第3話 FA0833 ②

 ただでさえ命がけの行動なのだ。空閑蒼依という大学生は足を引っ張る可能性があるだろう。泰輝という得体の知れない少年は、もしかすると本当に奇異なる存在なのかもしれないが、空を飛んだことや耳が伸びたことがトリックではない、とは言いきれない。二人がこの計画の手助けになれば渡りに船だが、今になって榎本は、後悔していた。

 電話で蒼依に嘆願されたときに、「役立つ人」にあやかろうという期待があったのは事実だ。また、「役立つ人」とやらに好奇心を持ったのも事実である。己の狡猾さとジャーナリスト魂が、少なくとも今は、ただ煩わしいだけだった。

 いらだたしさを抱えたまま、榎本はコンパクトカーを右折させた。小能の集落を過ぎたばかりであり、山林に覆われた峠道に差しかかる手前だった。国道461号から外れたこの舗装路は、最初の数十メートルのみが片側一車線の幅であり、すぐに乗用車一台分程度の幅に狭まってしまう。それでもしばらくは田畑が道沿いに続いていたものの、やがて雑木林の中の風景となり、荒れたアスファルト以外に人工物らしきものは確認できなくなってしまった。この路線に入ってからの対向車はまだないが、すれ違うにも左側には川が流れているために車体を寄せるのは困難そうだ。榎本はコンパクトカーの速度を適度に落とした。

「場所は、頭に入っているんですか?」

 沈黙を破ったのは蒼依だった。

「カーナビはないし、スマホも見ていないし、だから気になったのかい?」

 特に会話がほしいわけではなかったが、同行者との関係を良好に保つべく、榎本は問い返した。

「まあ、そんなところです」

 素直なのだ――と榎本は受け取った。できればもう少し心を開いてやりたいのだが、それができないのがつらい。

 苦笑しつつ、榎本は「ちゃんと頭に入っているさ」と答えた。

「あたしはこの辺の道を知りません。もし榎本さんが道を間違えても、教えてあげることはできませんよ」

「スマホの電源を入れたくなかったから、しっかり覚えたんだ。そうだな、確実性は九十八パーセントかな」

「百パーじゃないんですか……というより……」

 蒼依は言いよどんだ。

 ルームミラーで見れば、彼女は車外の様子を窺っている。

「どうした?」

「道はよくわからないんですが、方角からして、小能から離れて上君畑に向かっているような気がします」

「そうだよ」

「だったら、わかあわのほうから進んだほうが早かったんじゃないんですか?」

 彼女の言っている意味を、榎本は理解していた。すなわち、国道461号を通るルートは南寄りに迂遠なのである。上手縄工業団地の南沿いからすぐに西へと向かえば、そのまま上君畑に至るのだ。

「君の言うとおりなんだが、そっちからだと特機隊に追跡されやすい、と思ってね」

「こっち周りだと、先回りされるかもしれないじゃないですか」

 蒼依は懐疑の言葉を漏らした。

「FA0833のゲートは、広大なその敷地の北側にあるんだが、地図上で車の通れそうな道がそのエリアに接しているのは、そこだけなんだ。つまり特機隊が先回りするとすれば、おそらくゲート側だな」

「じゃあ、ゲートから入れようが入れまいが、地図で確認した人がFA0833にアクセスしようとすれば、おのずとそこになってしまう……」

「そうだ。この状況でゲートに先回りした特機隊は、いくら待ってもおれたちが現れずに混乱するはずだ。その間におれたちは南側から進入する。時間稼ぎにもなる、というわけさ。特機隊がこっちの思惑どおりに動いてくれたらの話だが」

「昨日と同じように……追跡を攪乱させるわけですか?」

「まあね、そんな感じさ」

 安直すぎる考えかもしれない。事実、ルームミラーの中の蒼依は、疑わしそうな視線をくれている。とはいえ、ここまで来たのだから、引き返すわけにはいかない。

 やがて道は再び広さを戻した。片側一車線の舗装路は、路面が安定しており、緩やかに蛇行しながら北へと延びている。右には杉林、左には田んぼとその奥に山林があった。

 しばらく北上すると、道は上りとなった。左右にくねりながら標高を上げるが、ほんの数十秒で下りとなる。

 下りきってすぐ、左に延びる道があった。減速させたコンパクトカーを、榎本はその道へと左折させた。

「もう少しだ」

 くだを巻かれないための予防策として、榎本はそう告げた。

「はい」と蒼依は答えた。

 ルームミラーを覗けば、蒼依は横目で車の外を眺めていた。もっとも、外は杉林の中の暗がりが迫っているだけだ。舗装されているとはいえ道幅は狭く、対向車が来た場合は道の脇――草むらか砂利に左側のタイヤを載せるしかなさそうだ。

