第3話 FA0833 ④

 杉林の中に道らしきものはなかった。もっとも、下生えはまばらであり、障害があるとすれば、堆積した枝葉くらいだ。堆積物はクッションのごとく反発性があるために踏み締めづらいが、通常の歩行速度で進むぶんには問題にはならない。

 日差しはないが、気温が少しずつ上がっていた。それでもやはり、セミの鳴き声はおろかほかの虫たちの鳴き声も聞こえない。夏であることを実感できるのは、この暑さだけだ。

 今のところ、泰輝に変化はない。瑠奈の現在地を知らせる一言を、蒼依は待つしかなかった。

 前方に光が広がっていた。間もなく杉林は途切れるようだ。

 腕時計を見ると午前五時五十一分だった。

 青空の下に出た。とはいえ、太陽の光はまだ差していない。

 榎本が立ち止まり、続いて泰輝と蒼依もそれに倣った。

 右から左へと緩やかに下る斜面であるのは変わりなかった。前方を見やれば、その傾斜がどこまでも続いている。もっとも、開けたこの草地は右と左にそれぞれ百メートルほど、正面は三百メートルほどの、この一角だけらしい。周囲はやはり杉林である。

「道だ」

 疲れたような声で、榎本が言った。

 右の奥からこちらへと下る砂利道が、目の前できつい弧を描いて折れ、水平方向――左の奥へと延びている。

「右へ上ると、フェンス沿いに北上してその先にゲートがある、なんて感じだけど、それにしたって、距離はまだあるな」

 榎本はそう言って、左のほう――斜面の下へと顔を向けた。

「左のほうへ行ったほうがいいような気がします」

 瑠奈のいる場所がFA0833の奥とは限らないが、外界に近い位置だ、という確率のほうが低いだろう。蒼依には、自分の意見は無難である、と思えた。

「そうだな。おれがこのエリア内にアジトを作るとしたら、ゲートやフェンスから距離を置くな」

 同意を呈した榎本が、振り向いた。

「休まなくて大丈夫か?」

 そんな気遣いが意外だったため、蒼依は失笑した。

「笑うことはないだろう」

 榎本は顔をゆがめた。

「ごめんなさい」蒼依は笑いをこらえた。「休まなくても大丈夫です。まだ暑くないし、時間がもったいない」

「それもそうだが……泰輝くんも大丈夫なのか?」

 蒼依への質問だったらしいが、泰輝は榎本に顔を向けて、「大丈夫だよ」と答えた。

「そう……かい」

 意外そうな顔で榎本は告げた。榎本にとって泰輝との直接的な言葉のやりとりはこれが初めてだ。しかも、蒼依から見ても泰輝の答えは榎本の不意を突いていた。榎本はとっさの受け答えに窮したらしい。

