第3話 FA0833 ③

 山間部ということもあって日差しはまだなく、まして杉林の中という状況下であり、体感温度はわずかに下がった。しかし、虫の鳴き声が聞こえないどころか、藪蚊の一匹も飛んでいないのだ。

 黒土の道はわずかに湿っているが、歩きにくさは感じられなかった。ときおり杉の枝葉を踏んでしまうが、それも問題とするほどではない。

「榎本さん」泰輝の背中越しに蒼依は言った。「やっぱり変です。虫がいません。蚊もハエもアブも蝶も……こんな林の中だったらいそうなのが、一匹もいないなんて」

「化け物が近くにいるとか……そのせいなのか?」

 榎本は歩きながら背中で問うた。

「ひどい悪臭を放っているので、四、五十メートル以内とか、それくらいの距離にいれば、わかります」

「そういや、昨日の現場で悪臭を感じたな」

「でも、気をつけたほうがいいです。においが届かない程度の距離に潜んでいるのかもしれません。虫たちは幼生の気配を察知して離れた、とも考えられるし」

「ヨウセイ?」

 足を止めることなく、榎本は問い返した。

 口を滑らせたようだ。とはいえ、榎本もすでに実物を目の当たりにしているのだ。呼称くらいは伝えてもかまわないだろう。むしろそのほうが、こちらも気を遣わなくて済む。

「幼稚園の幼に、人生の生と書きます」

「幼生……それがあの化け物の名前なのか?」

「名前というか、そういう種類なんです」

「二体いたけど、同じ種類にしては姿形がまるで違っていたな」

「姿はまちまちです」

「もしかして、神津山の都市伝説にある妖怪っていうのが、つまり幼生なのか?」

「そう受け取ってもらっていいと思います」

「これ以上は訊かないでくれ、っていう言いようだな」

 榎本は核心を突いてきた。

「正解です。必要最低限の情報があれば、それでいいと思います」

 蒼依が言うと、榎本は振り向きもせずに肩をすくめた。

「そうかい。まあ、それだけでも助かるよ。それにしても、幼生だなんて……まるでまだ成体ではないみたいじゃないか?」

「もう教えませんよ」

 誘導尋問に屈するつもりはなかった。歩きつつ、蒼依は榎本の背中を睨んだ。

 榎本は無言で左手を軽く掲げ、それをひらひらと振った。降参の意思表示らしい。

 歩き出す前からけだるそうな泰輝は、疲れが増したふうでもなく、うつむいたまま、淡々と歩いていた。彼の倦怠感の原因が不明なのは問題ではない。憂慮すべきは、無貌教の巣窟に近づけば泰輝が瑠奈の気配を感じ取るかもしれない、と期待していたにもかかわらず、現段階に至るまでそんな様子がまったく見られないことだ。蒼依は「瑠奈の存在を感じたらすぐにあたしに教えるんだよ」と昨日のうちに泰輝に伝えておいた。蒼依のその要望を忘れていたとしても、瑠奈の気配を感じ取れば、泰輝はなんらかの反応を示すはずなのだ――が、果たして期待どおりの展開はあるのか、不安は払拭できない。

 その後は沈黙の中での行進となった。土や枝葉を踏みしめる音以外には、何も聞こえない。

「あれか?」

 榎本が声を漏らしたのは、歩き出してから十分以上は経った頃だった。

 開けた一角だった。右から左へと緩やかに下る斜面であり、正面の奥には背後と同様に杉林がある。その杉林の手前に、高さが三メートルはありそうなかなあみメッシュフェンスが立ち塞がっていた。

 一行はフェンスの手前で足を止めた。

 フェンスはおよそ二メートル置きに柱が立っており、上部には有刺鉄線がロール状に張られていた。さらによく見れば、メッシュを構成する金属線は、断面が円ではなく角であり、しかもかなり太い。この見た目にも堅牢そうなフェンスは、右にも左にも、延々と続いている。

「この向こうがお目当ての区域らしいが、立花がどうやってここを通過したかだ」

 有刺鉄線を仰ぎ見ながら、榎本が言った。そんな彼は、ボディバッグの本体を脇から前に出すと、その中から一本のペンチを取り出した。

「この太さじゃ、切るのは無理そうだな」と榎本は、右手に持ったペンチをフェンスのメッシュに近づけた。

「ちょ、ちょっと」蒼依は思わず声を上げた。「電流が流れているかもしれないじゃないですか」

 手を止めた榎本が、蒼依に顔を向け、苦笑を浮かべた。

「一般人が近づける場所だよ。しかも注意書きがない。それに、ところどころ、伸びた雑草がフェンスにふれている」

 見れば、榎本の言葉どおり、雑草がフェンスのメッシュにふれている箇所がいくつもあった。

「もし電気が通っていれば漏電しちまうよ」

 そう告げて、榎本はペンチでメッシュを軽く叩いた。金属音がしただけで、火花が飛び散るわけでもなく、榎本も平然としている。そして彼はメッシュの一カ所をペンチで挟むが、力を入れる仕草を見せたものの、五秒ほどで手を引いてしまった。

「やっぱり無理だな」言って榎本は、フェンスの上部を見上げた。「しかし、有刺鉄線のほうは通常のものらしいから、これで切れるかもしれない」

「そんなの危ないですよ」

 蒼依は言うが、榎本は「やってみるさ」と返し、ペンチをジーンズの右後ろポケットに差し込んだ。

「たいくんなら、大人一人を抱えたまま飛び越えられます。二人いっぺんでもできそうですけど、フェンスを越えるだけだったら、一人ずつ抱えてもらって、二往復してもらえれば済むし」