 泰輝に至っては、まったく絡んでこない。そのおとなしさが、どうにも気に障った。

 車での移動は、残すところわずかだった。


「神貫入り口交差点と神貫ダム管理事務所前、それぞれに接地しておいた監視カメラの両方に、榎本の車が映っています」

 佐川の向かいの席に着く恵美が、ノートパソコンの画面から顔を上げて告げた。

 管制室の中央で立ったままの小野田は、顔をしかめる。

「国道461号かよ。……それぞれの通過時刻は?」

「神貫入り口交差点が午前四時五十五分、神貫ダム管理事務所前が午前四時五十八分です。西に向かっているのは間違いありません」

 恵美の言葉を聞いて小野田はため息をついた。

「一杯食わされたわけか」

 榎本のコンパクトカーは坂萩南インターチェンジ前交差点から西へ向かった、と想定したうえで、三上と池田を追跡に就かせたのだ。

「佐川、三号車は?」

 小野田が問うと、佐川はマウスを操作してGPS管理画面に切り替えた。

「正門を出て西に向かうところです」

 モニターの地図を見ながら、佐川は答えた。

「そうか」と頷いた小野田は、スーツの内ポケットからスマートフォンを取り出し、三上のスマートフォンの番号を呼び出した。

 ノックと同時にドアが開いた。

 小野田が振り向くと、廊下で電話中だった真紀が、スマートフォンを片手に管制室に入ってきた。

「警察庁長官が了解してくれました。陸上幕僚長に連絡してくれるそうです。うまくいけば、すぐにでも陸上幕僚長からわたしに電話があるはずです」

 言って真紀は、ドアを後ろ手に閉じた。

「ありがとうございます。ここでお待ちください」

 空いている席に真紀を促し、小野田はスマートフォンに表示した番号をタップした。


 カースピーカーから届く小野田の指示を受け、助手席の三上は「了解しました」と答えた。そしてハンズフリーの通話が切れる。

「聞いてのとおりだ」三上は横目で運転席の池田を見た。「とりあえずゲート前まで行き、空振りだったら苦行の始まり、ということだな」

「まあ、ゲート前は空振りっぽいですね」

 言って池田は、いまいましげにため息をついた。

 そんな彼がハンドルを握る三号車は、制限速度をやや上回る早さで上手縄工業団地の中の幹線道路を南下していた。まだ午前五時台という時間帯であり、交通量は少ない。

「池田が榎本の立場だったら、どこからFA0833に入ろう、と思う?」

 池田に問いかけたが、自問しているのでもあった。

「目立たないところでしょうね……といっても、フェンス自体が人目につかないところばかりに張ってあるから、どこも同じか……」

 正面に顔を向けたまま、池田は言葉を詰まらせた。

 ふと、三上の脳裏に光明が差す。

「だったら、可能な限り車でフェンスまで近づけそうな場所、とか」

「地図にない道もありますからねえ。しらみ潰しに調べるしか……いや……」と池田は表情を引き締めつつ、赤信号で三号車を減速させた。神津山南インターチェンジ前交差点だ。

 三上によるコンソールスイッチの操作で、信号はすぐに青に変わった。

「どうした?」

 三上が促すと、池田は三号車を右折レーンに進入させつつ、小さく頷いた。

「昨日の様子からしても榎本は神津山の地理をそこそこ把握しているみたいですが、特機隊から聞くまではFA0833の位置を知らなかったわけです」

 答えた池田は三号車を右折させた。正面には山並みが広がっている。

「まあ、そうだな」

「もしかすると、やつは昨日の逃走に使うルートおよび一時的な待避場所を把握するくらいで、神津山の地理のすべてを把握しているわけではないのかもしれません。ましてや山間部なんて蚊帳の外なんじゃないんですかね。……あくまでも可能性の問題ですよ。だって、神津山の地理のすべてを把握しておいたとしても、FA0833がどこにあるのかは、わからなかったんだし」