「榎本さんとあたしが疲れてを上げたとしても、たいくんは余裕なはずです」

「超人だったな。忘れかけていた。……じゃあ、行こう」

 言って榎本は、歩き出した。

 蒼依は泰輝の左に並び、榎本に続く。

 三人はすぐに砂利道のカーブに足を踏み入れた。ほぼV字型に折れているその道の左へと、一行は進む。

 道幅は乗用車一台ぶん程度だった。タイヤの跡があり、中央部が盛り上がっている。道の両外は雑草に覆い尽くされているが、道の中央にも雑草が生えていた。

 蒼依は泰輝の右に並び、榎本の背中を見た。

「車はしばらく通っていないみたいですが……榎本さんが言ったように、陸自はここで演習をしていないのかもしれませんね」

「見た感じでもやっぱり、そう、としか言えないだろうな」

 榎本は歩きながら答えた。

「手つかずの状態だから無貌教に入り込まれちゃった……とか?」

「そういうのもあるかもしれないな。灯台もと暗し、っていうやつか」

「ですね」

 国有地が邪教集団のアジトに利用されているなど、このずさんな管理体制を蒼依はさげすんだ。

 ふと、人の声が聞こえた。泰輝の声でもなければ榎本の声でもない――そう思えた。

「え?」

 かろうじて足を止めなかったが、蒼依は周囲を見渡した。しかし、自分たち以外に人の姿はない。

「どうした?」

 振り向きもせずに、榎本は歩きながら問うた。

「いえ、なんでもありません」

 答えたがどうにも気になり、再度、蒼依は見渡した。異変は、やはりなかった。

「ちゃんと聞こえるだろう?」

 今度は耳元ではっきりと聞こえた。

「ひゃっ」と声を上げた蒼依は、立ち止まって前後左右に目を配った。しかし、声の主の姿はない。

「どうしたんだよ?」

 立ち止まって振り向いた榎本が、困惑の表情を浮かべた。

 泰輝も足を止めた。力のない表情でこちらを見つめる彼に、蒼依は疑心の目を向けてしまう。だが、声は左耳に入ってきたのであり、右を歩いていた泰輝が犯人でないのは明白だ。まして、声が違う。

「休んだほうがいいんじゃないか?」

 榎本はそう気遣ってくれた。疲れから来る幻聴ならば休憩を取りたいところだが、幻聴には思えなかった。

「聞き違いじゃないよ」

 また声がした。今度は左右の耳に届いた。

「誰?」と蒼依は周囲を見渡した。

「まだわからないのかい? 久しぶりだし、せっかく来てくれたということもあるし、君に贈り物をあげよう」

 姿は見えないが、聞き覚えのある声――のように思えた。

「その声……まさか?」

「これを受け取れば、恐怖は倍増するよ」

 声は言った。

 とたんに、蒼依の視野が闇に覆い尽くされた。

「あんたからの贈り物なんていらない!」

 蒼依は叫んだ。

「蒼依さん、しっかりしろ」

 闇の中で榎本の声が聞こえた。

 漆黒の闇であるにもかかわらず、すべてが回転していることを、蒼依は知った。

 何かが蒼依の中ではじけた。


 仰向けになっていた。背中にいくつもの固くて細かい感触がある。生い茂る枝葉が、視線の先――自分の真上にあった。

 蒼依はゆっくりと上半身を起こした。背負っていたはずのリュックを枕にしていたらしい。地面を覆っているのは、落ち葉や枝だ。杉林の中だった。

「気づいたか」

 近くで声がした。蒼依の右であぐらをかいている榎本だった。

 左を見れば、泰輝が榎本と同じようにあぐらをかいていた。彼は覇気のない表情のまま、蒼依を見つめている。その泰輝に、蒼依は違和感を覚えた。先ほどまでとは、何かが違う。

「榎本さん」蒼依は榎本を見た。「あたしが意識を失っていたのは、どのくらいの時間でしたか?」

「四、五分ってとこかな」

 答えを受けた蒼依は、周囲に目を走らせた。

 背後は奥に向かって緩やかな上りの傾斜となっており、正面を見れば、数メートル先を砂利道が横切っていた。砂利道に向かって左のほうが明るい。そちらのほうは杉林が切れていた。

「あたしたち、そっちから来たんですか?」

 杉林の外の草地を窺いながら、蒼依は尋ねた。

「そうだ。おれと泰輝くんで蒼依さんをここまで運んだ」

「え……」

 体をさわられたことが衝撃といえば衝撃だった。蒼依は思わず両腕で自分の肩を抱き締めてしまう。

「ああ」榎本は苦笑した。「大丈夫だよ。泰輝くんが力持ちであるということはもうわかっていたから、上半身は彼に任せて、おれは君の左右の足首を持っただけだ」

 榎本のさらなる解説によると、泰輝は後ろから蒼依の両脇に腕を通して抱えてくれたらしい。

「あそこじゃ日が差したら暑いだろうし、仮に敵がいれば、見つかってしまうし」

 榎本の言い分はもっともである。蒼依は両腕を下ろし、「ありがとうございます」と素直に述べた。

「それにしても、気を失うなんて、この先、歩くだけでも大変じゃないのか? それに無貌教のやつらとか、化け物……幼生なんかが現れたら、逃げることだってできないかもしれない」

