第2話 取引 ⑦

 四年前の山野辺士郎事件において無貌教にとらえられた蒼依は、彼らの中に巫女のような白依姿の女たちと遭遇したという。瑠奈の様子を窺う女も巫女姿であり、もしかすると、蒼依がとらえられたときに世話をしていた女たちの中の一人なのかもしれない。もっとも、それらを引き合いに出すまでもない。二号車が襲われた時点で、瑠奈が無貌教によって拉致されたことは自明の理だ。

 ならば気になるのは、自分がここに連れ込まれた理由だ。それを考えられる程度に気持ちは落ち着いていた。

 瑠奈は背中を壁にもたれさせたまま、左右の足を伸ばし、両手を左右の太ももの上に置いた。そして、反対側のドアを見つめつつ考える。

 今のところ、逃げる手段は思いつかない。だがこのままでは連中に利用されてしまうだろう。おそらくは――。

「代理出産」

 瑠奈はつぶやいた。

 代理出産という形で純血の幼生を手に入れるのなら、無貌教はそれだけでは済まさないはずだ。育てなければならないのである。否、彼らにしてみれば、「調教」なのだろう。

 無論、瑠奈は協力するつもりなどなかった。しかし四年前、無貌教にとらえられた蒼依は、薬を飲まされて催眠状態に陥っていたのだ。あのときの彼女と同じ状態にされたのでは、蕃神の子を宿されるのは防げそうにない。薬での催眠状態など一時的なものに違いないのだから、少なくとも子育てに関しては拒絶できる可能性がある。しかし、「代理母は自分が産み落とした幼生に強い愛情を抱く」という説は、瑠奈自身が身をもって証明してしまった。最悪の場合、無貌教に強力な戦士を提供することになるだろう。

 同時に、このような思いにも行き当たってしまう。自分が帰省したばかりに矢作は殺害されてしまったのではないか――と。蒼依と恵美に何かしらの災難があれば、それも自分の責任になるのだ。コンパクトカーの男が現場に割って入ったが、彼が蒼依と恵美を救出してくれた可能性がある、と期待せずにはいられない。

 これ以上の犠牲を出してはならないのは当然だが、何をすべきなのかが、思いつかなかった。逃げる手段さえ、わからない。

 何か手がかりがあれば――と、瑠奈は立ち上がった。

 その外には見張りがいる、とわかりきったドアは無視し、ほかの三枚を調べることにした。三枚のうちの一枚目を目指して、時計回りに壁伝いを歩く。

 目指したドアの前で立ち止まった瑠奈は、そのドアに正面を向け、ややあとずさって見上げた。

 ドアの上の開口部は、横に五十センチ、縦に十センチ程度の寸法だ。たとえ届いたとしても、瑠奈が潜り込めるほどの間口ではない。その場で見回すが、あとの三つも同じサイズだった。

 開口部への期待は捨て、ドアノブを握った。やはり、押しても引いても動かない。耳を当ててみるが、物音一つしなかった。

 同じようにして次のドアも調べてみるが、結果は同じであり、三枚目のドアもしかりだった。

 見張りが立っていると知れる四枚目のドアは、ノブにふれる気もしなかった。とはいえ、会話でも聞けたなら機転になるかもしれない、と思い立ち、そのドアへと近づき、そっと耳を寄せた。

 男の声が聞こえた。男同士が会話しているらしい。

「そんでな、あの女はイクイクって言ったんだよ」

「おまえ、そんなにテクニシャンだったっけ?」

 意味がわからず、瑠奈はさらに聞き耳を立てた。そして、三十秒ほどが経ち、ようやくその会話が猥談であることに気づいた。呆れたというより恥ずかしさのあまり、ドアから後ずさってしまう。

 ため息をついた瑠奈は、反対側のドアに歩み寄り、その右側に腰を下ろした。先ほどまでのように背中を壁に預け、両足を伸ばし、両手を太ももの上に置く。ここならばあの猥談も耳に届かない。

 無貌教の信者にはやはり志などないのだろう。世の中を作り替える――そんな大それた夢を持っているのは、教団の一部にすぎないのだ。もっとも瑠奈は、そのいずれにも共感など抱いていない。