「榎本は神津山の山間部に疎いかもしれない、ということか」

 だが、あくまでも可能性の問題だ。

「ならば、地図帳やネットの地図アプリで確認できる道を、やつは選んでいるかもしれません」

 池田のその言葉に頷いた三上は、すぐに車載モニターに映し出されている地図を、任意でスライドさせた。

「それらしい道を探してみるが……とりあえず、ゲート前に向かってくれ」

「了解です」

 池田の声に張りがあった。活路が見いだせた、という気分なのだろう。

 しかし三上には諦念があった。

 もう遅いのではないか――そう思えてならなかった。


 杉林の中の細い道は緩やかに蛇行していた。眺望は利かず、蒼依は息が詰まりそうだった。晴れているはずだが、薄暗さは否めない。

 その道に入って三分ほどが経過した頃、榎本が運転するコンパクトカーは減速し、右の脇道へと入った。道幅は先の道よりも狭く、対向車があればすれ違うことなど不可能だろう。運転免許証を取得したばかりの蒼依でさえ、それは認識できた。加えて、路面が荒れていることも、寂寥とした空気を倍増させる。

「この道も地図アプリに載っていたんですよね?」

 そう聞きたくなるほどひどい道だった。

「載っているからすぐに見つけたんだよ。そういや、この道はくろさんの登山道にも繫がっているんだな」

 榎本は言った。

 黒田山は高三土山の南に位置する山であり、標高は高三土山よりやや低い。

「黒田山って名前だけは知っているんですが、この近くですか?」

 神津山市民であるにもかかわらず、東京都民に尋ねてしまった。

「ちょうどこの東じゃないかな」

 答えを聞いて蒼依は車外に目をやるが、杉林ばかりであり、山の形は確認できない。

「以前は」榎本は続けた。「その登山道を使えば黒田山経由で高三土山まで歩いていけたんだが、国有地がそれぞれの山との間にかかっていて、黒田山と高三土山とを繫ぐ道までもがフェンスに遮られてしまったんだ。まあ、高三土山に行くわけではないからそれはかまわないが、そもそも登山者は少ないらしい。ネットで拾った情報だけどね。だからここを走るのは、たぶん林業関係の車くらいだろう」

「じゃあ、林業関係の車と行き会ったら、まずいじゃないですか。こんなところで何をしているんだ、って責められるかもしれませんよ」

「ハイキングとか散策とか言ってごまかすさ。……そうだな、蒼依さんと泰輝くんは兄弟、そしておれと君たちは親戚、っていうことにしておこう」

「はあ……」得心はいかないものの、首を傾げつつ答える。「そうします」

 そして右に顔を向ければ、泰輝は相変わらずうつむいていた。車酔いとは無関係であるはずだが、気になるあまりに、蒼依は尋ねてみる。

「たいくん、気分とか、悪くないよね?」

「超人なのに車酔いするのか?」

 真面目そうな口調だが、嘲弄している感じを受けた。蒼依は榎本の斜め後ろの頭を睨む。

「ふざけていません?」

「ふざけてなんかないよ。そう聞こえたのなら、すまない」

 おそらくは榎本の言うとおりなのだろう。だが蒼依の気持ちは収まらない。榎本の人との接し方自体に問題があるのだ。とはいえ、蒼依が今、気になっているのは、泰輝である。

「ねえ、たいくん?」

 もう一度、声をかけると、泰輝がおもむろに顔を上げ、蒼依を見た。

「うん、いつもと同じだよ。疲れているだけ」

 けだるそうな顔で泰輝は告げた。

「おいおい」榎本がルームミラーをちらちらと見た。「そんなんで大丈夫なのか? 昨日みたいな化け物がまた襲ってきたら、助けてくれるんだろう?」

「たいくんはそのつもりでいます。でも、榎本さんはもともとあたしたちと行動をともにするつもりなんてなかったんですよね。ということは、敵に襲われた場合の対処法を考えていたはずです」

