第2話 取引 ⑧

 蒼依を横抱きにした泰輝は、助走もせずに神宮司邸の北側の塀を跳び越えた。高さが二メートル以上もある塀だが、泰輝にとっては障壁とはなりえないのだ。

 横抱きにされているだけではなく、蒼依は泰輝の肩に両手を回していた。相当な勢いで空中に舞い上がるのだから、こうでもしなければ振り落とされてしまうはずだ。しかも脳や内臓が置いていかれそうなのだ。それでも蒼依は目は閉じずにいた。可能な限り首を巡らし、通行人や車がないのを把握した。目撃される危険性を感じたときは、即座にこの跳躍を中止し、様子を見なければならない。何しろ泰輝は、この姿では姿を消すことができないのだ。まして蒼依も一緒なのだから、目立つことこの上ない。目撃されてからでは遅そうだが、こちらがすぐに姿をくらましたなら、見間違いだったとされる可能性もあり、最悪の場合はそれに期待するしかないだろう。

 泰輝が蒼依を交接の相手として認識している可能性は否めない。だからこそこの状態は、蒼依にとって脅威だった。とはいえこれ以外に神宮司邸の敷地から遁走する手立てが考えられず、致し方ないとするしかなかった。手当ての件では恵美に諫言したが、この状態を慮れば立つ瀬がないのも、また事実である。

 門――すなわち時空の門を使えたなら、こんな手間をかけずに済んだはずだ。しかし今の泰輝は、短距離の飛翔ならできるが門は使えない。それは昨日も、泰輝本人に確認している。しかも蒼依は秘薬を持っていないのだから、いずれにせよ門は使えないわけだ。

 塀の外を東西に延びる狭い舗装路に、泰輝は静かに着地した。そして、そのステップで西の方角へとさらに跳ねる。二度目の跳躍も大きく、次に着地したのは神宮司邸の北西の角――その外側に位置する十字路だった。もっとも、蒼依が望んだ距離にはほど遠い。

 二度目の着地で跳躍をやめた泰輝は、小さな十字路の真ん中で、落ち着きなく周囲に目を走らせていた。どうやら、打ち合わせの内容を忘れてしまったらしい。

「まだだよ」横抱きにされたままの蒼依は、泰輝の顔を見上げた。「ゆうべ、地図で見せたでしょう。その場所まで一気に飛ぶの。人に見られると困るから、できるだけ高くね。場所、わかるかな?」

「ああ、そうか。思い出した」

 泰輝は答えるが、目に生気がない。それでも西のほうを見るなり、彼はアスファルトを蹴って飛び上がった。

 三度目のそれは、まさしく飛翔だった。神宮司邸から上手縄工業団地手前の雑木林までは二百メートル強だが、蒼依を横抱きにしたままの泰輝はその雑木林を飛び越え、さらに、工業団地内を南北に延びる幹線道路をも飛び越えてしまった。高度は計り知れないが、見下ろせば、何もかもが小さかった。

 先の「跳躍」よりも勢いがあった。高速道路を走る車ほどの速度――は出ているだろうか。二人の髪と服が激しくなびいており、蒼依に至っては、その風圧によってどうしても目を細めてしまうのだった。

 次に着地したのは、背の高い雑草に囲まれた空き地だった。上手縄工業団地の西に外れた場所であり、周囲は田畑と雑木林という風景だ。榎本が恵美の所持品を置いていった空き地である。

 空き地の隅に、榎本のコンパクトカーがあった。その運転席側のドアが開き、榎本が車外に降り立った。

「今のは、どういうことなんだ?」

 着地する瞬間を見ていたようだ。彼の反応は当然だろう。

 それよりも、神宮司邸からここに至るまでに誰かに目撃されていないか、蒼依はそれが気がかりだった。特機隊隊員に目撃されるだけならどうにかなるが、一般人に見られたとなれば、神津山の都市伝説のネタが増えてしまうわけだ。もっとも、蒼依が上空から確認した限りでは、通行人の姿や車の往来はなかった。

 地面に両足を着け、蒼依は泰輝から両手を離した。

「おはようございます」

 ドアを開けたまま驚愕の表情を呈している榎本に、蒼依は会釈した。

「あ……ああ、おはよう……」

 声を詰まらせる榎本のほうへと、蒼依は泰輝を伴って歩いた。

「この少年が例の……泰輝くんなのか?」

 目の前で立ち止まった泰輝を見ながら、榎本は尋ねた。

「はい」と答えた蒼依は、自分の左に立つ泰輝を横目で見た。当の泰輝は、端から見れば放心したような表情だが、蒼依にとっても、何を考えているのかわからない、という状態である。