 ノックが聞こえた。いずれかのドアがノックされたようだ。少なくとも、瑠奈の左にあるドアではない。

 向かいのドアが開いた。一人の男が入るなり、外側にいる誰かがそのドアを閉じた。巫女姿の女が入ってきたときは、二度ともドアは開けっぱなしだった。ゆえに緊張を覚え、瑠奈はその三十前後の男を見た。

 男は自分が通った出入り口を背にして経っていた。長身であり、髪はうなじまで伸ばしている。黒い半袖シャツに灰色のスラックスという彼は、見知らぬ人間ではなかった。

「山野辺士郎」

 瑠奈はその名を口にしていた。

「四年ぶりだね」

 不敵な笑みを浮かべる士郎が、そう言った。

 座ったまま、瑠奈は士郎を睨んだ。

「いつまでこんなことを繰り返すんですか?」

「決まっているじゃないか……ぼくの望みがかなうまでさ」

 士郎の表情は変わらなかった。

「かなうはずがない」

 そう履き捨て、瑠奈は士郎から目を背けた。

 権力者を淘汰した平等な世界――などと聞こえはよいが、蕃神を崇拝する者たちが支配する世界を築き上げるのが、無貌教を率いる山野辺士郎のもくろみなのだ。

「かなえるさ。政治腐敗も貧富の差もあらゆる差別もない世界を、必ず作る」

「その世界って、弱者が報われる世界なんですか?」

「もちろんさ。今、言ったばかりじゃないか……政治腐敗も貧富の差もあらゆる差別もない、そんな世界なんだよ」

「でも、あなたたち無貌教の企てのせいで、何人もの弱者が命を落としたんですよ」

「裕福な家庭で育った君が、弱者のなんたるかを理解できるのかい?」

 それは事実かもしれない。どんなに自らを高めようとしても、ことあるごとに、世間知らずである自分自身に愕然としてしまうのだ。世の中のためと思い、蒼依が特機隊入隊を目指すのなら自分は医師として輝世会成員になる――そんな志を持ったつもりでいたが、つまるところ、山野辺士郎と変わらない、というわけだ。

 そんな感慨に憤り、瑠奈は声を荒らげてしまう。

「論点を逸らさないでください!」

「やっぱり、君はお嬢様なんだよ」

 人を見下すこの態度は相変わらずだ。しかし、士郎の言い草に頓着している場合ではない。瑠奈は気がかりな問題を口にする。

「蒼依と尾崎さんをどうしたんです?」

「さあ」士郎は首を傾げた。「ぼくのしもべは、二人が車に乗って現場を立ち去るところまでしか見ていないけど」

 士郎のしもべなら、おそらくはカラスだろう。そのカラスの目を通じて、士郎はその場の様子を把握できるのである。

「助かったんだ……」

 そう結論づけたかった。

「そのあとはどうなったのか、そこまでは知らないけど、とりあえずは安心してよさそうだね」

「あなたたちは二日前に、幼生を使って一般の人を襲いました。そんな鬼畜に言われたって、安心なんてできるはずがない」

「ああ、あれね」士郎は言った。「空腹のままだと機嫌が悪くなるから、適当に狩りをさせただけさ。あの辺には特機隊の監視カメラがあるようだけど、狩りの現場はそこから外れてしまったらしい。ぼくはしもべのおかげで狩りの様子を見ることができたんだが、君たちに披露できなくて非常に残念だよ」

