は頷いた。「空閑蒼依さんだ。確か、覚醒前の見鬼だったはずだが、覚醒したかも知れない、という状況なんだな?」

「どうしてあたしを知っているんです?」

 ナリカケが自分の名前を知っているなど、気持ちがよいはずがない。だが考えてみれば、ダゴン秘密教団日本支部とやらは、蒼依だけではなく、瑠奈や泰輝の存在も把握していたのだ。塩沢がダゴン秘密教団日本支部の構成員だとすれば、蒼依を知っているのは、むしろ当然なのだろう。

「おれはダゴン秘密教団日本支部の残党だ」

 答えを聞いて蒼依は得心した。

「詳しい事情はわからんが」榎本は蒼依を見た。「ダゴン秘密教団日本支部というのは蒼依さんや特機隊とのかかわりがある、ということだな?」

「いい関係じゃないですけどね」

 味方ではない、という意味合いを迂遠に訴えた。そして蒼依は、抱いたばかりの疑念を塩沢にぶつけてみる。

「残党ということは……ダゴン秘密教団日本支部は壊滅したんですか?」

「そうだ。九尾の狐に多くの仲間が殺されたあと、無貌教の者たちがおれたちの隠れ家を奇襲したんだ。ほとんどの仲間が殺された。そして、生き残ったやつも海に逃げ込み、今はどうしているのかわからない。おれだけが、無貌教に復讐するために動いていたんだ」

「九尾の狐って?」

 榎本が蒼依にささやいた。

「純血の幼生ですが……話すと長くなります」

「わかった、いいよ」

 この状況で解説することではない、と悟ってくれたらしく、榎本は頷いた。

「君が空閑蒼依さんならば」塩沢が戸口に顔を向けた。「外に立っている少年は……しかし、神宮司泰輝くんというのは無理があるよな」

「彼は神宮司泰輝です。急成長しました。説明はこれだけにしておきます」

 有無を言わせぬつもりで、蒼依はそう告げた。

「あ……ああ」

 呆気にとられたように声を漏らした塩沢だが、依然として、表情はそのままだ。

「あの……それより、けがでもしているんですか?」

 榎本が尋ねた。蒼依も今さらながら、塩沢の体勢が気になってしまう。

「けがはしているにはしているんだが、それ自体はたいしたことはない。傷はすぐに癒えるさ。目を閉じていたのも、そろそろまぶたが退化しそうなんでね、まぶたがなくなる前に思いっきり閉じておこう……と思っただけだ」

「退化、って……」

 声を漏らしたのは榎本だ。

「ただ」塩沢は言った。「これがおれを拘束していてな……どうにも力が入らないんだ」

 そんな言葉を受けて、蒼依も一歩、小屋へと足を踏み入れた。

 よく見れば、塩沢の周囲にいくつもの丸い何かが、彼を取り囲むように置かれている。

「これは?」

 近づいて確認すればはっきりとわかりそうだが、このにおいの元との距離をこれ以上は詰めたくなかった。塩沢の容貌が異様すぎて近づけない、という理由もある。

「古きいん……古いしるしという意味だ。こいつはおれたち深きものが苦手とする呪物だ」

 塩沢は答えた。

「これは、おれがさわるぶんには問題ないんですか?」

 尋ねつつ、榎本はゆっくりと小屋の奥に進んだ。

「あんたがおれの同族でなければな」

「同族だなんて、そんなわけないでしょう」

 榎本は呆れたようにそう返した。

 自分の前で立ち止まった榎本を、塩沢は見上げた――彼の双眼がどこを見ているのか不明だが、少なくとも顔は上げている。

「おれだって」塩沢は言った。「自分が深きものであることを最初から知っていたわけじゃない。ある日突然、変容は始まった。しかしあんたは、こんなに近づいてもなんともなさそうだな」