 榎本は蒼依に視線を移した。

「飛んできたんだよな?」

「まあ、そうです」

 蒼依は簡明に答えた。

 泰輝についての詳細を、蒼依はまだ榎本に伝えていない。特機隊よりも役に立つ――そんな話をしただけだ。詳細を解説すれば長くなるだろう。

 五歳児ほどの姿をしていた頃の泰輝は、人間体の状態でも、子供が走る程度の速度で飛行できた。巨獣の姿ならば人間体の状態と比較して飛行状態は安定し、速度は最大で音速を超える。ハイブリッド幼生ならば個体差はあるようだが、少なくとも純血の幼生は、どんな形態であれ、重力に縛られずに移動できるのだ。ところが、現在の泰輝は巨獣の姿を取ることはめったになく、しかも人間体の状態での飛行が安定しない。

「このおじちゃん、誰?」

 疑問を口にした泰輝は、表情を変えずに榎本を見ていた。

 思わず、蒼依は泰輝の右耳をつまんで引っ張った。

「おじちゃんじゃなくて、お兄さん」

 されるがままの泰輝は、やはり表情を変えていない。蒼依に引っ張られている右耳は、三十センチほどまで伸びていた。

「おじちゃんでかまわないよ」

 榎本は苦笑を呈するが、胸中では二歩も三歩も引いているはずだ。

 泰輝が人間体の状態で耳が伸びるのは、蒼依や瑠奈だけでなく、真紀や藤堂、家政婦たち、特機隊、輝世会にも知れ渡っていた。泰輝がこんな生態を見せるようになったのは、彼の人間体の姿が急成長する以前からだ。ときには首や舌などほかの部位を伸ばすこともあるが、これらの常軌を逸した行為は第三者を混乱させるおそれがあり、瑠奈と真紀によってきつく抑制されているが、蒼依はとっさにそれを利用したのだ。泰輝が人間ではないことを手っ取り早く榎本に印象づけるために――。

 蒼依が手を離すと、泰輝の右耳は元の大きさに戻った。

「そういや、武器とやらは?」

 訝るように、榎本は泰輝を見た。

「あとで説明します」蒼依は言った。「それより、急がないと特機隊が来ちゃいますよ。たいくんとあたしが出かけたことに、もう気づいているはずです」

「そうだな。行こう」

 榎本は答えると、右のリアドアを開けた。

「二人とも後ろの座席がいいですよね? 地元の顔見知りに見られたら面倒なことになりかねないし」

 蒼依は泰輝の背中からリュックを外しながら榎本に確認した。

 リュックにはTシャツとジーンズが一組と、スマートフォンが入っていた。用意した衣類の上下はどちらも蒼依のものだが、泰輝の着替えとして用意したのだ。現在の泰輝の身長は蒼依とほぼ同じであるため、サイズ的には問題ないだろう。万が一、泰輝が服を着たまま巨獣に変身すれば、その服は破れてしまう。人間体に戻った場合の備えである。

 急場に備えてのスマートフォンは、特機隊による追跡されるを嫌い、念のために電源を切ってあった。電源を落としておくのは榎本からの要望でもある。とはいえ、非常時には第六小隊に連絡を入れるのだ。都合がよすぎるのは、蒼依本人も承知していた。

「それもあるが」榎本は言った。「特機隊の目も気になる。おれ一人だったら、すでに泳がされている身だから問題はないんだろうが」

「そうですね。後ろの座席で目立たないようにしています」

 可能な限りの対策を施しておくのが、計画にほころびを来さないための秘訣だ。

 蒼依と泰輝が後部座席に乗り込むと、榎本はそのドアを閉じ、運転席に乗り込んだ。

「たいくん、あんまりきょろきょろしないでね。できる限り下を向いているんだよ」

 助手席の後ろでリュックを足元に置いた蒼依は、そう伝えながら隣の泰輝にシートベルトをかけてやった。リア周りのガラスはスモークだが、念には念を入れたい。

「わかった」

 力のない返事だが、意向は伝わったはずだ。

「出すぞ」

 蒼依がシートベルトを着用するのをルームミラーで確認した榎本が、そう言って車を発進させた。


 泰輝には前日のうちに、瑠奈を助けるためにほかのみんなには内緒で自分たち二人だけで出かける、と伝えておいた。しかしその時点での泰輝は、瑠奈が拉致されたことさえ把握していなかったのだ。それを理解させることは容易ではなかったが、出かけることを承諾させるのはさらに容易ではなかった。それでもどうにか泰輝は事態を受け入れ、自室にいた真紀に悟られることなく話は済んだ。

 問題は、約束の時間に約束の場所――午前四時四十八分に本宅の裏へと泰輝が来てくれるかどうかだった。目覚まし時計で起床を認識させるのは、真紀にこの企てを知らせるようなものである。

 打開策は泰輝から提示された。「毎朝、明るくなればぼくは目を覚ますんだよ」という言葉をである。そうならば榎本との待ち合わせ時間である午前五時十分には間に合うだろう。実際にはそれより早く合流できたわけであるが――。

 本宅の裏を集合場所に選んだのは、誰かに直接に見られることを避けるためだ。相手が監視カメラならば見つかったとしても数十秒は時間を稼ぐことができる、と算段を立てたわけだ。