「ふざけないでください」

 瑠奈は眉を寄せた。

「そう怒らなくてもいいじゃないか」士郎は肩をすくめた。「君とは仲よくしたいんだ」

「つまり、わたしを利用しようと思っているわけですね。以前もそうだったように」

「そうだよ。今度こそはお互いに協力し合って、成功させよう」

「わたしはもう二度と、蕃神の子を代理出産しません」

 瑠奈は言いきった。泰輝以外の幼生を生むことはもうない、ということだ。

「ああ、かまわないよ」

 意外な言葉だった。それを口にした士郎は、やはり表情を変えていない。

「何を企んでいるんです?」

 士郎の考えが読めず、瑠奈は疑問を投げつけた。

「教えてあげよう」

 そして士郎は、瑠奈に正面を向けたまま、横目で背後を意識する、という所作を見せた。

「さあ、連れてきたまえ」

 明らかに、ドアの外の何者かにかけた言葉だった。

 ドアが開き、巫女姿のあの女が姿を見せた。一礼をした彼女は、ドアの内側に入ると、ドアを開けたまま横にのき、うつむき加減の正面を出入り口の手前に向けた。

 出入り口から入ってきた者が、巫女姿の女の前を通って士郎の左側に並んだ。肌が浅黒い、五歳前後の男児だった。半袖半ズボンにトレッキングシューズ、という出で立ちである。

 瑠奈は目を見開いた。言葉にならない。

「こういうことだよ」

 そう告げて、士郎は失笑した。


 瑠奈の消息がつかめないまま夜が明けた。

 午前四時四十八分――日の出の直後だ

 管制室での夜勤に就いていた佐川は、通知アラームにて敷地内のセンサーの一つに人体反応があるのを知った。通知アラームは警戒アラームとは異なり、音が小さい。内部の者がそこにいるだけでもいちいち反応するのだが、無視するわけにはいかず、同位置をとらえるカメラの映像をモニターに表示させた。

 佐川はモニターを凝視し、あっけにとられた。Tシャツにジーンズという姿の蒼依が、体操をしているのだった。

「何やってんだ?」

 朝のラジオ体操にしか思えなかったが、ならば第一別宅の前や前庭など、日当たりのよい場所でしそうなものだ。しかし彼女がいるのは、本宅の裏である。日差しを気にした可能性も否めないが、何せこの早朝だ。加えて、蒼依は早起きが苦手、と聞いていた。よくよくみれば、体操にいそしむ蒼依の近くには、一つのリュックが置いてあった。

 それにしてもセンスのない体操だった。高校時代は特に部活をしていなかった蒼依だが、瑠奈によれば「運動音痴ではない」という。それでもこのざまだ。

 噴き出すのをこらえてモニターから目を逸らそうとしたが、佐川はやはり得心がいかず、その様子を凝視する。リュックがあることから、どこかに出かけるつもりでいるのかもしれない。だが、今は非常事態であり、蒼依だけではなく、真紀も藤堂も住み込みの家政婦も、特機隊の警護なしでは外出できないのだ。

 自室で待機休憩中の小野田に連絡を取ろうと、佐川は机の上のスマートフォンに手をかけた――そのとき。

 モニターの映像に第二の人物が現れた。本宅の勝手口のほうから画面に入ってきたのは、蒼依と似たような出で立ちの、泰輝だった。

 体操をやめた蒼依が、リュックを拾い上げ、それを泰輝に手渡した。そして泰輝がそのリュックを背負うと、突然、蒼依は監視カメラのレンズに正面を向け、深々とお辞儀をした。

「え、何がどうした?」

 レンズ越しに頭を下げられて、佐川は困惑し、まばたきを繰り返した。

 しかしそれだけでは済まされなかった。小野田への連絡を忘れたまま見ていると、あろうことか、泰輝が蒼依を横抱きに抱き上げたのだ。

 見鬼の異性との交接を望む、という幼生の習性を想起し、佐川はモニターに向かって半身を乗り出した。

「だめだ二人とも! 越えてはならない一線だぞ!」

「朝っぱらから何を言っているんだ?」

 振り向けば、訝しげな色を呈した小野田が、ドアを開けたまま立っていた。

「いや、あの……小野田隊長、ちょうどよかった。蒼依ちゃんが、泰輝くんに犯されてしまうというか、二人が逢瀬を楽しんで……いや、ラジオ体操なんですよ」

 状況を的確に報告しようとしたが、言った本人にさえ、意味がわからない言葉だった。

「はあ?」

 得心がいかないのはもっともだろう。小野田はドアを閉じて佐川の横に来た。

「蒼依ちゃんと泰輝くんが」と言って佐川はモニターを見るが、そこには蒼依も泰輝も映っていない。「二人が映っていたんです。本当です」

「いいから、録画をチェックしてみろ」

「あ、そうか」

 ようやく我に返り、佐川はキーボードとマウスを操作した。

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