「だったら?」

 開き直ったわけではなさそうだが、蒼依の感情を逆なでする言葉ではあった。

「だったら、って……」

「だったら、自分たちを当てにしないでくれ、ってか? それはないよな。君たち……というか、その少年が当てになるというから、同行を許したんだぜ」

 榎本の言い分はもっともだ。悔しくとも、蒼依はそれを認めざるをえない。

「はい、榎本さんの言うとおりです」

 憤りを抑えて、蒼依はそう伝えた。

「そこまで卑屈になるなよ」

「卑屈になんか――」

「おれも言いすぎた」榎本は蒼依の言葉にかぶせた。「本当のことを言うと、化け物に襲われた場合の対処法なんて、考えていなかったんだ」

「え……じゃあ、行き当たりばったり、とか?」

 蒼依が問うと、榎本の横顔が苦笑を浮かべた。

「そのときはそのときだ。そう割りきらないと、こんな危険な行動は取れないよ」

「そうかもしれませんが……」

 死にに行くようなものだ。それを訴えたかったが、程度こそ違え、蒼依も危険な賭に出たのである。泰輝という強力な仲間と連れ立っていても、決して安全ではない。

「だからこそ」榎本は言った。「君とその少年を当てにしているんだ」

「はい」

 榎本の言い分を認めはしたが、当の泰輝が本当に当てになるのか、この期に及んで蒼依は不安になっていた。いざとなれば本来の力を発揮してくれるに違いない、と見込んでいたものの、現状を見る限りでは確信は持てない。瑠奈を救うために一緒に来てほしい、という蒼依の願いに応じてくれた泰輝だが、そもそも、彼は蕃神の子なのだ。その思考が人のそれとは乖離していても、当然である。

「この辺かな」

 榎本が言った。

 視界はやや開けたが、峻険な山に囲まれた一角だった。道は右へと緩やかにカーブしており、そのカーブの外側――道の左に、テニスコート一面ぶんほどの空き地があった。

「あれは……」と独りごちながら、榎本はその空き地にコンパクトカーを乗り入れた。

 蒼依もそれを見た。一台の黒い軽トールワゴンが、空き地の隅で奥にフロントを向けた状態で停まっている。

「ハイカーとか……もしかして林業関係者?」

 胸の鼓動が高鳴るのを、蒼依は感じた。思わず生唾を飲み込んでしまう。

「いや、違う」

 そう言って、榎本は軽トールワゴンの左にコンパクトカーを並べ、エンジンを切った。

 蒼依はドアガラス越しに軽トールワゴンを覗くが、人が乗っている様子はなかった。

「降りよう」

 榎本は告げ、自分のシートベルトを外した。

「はい」と答えた蒼依も自分のシートベルトを外し、続いて泰輝のシートベルトも外した。

 車外に出ると一気に蒸し暑さに襲われた。蒼依はリュックを後部座席の床から取り出してそれを背負い、自分が降りた左側から泰輝を引っ張り出した。

 蒼依が左のリアドアを閉じるなり、先に降りていた榎本がコンパクトカーのドアをロックした。

「あいつもここからFA0833に向かったようだ」

 コンパクトカーの前に立つなり言った榎本は、ボディバッグを袈裟懸けにし、その本体を背中に回した。

 泰輝をいざなって榎本の横に移動してから、蒼依は問う。

「あいつ……って、立花さんという人ですか?」

「そうだ」榎本は答えた。「この軽は、あいつの車だ」

 見れば、軽トールワゴンは品川ナンバーだった。

「あっちだな」と告げつつ、榎本が空き地の奥を見た。彼の視線をたどると、藪の中に小道があった。その小道は藪の先の杉林へと続いている。

「地図のとおりなら、北へ向かうはずだ」

 榎本は付け加えた。

 そよ風さえなかった。静寂の中での蒸し暑さが次第に募る。あまりの静けさに、蒼依の意気は消沈しかけていた。

「静かすぎる」周囲を見渡しながら、蒼依は言った。「セミの鳴き声が聞こえないし、ほかの虫の鳴き声も聞こえない」

「そう言われると、そうかもしれないな」

 榎本も同調したようだ。

 得体の知れない圧力を意識しながら、蒼依は言う。

「急ぎましょう」

「ああ、行こうか」

 藪の裂け目へと、榎本は歩き出した。

 そんな榎本に続こうとした蒼依は、泰輝を自分の前につかせた。

「たいくん、榎本さんについていくんだよ」

「わかった」

 即答した泰輝は、蒼依の言葉を理解したに違いない。

 問題は自分である――と蒼依は気持ちを引き締めた。心がくじけてしまえばすべてが台なしになってしまうのだ。

 榎本を先頭に、泰輝、蒼依という順で、一行は歩いた。

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