「それで、FA0833って、どこなんですか?」

 目立たぬように顔をうつむかせながら、助手席の後ろで蒼依は尋ねた。泰輝は蒼依の右隣で同様に小さくなっている。

「市内の山間部だよ」

 ハンドルを握る榎本が、そう答えた。

 コンパクトカーは上手縄工業団地を西側から外れ、山裾沿いに延びる県道を南下していた。交通量は少なく、巡航速度は制限速度をやや上回っている。

「漠然としていますね」

 嫌みのつもりで訴えた。

「君に言ってもわかるかどうか」

 悪びれぬ様子で榎本は応じた。

「これでも神津山市民です。言ってみてください」

 ムキになったわけではないが、心の準備があるのだ。知っておきたい。

あかくびの辺りだよ」

「ああ……」赴いたことはないが、知っている地名だ。「高三土山より南……結構、山奥だったはず。昔は集落があったとか」

「集落があったかどうかはわからないけど、位置的にはそんな感じだよ。というか、君がそこまで知っているなんて、意外だな」

 感心したような口調だった。蒼依はそれがしゃくに障った。

「赤首の都市伝説とか、いろいろと噂はありますよ。でもあたしは、そんなに詳しくは知りません。場所だって、だいたいの位置しか知りませんし」

 見栄を張っても意味がない。蒼依は素直に告げた。

「ゆうべ、ネットで調べたんだが、その一帯は、二年前に国が神津山市から買い上げられたようだな」

 進行方向に顔を向けたまま、榎本は言った。

「国?」

 蒼依は顔を上げた。

「ああ」前を向いたまま、榎本は頷いた。「国有地ということになるな。しかも、陸自の演習場らしい」

「陸自……自衛隊……」

 ならば、小野田が口にした「彼ら」や恵美がほのめかした「特殊部隊」は陸上自衛隊の特殊部隊という可能性がある。蒼依でさえ、恵美のほのめかしから自衛隊の存在を疑っていたのだ。とはいえ、神津山市内に陸上自衛隊の演習場があるなど、蒼依は耳にしたことがない。

「でも、解せないことがあるんだ」と榎本は続けた。

「なんです?」

 解せないことばかりだが、抜きん出て解せない情報でもあるのか、蒼依は気になった。

「普通、陸自の演習場を作る場合はその土地の所有者から借り上げるものなんだが、FA0833……神津山演習場に至っては、わざわざ買い上げているんだ。しかも、神津山演習場での演習は、今のところ一度もないらしい」

「つまり」蒼依は持論を口にしてみる。「陸自の演習場だから禁断の地、なのではなく、別の理由があっての禁断の地、ということですか?」

「その、別の理由、っていうのと、陸自の演習場、という二つの要因があっての禁忌なのかもな。でも、禁忌とはいえ、特機隊……いや、特機隊隊員たちは、別の理由、っていうのを知らないようだから、特機隊の上層部にとっての問題に違いない」

 榎本の説は、蒼依の脳内でうまい具合には処理されなかった。

「どういうことなのか、わからないんですけど」

「言っているおれも、よくわからない」

 そう答えて、榎本は失笑した。本当にわからないのだろう。だが、ジャーナリストとしての勘は働いているのかもしれない。

 蒼依は話題を変えることにした。

「FA0833はそこそこ広い区域だと思うんですが」

「うん」と榎本は頷いた。

「尾崎さんの話では、フェンスで囲われているということでした」

「確かに、そう言っていたな」

「どの辺から中に入るんですか?」

のうという集落があるようだが、その辺りから近づいてみよう。地図アプリで見ただけだから実際に行ってみないとわからないけど、少なくとも地図上では、車を途中に置いてしばらく歩けば、なんとかなりそうだ。あとはどうやってフェンスを越えるかだな」

「どのくらい歩くんですか?」

「十分から二十分、っていうところかな」

 徒歩の行程を泰輝の飛行能力に頼る、という案が浮かんだ。しかし、たとえ人里離れた場所だとしても、二人をそれぞれ左右の脇に抱えて一気に飛んでもらうにせよ、二往復で一人ずつ運んでもらうにせよ、それなりの距離ならば目撃される危険性がある。もっとも、フェンスを越える案件に関しては、泰輝の能力にあやかっても問題はないだろう。

 やがてコンパクトカーは国道461号に乗り、西へと進路を取った。山間部へと至るルートだ。

 話したいことは山ほどあるが、緊張のあまり、蒼依は口をつぐんだ。

 話題が尽きたのか、榎本も黙ってしまった。

 うつむいたままの泰輝も、口を開こうとしない。

 ほどよく冷房の効いた車内が、沈黙に包まれた。

 とりあえず、ここまでは順調だ。しかし、無貌教の陣営と思われる土地に足を踏み入れるのだから、安心はできない。

 自分はツキに恵まれている――とこじつけたくなった蒼依は、前回の生理が済んでまだ三日目であるのを思い出し、それを数少ない安心材料の一つに付け加えた。

 ――大丈夫、きっとうまくいく。

 蒼依は自分自身を鼓舞しつつ、流れ行く緑の景色に視線をさまよわせた。

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