「なんともないですね」

 榎本は首肯したし、その場にしゃがんだ。塩沢の顔の向きも下ろされる。

「古き印を取り除いてくれるのか?」

 この状況ならそう期待するのは当然だろう。だが榎本は頷く代わりに軽く首を傾げた。

「あなたを解放しても、おれの目的はすでに消えていますから……あなたと手を組む意味はないし、メリットはなさそうだ」

「なら、すぐにでもここから引き返すことだな。……それにしても、そっちの二人も立花さんを救う目的でここまで来たのかい? そうは思えんが」

「その二人は……」

 しゃがんだまま、榎本は顔を半分だけ蒼依たちに向けた。

 榎本に代わって、蒼依は答える。

「神宮司瑠奈を連れ戻すために来ました」

「神宮司瑠奈……そうか、彼女はとらえられた、ということか。なら二人はまだ帰るわけにはいかない」

「そういうことになりそうですね」

 塩沢に向き直った榎本が、そう告げた。

 塩沢は黙している。

「でもまあ」榎本は言った。「ここまで一緒に来たんだし、その二人とは最後まで付き合いますよ」

 意外だった。目的を失った榎本は引き返すに違いない、と蒼依は思ったばかりなのだ。

「それに」榎本は言った。「立花の無念を晴らすためにも、無貌教の実体を突き止めたいですし。でも、つかんだ情報を公表するつもりはありません。蒼依さんとの約束ですからね。……とにかく、瑠奈さんを救い出して無貌教の実体を見極めるためにも、あなたにも協力してもらいたいわけです」

「ジャーナリストにしては珍しいタイプだ。おれの写真は撮らないのかな?」

「あなたは立花の協力者ですし、必要があるとは思いません」

「そうかい。まあ、それはそうと、おれに協力してもらいたいのなら、すぐにでも解放してほしいんだがね」

「おれだって蒼依さんに信じてもらうには時間がかかったんです……いや、まだ完全には信用を得られていないみたいですがね。塩沢さんには、何か、信じられるような保証とかはないんですか?」

「ないね」

「塩沢さんは肝が据わっていますね。解放されたくはないんですか? どうやらあなたの仲間と特機隊とは敵同士みたいだし……あなたを解放したとたんにおれたちは襲われる、とも考えられます」

 榎本はしゃがんだまま肩をすくめた。

「保証なんて、ないものはないんだ。おれとしては、信用してもらうほかに手はないな」

 そんなとりとめのないやりとりに業を煮やし、蒼依は小屋の奥へと進んだ。そして榎本の右に立ち止まると、生臭さに耐えながら片膝を立て、古き印の一つに右手を伸ばした。

 榎本が「おい」と蒼依に声をかけた。とがめているらしい。

「これを取ればいいんですね?」

 塩沢の答えを待たずに、蒼依はそれを手にした。

 やはり石のようだ。直径は五センチ程度であり、平べったく、全体が薄茶色だ。加工して形を整えたのかもしれない。表と裏の双方に、なんらかの黒い塗料によって一筆書きの五芒星が描かれている。その五芒星の中央には、目とも炎とも思える模様が一つ、表されていた。見れば、塩沢の周囲に半円状に配置されたそれらは、すべてが同一の仕様だった。

「ああ、そうしてくれると助かる」

 塩沢が答えると、蒼依は手にしている石を右の奥へとほうった。そして、次々に石を手にしては、同じところへと投げ捨てる。数は三十個以上だった。

 最後の一つを手にした蒼依は、それを塩沢に向けた。

「裏切ろうだなんてしたら、これをあなたに押しつけます」

「わかったけど、裏切ったりしないから、大丈夫だ」

 言って塩沢は立ち上がり、スラックスの汚れを払った。

 蒼依はその様子を横目で眺めつつ、背中のリュックを胸に抱くと、それに右手の古き印を入れた。

 蒼依とともに立ち上がった榎本が、右の奥に目を向けた。

「おれも一つ、持っておこうかな」

「それで気が済むなら、そうするといい」

 塩沢に促され、榎本は右の暗がりに進むと、石の一つを拾い、ジーンズの右後ろポケットに入れた。

「それにしても」榎本は塩沢に顔を向けた。「服や靴はないんですか?」

「靴もシャツも無貌教のやつらによってずたずたにされた。だが、このほうが涼しくて快適だ。それに裸足のほうが歩きやすい」

 そんな答えを受けて榎本は釈然としない表情を見せるが、蒼依にはなんとなく理解できた。成体となった深きものどもは衣服も靴も必要としないのだ。塩沢はその成体に近づいているのかもしれない。

 出入り口に立ったままの泰輝は、飽きてしまったのか、外の景色を眺めていた。小屋の外には日が差している。

「行きましょう」

 蒼依は榎本と塩沢を促し、リュックを背負った。

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