 体調が万全であっても、幼生に狙われて逃れるのは至難のわざだ。もっとも、今の蒼依は特にどこかが不調というわけではない。

「大丈夫みたいです」

 言って蒼依は、リュックを手にして立ち上がった。めまいを感じるわけでもなく、頭痛もない。

 榎本も立ち上がり、彼につられるように泰輝も立ち上がる。

「大丈夫ならいいんだが、いったい、どうしたっていうのか……」

 得心がいかない様子の榎本に、蒼依は顔を向けた。

「声が聞こえたんです」

「声?」

「はい。あれは、山辺士郎の声でした」

 蒼依は答えた。幼生を使って父を殺害し、兄の死するきっかけを作った――その男だ。

「無貌教の指導者……そいつの声が、なんでまた? 幻聴とかじゃないのか?」

 訝る表情で、榎本はそう尋ねた。

「幻聴ではない、と思います」確信はないが、蒼依は言った。「彼は魔術を使います。声だけを届けることなんて、簡単にできます」

「魔道士……ねえ」

 疑うというよりは、困惑の表情だった。

「信じられませんよね?」

 無理もない――蒼依はそう感じた。

「いや、この期に及んで、超常現象のすべてを否定するつもりはないよ。ただ、その山辺士郎という男が、どれだけ超絶的な存在なのか、想像もつかないんだ」

「それは、わかります」

 蒼依は首肯した。

「でも、そいつが蒼依さんに声をかけてきたということは、おれたちがここにいる、と知られてしまった可能性があるよな」

「あたしもそう思います」

「しかも山辺士郎は、蒼依さんに何かを渡そうとした。あんたからの贈り物なんていらない……と君は言っていたよ」

「はい」

 何を渡そうとしていたのかはわからないが、士郎は確かにそう伝えていた。

「あ……」と蒼依は声を漏らした。

 不審そうに見ている榎本は、蒼依に言葉を催促しているらしい。

「兄も……」蒼依は言った。「空閑隼人も、さっきのあたしのように山辺士郎の声を耳にしたことがあるらしいんです」

「君の兄さんも?」

「はい。あたしはおばさん……神宮司真紀さんから、その話を聞きました。それで兄は見鬼として目覚めた、と」

「ケンキ?」

 榎本は眉を寄せた。

「だからもしかすると、さっきのあれは――」

「ちょっと待ってくれ」榎本は蒼依の言葉にかぶせた。「情報量が足りないんだ。ケンキというのを、おれは知らない」

「そうでしたね」

 やはり、隠しごとが多いのはこちらとしてもやりずらい。蒼依が幼生の気配を事前に察したとしても、見鬼のなんたるかを知らないままの榎本ならば、忠告を無視して災難を招く事態もありうる。

 だが――と蒼依は考えた。士郎がわざわざ蒼依を見鬼として覚醒させたとするならば、なんらかの策略があるに違いない。おそらくは、来てほしい場所に蒼依を誘導するつもりなのだろう。もしくは、翻弄させて疲弊させる、という目的なのかもしれない。

 いずれにせよ、泰輝に対するこの違和感は、彼の幼生としての気配――という可能性がある。むしろ、それ以外には考えられない。

 蒼依は榎本を見つめた。

「見鬼についても幼生についても話します。でも、絶対に公表しない、と約束してください。ネットでも紙媒体でも絶対に公表しない、と」

「わかった」榎本は頷いた。「公表したところでばかにされるだけだ、というのをさっきも言ったが、そうなったら、特機隊に見逃してもらっても、おれは職を失うことになるだろうからな」

 一般には公表しなくても、別な目的で利用する可能性が否めない。だが今は、情報を共有しなければ、瑠奈を救い出せないかもしれないのだ。

「時間がもったいないですし、歩きながら話しましょう」

 蒼依は提案し、リュックを背負った。

「同感だ」

 答えて榎本は、先に歩き出した。

 蒼依は泰輝と並んで、榎本に続く。

 額がじんわりと汗ばんでいた。

 もしかすると自分は幼生の気配を感じるかもしれない――そんな脅迫めいた想念が湧き上がるが、見鬼として覚醒したのか否か、まだわからないのだ。

 それでも蒼依は周囲に気を配った。気を配りつつ、口を開く。

「見鬼の前に、幼生について話しておきます」

 言って蒼依は、自分の左を歩く泰輝を横目で見た。泰輝は蒼依に一瞥もくれず、けだるそうな表情のままだ。泰輝について話すかどうかは、まだ決めていない。それを口にするとなれば、瑠奈についても語らなくてはならなくなるだろう。

「ああ」

 榎本は背中で答えた。

 杉林の中の砂利道は、どこまでも薄暗かった。

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