 最初からそのつもりだったのだ。もっと早く伝えておけばよかったのかもしれない。

「いやしかし、少年に抱きかかえられるというのもな」

 言いながら、榎本はフェンスのメッシュに両手をかけた。しかし、靴のつま先がうまくメッシュの空間に収まらず、なかなか這い上がれない。

「蒼依ちゃん、あれ」と泰輝が右のほうを指さした。

 蒼依は泰輝の指さすほうに目を凝らした。

 右の奥――藪が茂っている辺りで、フェンスのメッシュが大きく裂けていた。藪がその部分にかかっているため、注意して見なければ気づけないのも当然だ。

「榎本さん、有刺鉄線を切る必要もたいくんに運んでもらう必要もないみたいですよ」

 蒼依が声をかけると、榎本はもがくのをやめて振り向いた。

「え……?」

 事態を把握していないのだから、言葉にならないのも当然だ。

「立花さんは、おそらくあそこから入ったんです」

 蒼依が指さす必要はなかった。泰輝がその姿勢を維持しているのだ。

「あれは……」

 榎本がそれを視認したところで、蒼依は泰輝の肩を軽く叩く。

「たいくん、手を下ろしていいよ」

 言われて泰輝は、右手を下げた。

 三人はその裂け目へと近づいた。

 フェンスのメッシュは一人の大人が余裕で通り抜けられる大きさに裂けているが、切れた部分はこちら側に反っていた。

「まるでこっち側から無理やり引きちぎった感じだな。もしくは向こう側から強い力をかけたか……」

 榎本の言葉を受けて、蒼依はメッシュの切り口を見た。どの切り口も、切断されたというよりは折られた感じだった。

「どんな方法で誰がこじ開けたのかわからないが、とにかくここから入ろう」

「はい」

 蒼依が頷くと、榎本は持っていたペンチをボディバッグにしまい、裂け目を通り抜けた。

「たいくん、行くよ」

 泰輝に声をかけた蒼依は、先に裂け目をくぐった。

 続いて泰輝がそこを通過する。

「フェンス沿いに進むのなら、ゲートに近いのは東のほうだが……とりあえず、奥に向かおう」

 蒼依と泰輝を前にして、榎本はそう告げた。ゲートを目標にしても意味がなさそうなのは、蒼依にも理解できた。外から丸見えのフェンス沿いもしかりだ。

 歩き出した榎本に、泰輝、蒼依という順に続いた。

 三人は再び杉林の暗がりに足を踏み入れた。


 管制室は沈黙と緊張に包まれていた。小野田も恵美も真紀も佐川も、誰一人として口を開こうとしなかった。

 十五分ほど前に三上から連絡が入った。FA0833のゲート前には車も人の姿もなかったらしい。そして三上は、FA0833にアクセスしやすい道を地図上で赤首の南側に見つけた、と報告した。佐川がパソコンを使って調べたところ確かに地図アプリにそれらしき道があり、小野田は三上にそちらを捜索するよう命じたのだ。

 そして今、小野田のスマートフォンに着信があった。内ポケットから出したスマートフォンを見ると、「三上」と表示されていた。

 全員の視線が、佐川の横に立つ小野田に集中した。

「どうだ?」

 小野田はスマートフォンを通話状態にするなり、通話の相手に問いかけた。

「道沿いの空き地で榎本の車を発見しました」電話の向こうで三上が答えた。「しかし、中には誰も乗っていません。周囲にも人の気配はないです。ドアロックがされていますが、解除して開けてみます」

「そうしてくれ」

「それから」三上は続けた。「もう一台、車があるんです。品川ナンバーの軽自動車です。画像をパソコンに送ります」

「そうか、すぐに照会してみる。念のため、そこから近いフェンスも調べておいてくれ」

「わかりました。……ドローンはここから飛ばしていいんですね?」

 特機隊専用ドローンに搭載された高性能カメラならば、百メートル以上の高度からでも地上の人物の顔が判別できる。だが、たとえ百メートルの上空であろうと、フェンスを越えてしまえば打ち落とされる可能性は否めない。

「フェンスから離れているなら、そこがいいだろう。くれぐれも、エリアの内側にドローンを入れないようにしてくれ」

「はい、気をつけます。では、いったん切ります」

 三上の言葉を受けて通話を切ると、佐川の前にあるパソコンに、即座にメールが届いた。

「添付ファイルを開いてくれ」

 小野田の指示に「はい」と答えた佐川が、パソコンを操作し、着信したばかりのメールから添付ファイルを開いた。砂利と雑草との上に停められた一台の黒い軽トールワゴンだった。そのフロント側のショットだ。佐川はさらにその画像を拡大し、ナンバープレートを大写しにした。

「このナンバーを照会します」

 小野田は「頼む」と答えつつ、スマートフォンを内ポケットに戻した。

 その直後に、スマートフォンの着信が鳴った。真紀が手にしているスマートフォンだ。

「はい、神宮司です」

 スマートフォンを耳に当て、真紀は言った。

「わたしが真紀です。こんな時間に申し訳ありません」と口にした真紀が、小野田に視線を向けて小さく頷いた。どうやら電話の相手は陸上幕僚長らしい。

「そうです。非常事態なんです」

 落ち着いた声で真紀は話した。

 小野田もほかの者も、通話の妨げにならぬよう、じっと息を凝らした。

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